3.Abuku in Tideland.
ニッポンバシオタロード。
狂乱の大勝利都市・トライアンフオーサカの持つ西の経済本拠地、物流大本営、革新的育脳教育ネットワークとしての顔の、そのまたウラの顔とも言える、雑多な文化が繁殖する混沌地域。昔ながらの中小零細電機店や印刷屋、工具器具備品店、家族経営の町工場。
その労働者向けの安い飲食店に酒場。そして慰安をもたらす健康サロンや宅配的派遣業。
それらが隆盛を誇っていたのは戦争直前まで。荒廃したトライアンフオーサカの都市再生計画では、それらは殆ど残されなかった──
もっとも、資材も原料も限りなく入手困難となったことで、戦争で焼けたり行政に潰されたりしなくても存続は難しかっただろうと思うが……。そして代わりに隆盛を極めているのが、イニシエのコミックやコンピューターゲームソフト、音楽や映画のレコードなどをはじめとするレトロメディアに特化したニューレトロ電機街文化だった。
初めは焼け残った喫茶店の店主が営業を再開するにあたって、趣味で膨大な数、収集し続けたアナログレコード盤に刻まれた名曲の数々をBGMとして流し始めたことにあった。
やがて音楽を求め文化に飢えた人々はその店で憩い、一人また一人と集まって来ては各々がレコードを持ち寄って共に過ごすようになった。さらに或るものは自らも店を開き、またそこに集い、さらに数年を経て賑わいを取り戻すと往来の至る所が蛍光色の液体照明で満たされたフレキシブルチューブや、敢えてショーワと呼ばれた年代を意識したネオンサインで飾られるようになった。
そんな往来に旧時代のメディアに刻まれたレコードを並べたり鳴らしたりする店がひしめき合う様相を呈するようになったことで、誰が呼んだか音楽オタク、ゲームオタク、読書、映画、アニメ、漫画に小説あらゆるオタク。それも戦前のオールドメディアを好むオタクが集う、オタクの道を究めたい人たちの場所。
それが通称として定着したのがニッポンバシオタロード。
だ、そうだ。
ぶらりと降り立った白昼のニッポンバシオタロードには真夏の強烈な陽射しが悪意を持って降り注ぎ、ぎらつくアスファルトから湿った空気が立ち昇ってゆらりと揺れる。
「お兄さん、かっこいいね!」
そんな干潟のような往来で不意に声を掛けられて、振り向くとそこにはオールドスクールなメイドさんがチラシの束を小脇に抱えて微笑んでいた。
みんなが思い描くメイドさんの、もっと古めかしくて、ちょっと上品に感じるタイプのメイドさん。
黒いショートボブに透き通るような白い肌、明るいルージュを引いた可愛らしく丸っこい唇から発せられる、まるでアニメのヒロインみたいに高く澄んだ声。クリっとして黒目の大きな瞳。ツンとしたオトガイ。
真夏だというのにしっかり着込んだ衣服の上からでもわかるほど豊かな胸のふくらみと、長いスカートを揺らす小股の切れ上がった脚。
「ねえ、お暇ですか? 良かったら一服してってよ」
敬語とタメ口の混じりあった不思議なしゃべり方が、いかにもメイドさんな感じがしなくて、そこも良かった。つまり
「か、かん……完璧だ」
「???」
瞳をクリっとさせたまま首をかしげるメイドさん。暑いし、チラシも減らしたいだろうし、早く空調の効いた控室に帰りたいだろうし、立ち話なんかメンドクサイだろうし、蒸れた腋の下や下着の中もクサイだろう。どうしよう、どうしてもそれが確かめたい。
嗅ぎたい。
「君、な、名前は……?」
「あぶくちゃん!」
顔をぎゅっとほころばせて、あぶくちゃんと名乗った彼女が微笑む。そのオトガイに垂れた汗がぎらつく陽射しを浴びて輝きながら、舗装された干潟にこぼれて乾く。
「あぶくちゃんか……可愛いなあ」
「ありがと、お店きてね!」
じゃね、はいこれ! とB4サイズの紙きれを僕に握らせると、あぶくちゃんは陽炎の踊る干潟のような往来をひらひらと去って行った。きっとまた次の疲れた物欲しげな男に、この手書きのイラストと地図の入ったチラシを配りに行くのだろう。
黒髪ショートボブのクラシックなワンピースメイド服に身を包んだあぶくちゃん、と名乗る女の子がくるくる回ってケラケラ笑っている。
うだるような暑さの往来で無数のメイドさんがたむろしている中に、彼女が紛れている。そこにグングンとピントが合って行き、目が合うとゆらめく陽炎の中でニッコリ微笑んだ。
悪魔のように美しく、悪夢のように遠ざかる、妖しい、やらしい、あぶくちゃん……。
(また、会いたいな)
そう思うと居ても立っても居られない。気が付くと夕暮れのニッポンバシオタロードに佇んでいた。
さっきまでの熱気、陽射し、眩しい光があふれ出しそうな真夏の白昼夢みたいな往来がガラッと様変わりして、まるで燃え上がる夕焼けに押しつぶされた影絵のような街並みに明かりが灯り始めている。その窓の黄色や赤や青、ピンク、紫の光と、空で混じり合う濃いオレンジ、黄色、赤、ピンクや紫の雲のグラデーションが重なり合う夏の夕暮れ、ニッポンバシオタロード。
この狂乱の夕暮れ時に、ネオンサインやチューブライトが絡みつくように光り、混沌の街は帳を降ろし密やかな愉悦を含んだ微笑みを漏らす。
あぶくちゃんと出会ったのは、よぼよぼの爺さんが無許可で焼いてるイカ焼きの露店が出ている(コレがまた安くてンマいんだ)角っこを曲がってすぐの通りだったな。メインのサカイスジから一本入った、少し静かな、だけど深みに入った感じのする場所だった。
カサっと手に持ったフライヤーをピンク色のネオン管で照らして読んでみる。可愛い文字と凝ったイラストで描かれた地図はすこぶる分かりづらくて、今自分が何処に居て、何処を目指せばいいのかサッパリわからなかった。こういう時は……。
「なあ、アンちゃん!」
「ええ!? あ、はい?」
僕は、今まさに僕の目の前をササっと通り過ぎようとした、大柄で太り気味で、眼鏡をかけた気の良さそうな青年に声をかけた。青白い顔色をして、黒くモッサリした頭髪と青系のチェックの半袖シャツに色褪せたジーパン。彼はビクっと跳ねて、観念したように振り向いて僕から目をそらした。
西暦で言うと1980 年代後半から資料に頻出するオタク仕草という奴だ。
「このお店、知ってるかな。あぶくちゃんを探してるんだ」
「あー……ッスー(歯の隙間から息を吸い込む音)」
太っちょ眼鏡君はレンズの汚れた眼鏡をクイクイしながら地図を眺めて、スイっと顔を上げると、人差し指をピンと立てて少しトーンの上がった声で答えた。
「このお店なら、もうすぐですね」
「そうなのか、有難うよ」
しかしまあ、よくこの地図が読めたもんだ。余程この辺りには詳しいと見える。
「よし、礼をしよう。一緒に行こうぜ」
「え、でも、あの」
「まあまあ、袖すり合うのも他生の縁、って古い言葉があるだろ」
嫌がっているというよりも人見知りとコミュ障を同時多発的に発揮しているらしい太っちょ眼鏡君を促して、日暮れのオタロードを歩き始めた。ポンと叩いた分厚い肩口のシャツが少々、湿っぽい。
「日が暮れても暑いねえ、お店に付いたら冷たいコーヒーでももらおうか」
「あ、あの」
「ん? コーヒーは嫌いかね。じゃあ紅茶にするか。ああフライヤーにメニューも書いてあるな。バナナジュースは好きか?」
「えと、あの、はい好きです」
何か言いたそうだが質問には律儀に答えてくれるところが気に入った。
「あんちゃん、いいヤツだな。僕はマノって言うんだ」
「ぼ、ボク、サンガネ……です」
「サンガネか。変わった名前だな。よろしくな、サンガネ!」
「ど、どうも……でも、あのボク、あの」
「ん?」
「あの、お店、行くところあるので」
「ああ、そうみたいだな。でも礼ぐらいさせてくれたっていいだろう。あぶくちゃんに会わせてくれたら、それでいいんだ僕ぁ」
「え」
「言ったろ。昼間この辺りで、あぶくちゃんて可愛い女の子からもらったんだよ。このフライヤー」
キョトンとするサンガネに可愛らしくてわかりにくい地図と文字の詰まった紙切れをひらひらを見せる。
「だから、会いに行くんだ。可愛いんだぜ、あぶくちゃん。知ってるか?」
「え、ええ。知ってますよ。この通りじゃちょっとした有名人だし、推してる仲間も何人か居るし」
「ナニ? そうなのか。……そいつら一人ずつ殺さなきゃ」
「え、ええ!?」
「冗談だよ。本気なら口に出さねえって」
「それが冗談に聞こえないんですよ」
「お、言うようになったねえ。もしかして警戒してた? ごめんな急に」
「あ、はい。実は……」
話を聞いて見ると、どうやら何かの店や団体の悪どい勧誘と勘違いされていたらしい。まあ、こんなナリだ。ヨレたストライプの背広に黒いロングヘアーを雑に括っただけのボサボサ頭。兄さんに似て顔も派手だし、悪目立ちしているのかも。……待てよ。悪目立ちというか、この派手な街ならむしろ
「なあサンガネ。僕、派手かなあ?」
「あ、ああ。はい、あの、派手だと思います、よ」
「そうか」
それならそれでいい。この街には、フツーの奴ってのがそもそも居ないんだ。じゃあどんな格好するかと言えば、珍しくても埋もれちまわないような程度の格好してる方がいいだろう。
「でサンガネ。君の行く店ってのは何処にあるんだ」
「あぶくちゃんの居るお店のすぐ近くです、レトロドールって言うんですけど」
「古いレコードとかテレビゲームの店かい?」
「まあそうですね」
「て事ぁ可愛い女の子も居るんだな」
「まあそうですね」
「他にもそういう店があるのか」
「まあそうですね。アウターヘイヴン、マザーズデイ、ムーンサイド、桃園亭、いろは……」
「じゃあ、あぶくちゃんの居る店は? コレ読めねえんだ」
丸っこい字で精いっぱい可愛く書いてあるお陰で読みづらいフライヤーの店名を指で弾いてサンガネの答えを待った。
「ああ、あの看板ですよ。カフェ・ド・鬼」
「カフェ・ド・鬼」
今度は僕がオウム返しをして、夕暮れの空にそびえる雑居ビルの宇宙ステーションを見上げた。そこには無数の看板が巨木に群がるツキヨタケみたいにニョキニョキ生えて夕間暮れの空に向かって光り始め、その中の一つに黒地に赤い文字で
Cafe de 鬼
と書かれているものがあった。あそこか。
憧れのヒロイン、あぶくちゃんの勤めるオールドレコード・カフェ
「Cafe de 鬼」
は、ニッポンバシオタロードにそびえる雑居ビルの三階にあった。ここまで道案内をしてくれたのは、僕が僕の傍らを偶然通りかかったところを呼び止めたサンガネと名乗る太っちょ眼鏡で気のいいOTAKUな青年だった。
夕暮れ時のニッポンバシオタロード。酔客と酔狂の入り乱れた混沌が流れゆく往来に客を招く女の子たちと、招かれるOTAKUな男子たちと、招かれざる客の見るからに乱暴な見るからにイキっている連中。
細身に見える暗色の安い背広を来たチビがリーダー格。その両隣には、それぞれ大柄でドレッドヘアに顎髭のマッチョメンと、ヒョロ長で真夏でも皮のコートを着込んだ長髪色白の殺し屋みたいな奴が控えている。
イキりチビは往来に面したビルの前で、フライヤーを片手に抱えた黒いフリフリゴスロリワンピースに黒いボブヘアー、赤いカチューシャ、黒いタイツに黒い皮のブーツを履いたあぶくちゃんに何やら詰め寄っているようだった。
ん?
「あぶくちゃん」
と僕が彼女の名を呼ぶのと、彼女の前に立ちはだかるゴミ虫三匹に向かって走り出すのが殆ど同時だった。後ろでサンガネが何か言っているが、もう僕の耳に届くべき音はふたつ。
このゴミ虫どもの悲鳴と、肉体の砕ける音だけだ。