2.Light My Fire.
結局ダイゴローさんと話し込んで夜更けまで気分よく酒を飲み、ふらつく足で店を出た。コンクリート造りの地下通路に出ると流石にヒヤリとした空気が心地よいが、やはり湿っぽさが勝ってすぐに汗が垂れる。ヤニと香水とアルコールの匂いが混じり合い染みついた、BARプカプカの空調の匂いが早くも愛おしい。
折角だから、他のお店も覗いてみようか。
上機嫌でそう思って回廊を一回りしてみるが、開いているお店もあまりなく。階段を上がって二階へ。そこも殆どが空きになっているが、うどん屋さんだけが営業している。
他の飲み屋さんのドアではなく、そこだけ木造の引き戸になっていて暖簾がかかっている。年季が入り過ぎていて、なんて書いてあるのか全くもって読めないけれど。
三階へ上がると、ここも開いている店が一つだけ。真っ赤なドアに黒ペンキで書き殴られた店名が擦れて読めないが、問題なかろう。ガチャリとすり減って鈍い金色に光るドアノブを回し中を窺う。
薄暗い店はプカプカよりもテーブル席一つ分狭く、左手の壁に沿うように低いソファが置かれていた。ソファのひじ掛けからはみ出した黄色いワタから右へ視線をパンすると、カウンターに椅子が5つ。そのうち一番奥の一つは衣服らしきものがかけられていて、空いている席は4つだ。カウンターの奥にはロングヘアーを濃い緑色にした、爬虫類のような顔のバーテンダーが立っていてコチラを向いた。鋭い目つきと口元が冷血さを思わせるが、
「いらっしゃい、どうぞ」
意外と愛想は良いようであった。
「お兄さん、よく来ましたねえ」
「いやあ、下のプカプカさんで飲んでたんだけどね。他も回ってみようと思って」
「それじゃ、このビルは初めてですか。それで此処まで来てくれたんだあ。うれしいなあ」
爬虫類バーテンは人懐っこい男のようで、小さな使い捨てのオシボリと豆類の入った小鉢を出しつつ
「何にします?」
と聞いた。僕は少し酔っていたが、この男が何となく気に入っていたので
「お兄さんのオススメでいいよ。お兄さんもイッパイ飲んでよ」
と、カウンターの正面に腰かけて注文をした。
「なんでもいいなら、何にしようかな」
顔に似合わず上機嫌で冷蔵庫やボトルの並ぶ棚を眺めながら、パタパタと爪先を鳴らしてバーテンが酒を用意しているのを、僕もなんだか楽しく見つめていた。と、
ガチャ!
背後からドアの開く音がした。店の入り口ではない、奥からだ。
反射的に椅子から跳ねるように立ち上がり振り向いて身構えると
「イヤーーーーもぉーー!」
そこには腰まである長い髪の毛をどぎつい真っピンクに染め上げ、顔や露出の多い衣服から見える臍に無数のピアス、そして全身をタトゥーで覆った若い女の子がビックリして、羽ばたくペンギンのように両手をパタパタさせているところだった。トイレで手を洗ったらしく、水しぶきが飛んできた。見た目に寄らず清潔な人らしい。
「あ、ごめんなー。水かかってんなあ、いまおしっこしたから、アタシ。アハハハ!」
2秒前まで半泣きで手をパタパタしてたのが、もうケラケラ笑っている。ほとんど太ももから下が見えている白いホットパンツと、胸元に赤いロゴの入ったスポーツブラみたいなグレーのタンクトップ。これだけなら至極地味で部屋着にも見えかねないのだが、いかんせん着ている本人が派手過ぎるので、このぐらいがちょうどいい。
「おお、やっと出たか。長いションベンやったな」
「もぉホンマ計らんといてーおしっこの時間とか」
「お客さんの前で初対面の一言目がおしっこやねんから酷いバイトやでホンマ」
「あ、ココの女の子なんだ」
「そぉー、でも今日は飲みに来てただけー」
「ヒマやったら働け、言うたったけど今日は店もヒマでね」
ハッハッハ、と気分よく笑う二人を見ていると、こっちも楽しくなってくる。良い夜だ。
「じゃあ、えーと、お姉さん?」
「はーい」
「お姉さんにも、何か飲んでもらおうよ。ねえ、お任せでいいので」
「ありがとお、ほな私アイスティー割り!」
「そんなんあるの?」
「えーめっちゃ好きよ? アタシ」
「じゃあ僕もアイスティー割りで」
「いえーいお揃いー!」
「おそろーい!」
「なんや仲ええな、ほなボクもアイスティー割りにしよ」
「えー真似せんといて!」
「なんでボクはアカンのよ!」
ワーワー言っているうちにアイスティー割りが三つ出て来て、みんなで乾杯した。
「あ、ホントだ。コレは飲みやすいね」
「やろー、アタシいつもコレやねん」
結局ここでもアイスティー割りを数杯飲み、派手な店主と派手な女の子の夫婦漫才さながらのやり取りをサカナに心地よく酔った。
カウンターの椅子からソファに移動して、深く沈み込みながら気分だけを浮遊させているとピンクの彼女が何の前触れもなく振り向いて僕に尋ねた。
「お兄さん、このあとどうするん?」
「僕かい? 僕はネエ、兄さんを探すんだ。ニッポンバシオタロードに行こうと思って」
「そうなん!? え、生き別れとか?」
「まあそんなとこだね」
「アタシん家、オタロ近いで? 泊ってく?」
「えーいいの? じゃあ行っちゃおうかな」
爬虫類のようなバーテンは気配を消して、聞かぬふりをしてくれているようだ。
「お言葉に甘えて、お邪魔しまーす」
「いえーい、じゃオウドンしてから行こ!」
「ご馳走様、じゃあチェックで」
「はい、いやー楽しかったですよ。また来て」
「ええ、是非。僕もいい夜でした」
散々ぱら飲んだつもりだったがビックリするほどお値打ちな会計を済ませて、店を出るとピンクの彼女がコッチコッチ、と飛び跳ねるように先を走る。
薄暗い、半分廃墟のようなビルで真夏の真夜中、全身ピアスとタトゥーで埋め尽くされたピンク色のロングヘアーをなびかせた女の子に導かれて行く先なんて、普通で考えたら地獄か悪夢のどっちかだろう。ああ、そういえば──
「ああ、そういえばお姉さん!」
「え、なあにー?」
ふらつく足で踊るように小走りしながら振り向いた彼女は、そのまま羽根のようにフラーっと回転してスッ転んだ。
冷たいコンクリートの床にスペーン! と綺麗に寝転んだ彼女が大股を開いたままキャハキャハ笑って足をバタつかせるので、ホットパンツの裾から紫のツルツルした下着が丸見えだ。いや、その下着からはみ出た黒く毛足の長い剛毛までもが、白すぎて青く見える蛍光灯に照らされてハッキリ見える。
「オイオイ大丈夫かよ」
「あはごめーん、で、なんやったん?」
「お姉さん、お名前は?」
僕は彼女を抱き起こし、よっこいしょ、と立たせながら訪ねた。タバコと香水と、剥き出しの腋の下から少しツンとする匂いがしてドキっとする。
「アタシ? そういえば名前知らないね、ウケるね!」
アハハハ、と手を叩いで笑いながら、彼女はそれには答えずにフラフラと歩いて階段を下りてしまった。あとを追い掛けると、コッチコッチと手招きしているのは、さっきのうどん屋さんだった。
「ココめっちゃ美味しいねんで!」
「そうだったの、さっき入らずに上がってきちゃったんだよ」
「こんばんはー!」
カラララ、と軽快に開く引き戸の奥も温かみを感じる和風の装いで、カウンターだけの小さな店だが、完全に昔ながらのうどん屋さんである。まるでここだけ別空間に来たようだ。
ぼんやりと周囲を眺めていると、瘦せ型だが体格の良い、うどん屋さんというよりキックボクサーのような雰囲気の店主の男がぬっと出て来て、愛想よくオシボリとお冷を出してくれた。
「いらっしゃい、今日は何する?」
オススメするだけあってピンクの彼女は
「梅こんぶ! かすマシで!!」
と即答した。
「はいよ、そちらのお兄さんは?」
「じゃあ、僕も同じで!」
「はいありがとうございます、少々お待ちくださいねー」
背の高い店主が厨房の中で少し背を屈めるように麺を茹で、丼とツユとトッピングを用意し始めた。店内には低いボリュームで古い洋楽が流れている。
「梅こんぶめっちゃ美味しいねん。かすマシにせなアカンでー」
「僕も飲んだ後だしサッパリしたもんが欲しくってさ、ちょうどいいやと思って」
「そやねん、〆にはココのオウドンが最高やで!」
椅子に座ると先端が地面に付いてしまいそうなほど長いピンクの髪の毛を、何処から出したのかクシで梳いたり縛ったりしていると
「はいおまち!」
もう出て来た。ほかほかの湯気の向こうには透明なおつゆに浮かぶ太く白い麺。まんべんなくたっぷり散りばめられた油かす。そしてとろろ昆布の山がこんもりと盛られ、その頂に梅肉が鎮座して紅色の微笑を投げかけている。
「かすうどん、好き?」
「いやあ、初めて食べるよ僕」
「まじでー! 初めてがココとか、よその食べれへんよ?」
カウンターの奥で店主が照れ臭そうにしている。
「美味しそうだなあー」
「めっちゃ美味いで、はよ食べ!」
「ああーいい香り……いただきます」
お腹の中に入る前に、酔った知覚に染み渡るダシの香りがたまらない。早速テーブルの壺のなかから割り箸を二膳取り出して、一つを彼女に手渡し、もう一つをバキッと割って丼に差し込む。うどん、とろろ昆布、梅肉が絡みつき、油かすも一緒に幾つか掴んでそのまますすり込む。
「いただきまーす」
隣で彼女も食べ始めた。形の良い唇には派手なルージュが引かれていて、ピアスだらけの耳や鼻、眉間までが店の照明で星座のようにキラキラ光っている。それがうどんの湯気でほんのり霞んで、唇をすぼめて麺をすする彼女の横顔をうっすら隠す。
「美味しいなーこれ!」
初めて食べるかすうどんは、彼女の言う通りメッチャ美味しかった。
うどんのダシと、油かすの脂と旨味が混じって、そこにこんぶの塩気や梅のエキスがさらに乗る。何とも言えない複合関節技のような味わい。ハマると抜け出せなくなりそうだ。
「やろー、アタシもうココでしか食べへんねん」
「ああー美味しかった!」
「え、もう食べたん!?」
彼女が思わず早口になってしまうほど、僕はあっという間に平らげてしまった。値段のわりに大きな丼で、しかもなみなみ一杯入っているからお値打ちを通り越してボリューム満点なのだが、こんなに美味しいと早くもなる。
それに、食事に時間をかけないのは兄さんと一緒に居た頃からの習慣みたいなものだ。
「ごめんね、いやあ美味しいから、つい。ゆっくり食べてね」
「んー、待ってなー」
ピンクの長い髪の毛を左手でかきあげて、右手の箸で麺をすする。んがっ、と開けた口に箸で掴んだ麺を運ぶ時に、ちょっと舌がお迎えに行っている。でも箸の持ち方はとても綺麗だ。きっと育ちがいいんだな。
「ちょっとー、そんな見んといてよー」
「え、ああ。ごめんごめん……可愛いなーと思ってさ」
「やだもお、褒めてもなんも出えへんよ」
彼女が美味しいかすうどんを平らげるのを待って、会計を済ませて店を出た。
さっきのお酒のお礼に、と僕の分まで彼女が払ってくれた。
二人して夏の真夜中、むせかえるような湿度のなかを並んで歩く。遅くまで営業している店、人、タクシーにトラックに自転車までしっちゃかめっちゃかになって狭い路地と交差点で入り乱れている。
「このままミッテラスジをまーっすぐ行ったら、もうサカイスジやから。オタロは、もうちょい南の方やけど」
「そうなんだ。近いんだね」
「お兄さんのおにーさんも、せやからココ住んでたんちゃう? ……お兄さんのおにーさん、やて。ヘンやな! アハハ」
「ホントだね。僕はマノって言うんだよ。兄さんの名前はウノだよ」
「あーー! うそお。そや似てると思っててん。ウノさんめっちゃいい人やったわ。お酒おごってくれるし」
まったくあの人ったらしめ、抜け目がないなあ。
「兄さんは美人が好きだから」
「えー、そんな私ブスやし」
「そんなことはないよ。ちょっと派手だけど素敵だよ」
「マノさんもたいがい人たらしやなー」
「そんなことはないよ。兄さんとは違うさ」
「ウノさんとおんなじこと、言うてんねんいまー」
まったくあの人ったらしめ、よく似ているなあ。
雑居ビルと高層ホテルの間のアルコールと生ごみとドブの乾いた臭いの染みついた湿っぽい地面を生ぬるい風が吹き抜けてゆく。時々ざっと降る驟雨で濡れたアスファルトが乾ききる前にまた濡れて、その湿った地面にネオンやヘッドライトが反射して光る水溜まりの上を、ピンクの髪の毛をなびかせて、跳ねるように彼女は歩いてゆく。
時々その髪の毛の向こうに、グレーのタンクトップの腋の下が汗を吸って黒く変わっているのが見える。匂いたつ彼女の蒸れた腋と素肌を想像して、呼吸が少し乱れて視界が揺れる。
ミッテラスジは酔客と客引き、呼び込み、立ちんぼ、逃げる奴と追い掛ける奴。と、色んな酔っ払いが狭い路地でひしめき合う、とても居心地のいい場所だった。
誰かの甘いタバコの煙と、店先で拵える焼き鳥のケムリが混じって、嬌声やグラスの割れる音、誰かの怒鳴り声が重なって聞こえる。多重録音、多重再生、多重人格の眠らない町。右も左も酔っ払い。夜空まで届きそうな喧騒と灯りが消えることなく延々と繰り返される。
この殆ど壊れかけの世界のいったい何処に、これだけの人間が隠れていたというのだろう。そのぐらい、オーサカの街は賑やかで、この超現実的な非日常を行ったり来たりする感覚が、じっさい僕は好きだった。
良くも悪くも長閑なド田舎も、良くも悪くも賑やかな繫華街も、結局そこにいる人間の営みは同じだし、どんな仕事もお店も人間がやっているのだから。
「マノさあん」
「はあい?」
「三点倒立すんねん今から、見ててな!」
「は!?」
「どこも行ったら嫌やよ? 見ててな!」
完全に目が座っている。顔は笑っているが目はどこも見てはいない。言ってる間に、既にうっすらと濡れた地面に手をつき頭もつけて、躊躇うことなく地面を蹴って、彼女は見事な三点倒立を見せてくれた。
スイーっと彫刻のように伸びた両足が瑞々しく、実に蠱惑的だった。太ももの付け根に大きなタトゥーの片鱗が見える。大きく広がった裾から覗く紫の下着が、ツルツルとした光沢を放つ。
「どぉー!?」
「うん、見事だ!」
「せやろ、もっと極めたいねん倒立」
「どっかもっと変わった場所でやるとか?」
「んーーそれもやけど、もっと綺麗に立ちたい!」
色んな事に情熱を燃やす人が居るもんだ。
「こんだけ喋りながらずっと真っすぐ立ってるんだから、全然じゅうぶんだよ」
「え、まじー?」
逆さまのまま、心の底から嬉しそうに笑う彼女の姿が、湿った地面の水溜まりにうつって揺れた。
やがて地面に足を降ろした彼女と再び並んで歩き始めてすぐに、彼女の住む古いマンションに着いた。青白く光るタイルが目印の、二十世紀終盤あたりに建てられたらしき外観をした細長い物件だ。
「ココー、ほなコッチ」
夜空に向かって伸びた細長いマンションを見上げていた視線を、声のする方に戻した。
フローリングに直接敷かれたマットレスで目を覚ますと、窓の外は随分と日が高くなっていた。
耳鳴りがするぐらい、いい天気だ。彼女は僕にお尻を向けたままスースーと寝息を立てている。
もしかすると彼女が起きるだろうか、と、わざと大きな動作でギシギシとベッドから降りてみたが、まるでこの世の全てを忘れ去ったかのように、白目を剥いて涎を垂らした恍惚の寝顔を見て、そのまま起こさずに出てゆくことにした。