閃光の流れる通路
そろ、そろ、と溝鼠が猫の傍らを通り過ぎる。すでに尾は無い。噛み千切られたようなその跡には、凝固した血の黒い赤がこびり付いている。
雨が喧しかった。僕は雨粒を切り裂こうと睨んだけれど、それは薄汚れた煉瓦の石畳を強打するだけで水はひたすら流れていく。溝に、地形に従って、そのまま排水溝の網へとひた落ちる。
「嗚呼、なんて鬱陶しい。」
彼女は雨に埋もれていた。町の喧騒をも打ち消す豪雨の中で、人気の無い路地裏の隅に毅然と横たわっていた。薄暗い空の下で白い肌が浮いている。女性らしい金髪が水流に沿って波を打つ。全身で抱きしめるように持っているのは、ドレスのように真っ赤な傘。誰をも魅了したはずの美しい瞳は遠く虚ろのままだ。
僕は黒い傘を広げ、水溜まりを弾きながら彼女に近づき、その真後ろで足を止める。ポケットに片手を突っ込んだまま、横たわる彼女を真上から見下ろした。絵画のように整った横顔。そこにあるのは無情の綺麗なだけのアンティークドールで、青い眼は未だ焦点が定まらない。
「うつろうなよ」
雨にまぎれて、ふ、と彼女に言葉を落とす。薄紅色の小さな唇が微かに反応した。
刻々と、ビー球ほどの大きさだった雨粒が、夜風に砕かれるように霧へと変わっていく。時代錯誤な街灯が点滅して、廃墟の影に隠れた鼠の目を惑わせる。湿気が肌にまとわりついて、夜露がひとつ、ふたつと、毛先から水溜まりに吸い込まれていく。そんな万象の片隅で、眠っているのか泣いているのか分からない濡れた人形が、一人、
「どうしようもなくなるの」
旋律の声を発した。
「それはわがままだ」
僕は一瞬動揺する。
「自虐的ね、悲しい人」
か細い音は放たれると同時に霧散して、
「そうしないとやっていけない事もあるんだ」
それでもなお、真っ直ぐに僕の鼓膜を揺らした。
「例えば?」
「貴女、とか」
彼女は眉をひそめて小さく笑った。冷たく無表情に思われたその顔が、微かに色付いて赤みを増したように見えた。今触れれば、彼女は人のぬくもりを持つだろうか。さっきまでは人間とすら感じられない置物だったのに。
(今、触れれば、彼女は、)
重々しい鐘の音が鳴る。遥か町の中心部から、時を告げる声が響く。霧は箒で払われるように退き始め、気が付けば赤煉瓦の町並みが霞の向こうに連なって見えた。それでも空は未だ濃灰の雲に蓋をされているようだ。見上げるだけでも気が重くなる。
「赤い傘は、誰かの形見なの」
視線を下ろすと、彼女は仰向けになって僕を真っ直ぐ見つめていた。数刻前とは打って変わり、その瞳は深い海を感じさせる生きた青をしていた。
「誰かが、此処に、寝そべって、こうしてこの傘を抱いていたの。女性だったかも老人だったかも忘れちゃった。けれど、その誰かはすでに虫の息で、寝ているんじゃなくて体が動かないだけなんだって気付いた。私が一歩近づいた途端、誰かは息もしなくなったわ。あの人は何をしていたのかしら。どうして傘を抱いていたのかしら。何を考えていたのかしら。一体、誰を、想っていたのかしら」
驚いたことに、彼女は今にも涙しそうな顔をしていた。だんだんと小さくなっていく声に、僕は釘付けになりながら黙って耳を傾けている。ぎゅ、と彼女の腕に力が入り、締め付けられた赤い傘はその布に皴を増やした。それを見て、僕の口はおもむろに開いた。
「そうしていれば、それが分かると思ったのか」
彼女は何も言わない。問いだけが沈黙に消える。そうして、僕の目を捉える青い眼は僕の遥か向こうを見ているのだと気付いて、無意識に彼女に囚われてしまっていたのだと気付いた。
開いたまま黒い傘を手放した。傘は水溜りへと落ちてしぶきを上げる。僕はしゃがみ込み、赤い傘を抱える彼女を横抱きして持ち上げた。同時に水がしたたり落ちる。ぬくもりがあるように思われたその体は、雨を体現しているのかと疑うほど酷く冷え切っていた。抵抗する様子もない彼女は、海の眼をゆっくりと僕に向けた。
「傷つくのは痛いけれど、傷つけるのはもっと痛いわ」
囁くように彼女は言った。抱える赤い傘には、黒くくすんだ赤い染みがあった。
そろ、そろ、と猫が僕らの傍らを通り過ぎる。瓦礫の小さな隙間にうごめく影を見つけ、猫はその眼を光らせた。鼠がちらりと鼻先を見せた瞬間、閃光が空を切って廃墟に消えた。それを眇めた彼女がぽつりと呟く。
「――噫、無情な」
耳を突く醜い呻き声は、空しくも、淀んだ空に呑み込まれていった。