10 現地へ
「では行ってくるよ」
出発の日の朝早く。
勇馬たちがそう言って自宅前まで迎えに来た馬車に乗り込むのをアイリスは心配しながらも笑顔で見送った。
勇馬たちを見送ると留守番となったアイリスは朝から家事をすることにした。
「主様たちのベッドのシーツや寝具を洗っておきましょう」
ここ最近はこの場所が軍事施設内にあるという雰囲気も手伝って訓練を中心とした生活になっていたため若干家事が疎かになっていたことは否めない。
アイリスにメイドの個人授業をしたメリルが今の状況を見れば眉をひそめるかもしれない。
アイリスは別れてしばらく経つ恩師の顔を思い浮かべると思わず苦笑いした。
そんな恩師に叱られないよう、勇馬たちの留守を利用していつもであればやることが難しい大がかりな家事を中心にすることにした。
メイド服に身を包み長い金色の髪を後ろに縛ると、長い袖を腕まくりする。
勇馬からしてみればアイリスの家事には特になんの問題はないのだがアイリスを指導したのは貴族に仕えていたメイド長である。
ここが幹部用の自宅で多少広くはあるものの来てからそこまで経っていないこともあり、汚れという汚れはないように見えるがそれは平民の視点での話だ。
アイリスはこの日一日かけて洗濯や掃除をした。
翌朝、アイリスが目覚め、身支度を整えると勇馬の部屋の前へと向かった。
そこでドアをノックしようとしてハタと気付く。
(そうでした、主様はいらっしゃらないのでした)
朝起きて勇馬を起こすということが既にアイリスのルーティーンであり、寝起きで少し頭の働きが本調子ではなかったことも相まってのことであった。
「そういえば主様とはこれほど離れたことはなかったですね」
アイリスはそう呟くと勇馬と初めて出会ったときからこれまでのことを思い返した。
アイリスはこれまで基本的に勇馬と一緒に行動していた。
レスティのダンジョンに潜っていたときでも朝から夕方まで勇馬と離れていたことはあったが、それでも夜には戻っていたので勇馬とは毎日顔を合わせていた。
朝に至っては常に顔を合わせ、最近は勇馬を起こすのが自分の日課だった。
それがしばらくの間は顔を合わせることがない。
勇馬がいったいいつ戻って来るのか、それすらもはっきりしたことはわからない。
(1週間から10日くらいでしょうか? 1か月ということはないと思いますけど……)
初めて勇馬と会ったときには顔も見たくないと思っていた。
こんな男のモノになるのであれば死んだ方がマシだとも思った。
しかし短くない時間を一緒に過ごし、だんだんと勇馬の人となりを知るにつれて嫌悪感はいつしかなくなりそれどころか親愛の情を感じるまでになった。
自分の人生を思い返せば、ハーフエルフである自分にこれほどの対応をしてくれた人は他にいただろうか。
エルフの森にいたときに受けた仕打ちを思い出すとぎゅっと胸が締め付けられる。
奴隷にされた後でも他の奴隷たちからそのことを理由に貶められたことも1度や2度ではない。
勇馬は気付いていないようだがアミュール王国でもラムダ公国でも時折、混血種であることに気付かれると冷ややかな視線を浴びることもある。
そんなアイリスのことを自分と同じ存在だと扱い、なぜだかはわからないが表も裏もなく接してくれる勇馬の存在は既にアイリスの中では大きな場所を占めるまでになっていた。
そしていつも一緒にいて毎日顔を合わせるのが当たり前という関係にもすっかり慣れてしまっていた。
それが今や顔を見ることができない、一緒にいることができない、声を聞くことができない。
そんな状況にどこか据わりが悪いというか落ち着かない気持ちになった。
一方の勇馬たちは馬車に乗り、一路国境を目指して進んでいた。
「隊長殿! 前方に何か見えます!」
部下からの報告を受けて調査隊の隊長が原野の先に目を凝らす。
すると蠢く様な恐らく魔物ではない、人であろう集団がいることが確認できた。
「総員、念のため警戒せよ。恐らく目的の集団だ」
隊長のその指示は後方にいた勇馬の耳にまで届いた。
「どうやら難民の集団を発見したようだな」
「ええ、こちらも一応警戒した方がよさそうね」
エクレールにそう言われて勇馬は護身用に支給されている鉄の剣を手に取った。




