第八章 El Diablo
El Diablo (Liberté 137)
―― いつも通りの穏やかな日常。
騎士団に飛び込んでくる任務は決して少なくはない。けれども普段に比べたら随分と任務が少なく、大分平和な日常が続いている。
任務が少ないというのは良いことだ。現在は丁度貴族の社交期からも外れている。そのため、任務が少ないということは要するに、魔獣などの出没数が少ないということ、そして犯罪行為があまり起きていないということ。
それは、喜ばしいことだ。こんな日々が続くと良い。騎士たちが皆、そんなことを考えていた、そんなある日のことだった。
***
「カルセ」
医療部隊での薬学講義を終えた彼を、スファルが呼び止めた。いつになく真剣な彼の声音に少し驚きながら、カルセは振り向いた。
「どうしたのです?」
問いかけると、彼は一瞬迷う表情を浮かべ、目を伏せる。それにカルセが怪訝そうな表情を浮かべたその時、彼は顔を上げた。そして、静かな声で言った。
「話がある」
今、時間良いか。そう問いかける彼の表情はやはり、いつもより真剣なもの。カルセはそれを見ると小さく頷いてから、いつも通りに微笑んだ。
「部屋で、聞きましょうか」
此処では話しにくいことなのでしょう。そうカルセが言うのを聞いて、スファルは目を丸くする。それからそっと息を吐いて、頷いた。
「あぁ、助かるよ」
ふ、と微笑むスファル。安心した様な表情。見慣れた、彼の笑み。それを見てカルセも表情を綻ばせると、行きましょうか、と彼を促したのだった。
***
「竜の討伐、ですか」
スファルの話を聞いて、カルセはそう呟いた。こくり、とスファルは頷く。そして改めて、説明した。
「最近、街の近くの山地に大型の竜が飛来したという話があってな。
もしかしたら住み着くつもりかもしれない。そうなると困るから、と炎豹に依頼が来たらしい」
「流石に炎豹のスタイルで竜の相手は危険である、故に私に同行してほしい……ということですね?」
彼の言葉を先回りして口に出し、微笑むカルセ。スファルは思わず苦笑を漏らしながら、肩を竦めた。
「俺が言うまでもなかったな」
そう。スファルがカルセに声をかけたのは、任務に同行してほしいと依頼するため、だった。
カルセは彼の言葉にくすくすと可笑しそうに笑う。
「ふふ、話を聞いていたら予測くらいはつきますよ、付き合いは長いのですからね」
カルセはあっさり言い放つ。それを聞いてスファルはふっと笑った。
確かに彼との付き合いは長い。何も言わずとも、大体のことは想像がつくようになっていた。
思えば、彼とパートナー同士になって、此処まで色々なことがあった。喧嘩をしたことだってたくさんあったし、任務に失敗したこともある。けれどそれでも、此処まで一緒にやってこられた。きっと、相性が良かったから、なのだろう。
そう思いながらスファルはふぅと息を吐き出す。そして橙色の瞳を細めて、彼は小さく呟いた。
「それにしても……こんな任務久しぶりだなぁ」
スファルの言葉にカルセは小さく頷く。
「竜はそうそう現れるものではないと思いますからね」
「そうだな。でもだからこそ騎士団に討伐依頼が来るんだろ」
彼の言う通り。竜は珍しい種族であり、そうそう現れるものではない。それも、人の住む地域の傍にとなれば、一年に何度か起きるか否か、という程度だ。しかし、そうした事象が起きれば大抵その周囲に住む人間は危険に曝されることになる。故に、こうして騎士たちに討伐の依頼が来るのだということを、二人もよくよく知っていた。
ふ、と息を吐き出したスファルはカルセの方を見て、また真剣な表情を浮かべる。
「……で、だ」
まだ、彼の口から答えを聞いていない。そう言いたげなスファル。カルセは"わかっていますよ"と言って、眼前の相棒を見つめた。
「貴方の命、私が必ず守ってさしあげましょう」
そう言って、彼は微笑んで見せる。少しお道化たような表情を浮かべている彼ではあるが、その瞳は真剣そのものだ。
生真面目な彼の性格。それより何より、優しい彼の性格故の反応なのだろう。スファルを不安にさせまいという、思いやりの表れ。それを素直に表現できない彼なりの、言葉と表情なのだろう。そう思いながら、スファルは笑みを浮かべた。
「ははは、頼もしいな。宜しく頼む」
彼はそういって、カルセの手を握る。カルセは微笑みながら、その手をしっかりと握り返したのだった。
***
天気は快晴。晴れ渡った青空には一つの雲もなく澄んでいた。
そんな良い日和……カルセはいつも通りの服に袖を通した。
淡い青のシャツ。茶のベスト。そして草鹿の騎士の象徴である白衣がふわりと、風に靡く。ただし、靴だけは普段の革靴ではない。他の騎士たち……草鹿の騎士以外が履いているブーツを履いていた。
戦闘時、革靴よりはそちらの方が動きやすい。勿論慣れた靴の方が良いと革靴で行く騎士も少なくはなかったが、カルセは炎豹の騎士に同行するとき、必ずブーツを履いていた。気を引き締めるために。
今日は、スファルと共に竜討伐の任務に赴く日。初めての任務という訳でもないのだが、やはり大きな任務というのは多少緊張するものだ。そんなことを考えながらふぅ、と息を吐き出した時ドアが開いた。
入ってきたのは、同室者であり恋人である少年……クレースで。彼は心配そうな顔をして、カルセを見つめていた。
「カル、行っちゃうの?」
そう問いかける声も不安げで。カルセはそれを聞くと藍色の瞳を細めた。そしてゆっくりと頷いて、言う。
「ええ。私はスファルの相棒ですからね」
「……危なくない?」
静かな声でそう問いかけるクレース。カルセは彼の発言に苦笑を漏らした。
「危ないのは覚悟の上ですよ。竜の討伐は簡単なことではありませんからね」
そう言いながら、カルセはそっとクレースの頭を撫でた。その優しい手に、クレースは眉を下げる。
クレースも騎士だ。危険がない任務など存在しないことはよく知っている。城を、国を守る騎士である彼らは、決してお飾りの存在ではないのだ。
けれど……――
心配になるのは、当然といえば当然だ。クレースにとってカルセは大切な存在。勿論、カルセだけでなく、彼の相棒であるスファルのことも心配している。
そんな危険な任務、行ってほしくない。そう言いたげなクレースを見て、カルセは困ったような表情を浮かべる。そしてそっと彼の額を小突いた。
「そんな顔をしないでくださいな。ちゃんと無事に帰ってきますよ、無理はしませんから」
「……せめて僕も一緒に行きたかったな」
クレースはそう、呟くように言う。彼は今回の任務に参加するメンバーに入っていない。だから、そんなことを言ってもしょうがないのだけれど……――
カルセはそんな彼を見て目を細めた。そして軽くその頬にキスを落とすと、いつものように微笑んで見せる。
「この城に残る者も重要なのですから、そんな顔をしないでください。
怪我をした人間や病気の人間を癒す者が城から一人もいなくなってしまったら問題でしょう?」
そういって小さく首を傾げるカルセ。クレースはそれを聞くとむぅ、と少し拗ねた顔をした後……ふ、と表情を綻ばせた。そして一度、カルセに抱き付いた。
「……気を付けて、ね」
静かな、けれども確かに芯のある声で彼は言う。微かに震えそうになる声は必死に抑えて。カルセは彼の言葉にゆったりと頷いた。
「わかっていますよ。
誰かを守る上で自分が犠牲になったのでは意味がありませんからねぇ」
「……それ僕を皮肉ってる?」
何処か含みを持ったカルセの発言にクレースは少し、眉を寄せる。拗ねた顔をする彼を見て、カルセはくつくつと笑った。
「そう聞こえました?」
「思いっきり僕のこと見てたじゃない」
クレースはそう言いながらじとりとした視線をカルセに向ける。軽く肩を竦め、カルセは言った。
「貴方はすぐに無理をしますからね。
自分が怪我をしてでも相手を守ろうとするでしょう」
「……それが草鹿のポリシーでしょう」
自己犠牲の精神。それこそがカルセとクレースが所属する部隊、草鹿の行動理念。そのことはカルセもよく知っている。
しかし……
「それはそうですがね。
それでも無事に帰ってくるにこしたことはありませんよ。死んでしまったらそこまでで、それ以上人を救うことはできないのですから」
ねぇ、そうでしょう? そうカルセに問われて、クレースはついとそっぽを向きつつ、言った。
「……まぁ、それは分かってるけど」
「わかっているなら、クレースも気を付けてくださいな。
私のことを心配するばかりじゃなくて……わかりました?」
念を押すようにカルセはそう言う。クレースはそれを聞くと根負けしたように溜息を吐き出した。
「……とにかく! 気を付けて、いってきてね。わかった?」
カルセは彼の言葉に微笑んで、頷く。
「勿論ですよ」
それと同時に、ドアがノックされた。
「準備出来たか、カルセ」
部屋に入ってきたのは、他でもないスファルで。きっちりと制服を身に着け、腰に剣を提げたスファルはいつも以上に勇ましく見える。そんな彼に向かってしっかりと頷くと、カルセはクレースの方に視線を向けた。
「では、行ってきますね、クレース」
「うん、いってらっしゃい……スファルも、気を付けてね」
「ははは、わかったよ」
スファルもクレースの言葉ににっと笑って、頷く。そして一度彼の方へ歩み寄ると、軽く彼の頭を撫でて、言った。
「気を付けて行ってくるよ」
そうスファルが言うと、クレースは漸く笑顔になる。
「行ってらっしゃい!」
明るい声音での見送りの言葉を聞きながら、カルセとスファルは部屋を出る。ぱたん、とドアが閉まった所で、カルセはふうっと一つ息を吐き出した。そして相棒の方を見て、言う。
「さ、行きましょう」
そう呟く声は、硬い。先刻までクレースに言葉をかけていた時とは全く違う声。それを聞いて一瞬驚いたような顔をした後、スファルは口角を上げた。
「はは、意外と緊張してるんだな、カルセ」
くっくっと笑いながらそういうスファル。
普段は穏やかに微笑んでいることが多いカルセが、こういう顔をするのは珍しい。いつも涼しい顔をしているものだから、そんな彼の表情を見られたことがなんだか少し嬉しくて、スファルは軽口を叩く。
カルセはそれを聞いてじとりとした視線をスファルの方へ向けた。
「……別にそんなことはありませんよ」
きっぱりとそう言ってのけるカルセ。しかしその頬が少し赤いことで、図星であることは火を見るよりも明らかである。スファルはそれを見て橙色の目を細めた。
「意外と可愛いところあるんだな……って、おい怖い顔すんなって」
これ以上からかったら彼が完全に拗ねてしまいそうだし、とスファルは肩を竦めた。
「さ、ぐだぐだ喋ってないで行くとしようぜ。あんまり遅くなると、叱られるしな」
スファルがそういうと、カルセは溜息を一つ。
「……誰の所為だと思ってるんで……あぁもういいです、行きましょう」
そう呟いてカルセは颯爽と歩き出す。スファルはそんな彼の後ろ姿を見て小さく笑うと、彼を追いかけたのだった。
***
窓辺に立ち、城を出ていく竜討伐の騎士たちを見つめる。
吹き抜ける風は心地よいのに、心は晴れない。
不安で、寂しい。心細い。そんな想いに包まれながら、クレースは小さく溜息を漏らした。
「気を付けて、ね……」
静かに、そう呟く。誰に届くでもない言葉を、ただ一人で。
遠ざかっていく騎士たち。それを見送ることしかできない、無力な自分。
自分も一緒に行きたかった。現状がどうなのかを知らないままに城でただ待つというのは、不安でしかない。
ディアロ城騎士団の騎士たち……殊更戦闘部隊炎豹の騎士たちが強いことはよく知っている。自分が所属する草鹿の騎士たちの防御能力が高いことも。
けれども相手は最強クラスの魔獣、竜なのだ。死者が出ることも珍しくはない。絶対に何も起こらないとは、言い切れない。不安に思うな、という方が無理な相談だ。
かといって、あまり戦闘が得意でない自分が付いていったところで足手纏いになってしまうことも、カルセが言っていた通り自分のように城に残って医師としての役目を果たす者が必要であることもわかっている。どうすることもできない。歯痒い想いでいっぱいだった。
―― 嗚呼、駄目だ。
クレースはもう一度だけ溜息を吐いて、パンっと自分の頬を叩いて、笑顔を浮かべた。
「こんな顔してばっかりもいられないからね……僕には、僕のできることをやらないと!」
そう呟いたクレースはぺしっと自分の頬を叩く。そして軽く首を振ると、白衣を翻して部屋の外に出た。
その顔にはもう、迷いも不安もない。大切な人を、友人を、信じて待とう。そう決めたから。
強い意志の灯った瞳で真っ直ぐに前を向いて、クレースは手始めに薬草園へと向かったのだった。
第八章 Fin
(エル・ディアブロ:気を付けて)