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第十三章 Violet-fizz


Violet-fizz (Liberté 139)


 カチリ、と時計の針が動く。時計の方へ視線を投げたカルセは一つ、息を吐いた。

 いつの間にかこんなに時間が経っていたのか。そう思いながら机の上に積み重なった書類の山に視線を投げた。

 仕事の書類とはまた違う、様々な文献。それは魔獣の生態やそれらが持つ病原体、毒、その他に関する研究の書物だった。少しで良い、何か手がかりが見つかれば。そう思って、彼は昼夜問わずそれらを読み込んでいるのだった。

 けれども今日はここで終わりにしよう。そろそろ、彼のところに行かなくては。そう思って彼は立ち上がる。伸びをすれば固まっていた体がぱきぱきと音を立てた。

 眼鏡を外して、目頭を押さえる。書類を読むことには慣れているが、流石に疲れたな、と思って。

 けれども弱音を吐いてもいられない。考えたくはなかったが、きっと……そんなに時間はないから。




***




「クレース」


 ドアをノックしてから中に入れば、珍しく彼は起きていた。最近は専ら横になってうとうとしていることが多い彼。その寝顔を見るだけ見て部屋に戻ることも、少なくはなかった。お世辞にも元気そうとは言えないけれど……それでも今日は具合も良いようで、カルセは少し安堵した表情を浮かべる。


「カル」


 嬉しそうに自分の名を紡ぎ海色の瞳を細める、クレース。彼にカルセが歩み寄ると彼は布団の上で緩く首を傾げた。


「お仕事、おわった?」

「今日は仕事は休みでしたよ。でもちょっと、研究を進めたくて」


 研究室に籠ってたんですよ、とカルセは微笑む。クレースはそれを聞くと、少し心配そうに眉を下げた。


「……そっか。あんまり、無理しちゃ駄目だよ。カルはすぐに無理するんだから」


 拗ねた子供のように唇を尖らせてそういうクレース。カルセはその声音に少し呆れたように溜息を吐き出す。そしてごく軽く彼の額を小突きながら、言った。


「それは私の台詞だと一体何度言わせればわかるんですか」


 すぐに無理をするのは貴方の方だ。そんな言葉を飲み込んで、カルセは微笑んで見せる。クレースはその言葉にゆっくりと瞬きをしてから、目を細めた。


「……ふふ、そうだね」

 

 ごめんねと謝るクレース。彼は少し悲し気に眉を下げた。自分自身が辛いことは構わない、けれども……カルセや他の友人たちに迷惑をかけてしまっているのが辛いと思っていた。

 カルセもそれがよくわかっているのだろう。穏やかな表情を浮かべた後、そっと彼の頭を撫でてやった。


「大丈夫ですよ、クレース。迷惑だなんて思いませんから」


 優しい声音でカルセは言う。換気のために開けた窓から吹き込んだ風が彼の長い髪を揺らしていく。

 他人の五感を操る魔術が使え、いつも笑みを湛えているために読みにくい、怖いといわれることも多いカルセだが、クレースにとっては心優しく穏やかな少年以外の何者でもない。今の表情も、纏う雰囲気も、彼が見ていて何より落ち着くものだった。

 大丈夫だ、安心してくださいという彼の優しい表情と声色に、クレースは少し安堵したように表情を綻ばせた。どんなに不安なことがあっても、彼のその一言で安心できる。心からそう思った。


「では、また来ますからね」


 そう言ってカルセが帰ると同時、クレースはベッドに沈んだ。

 体が怠い。呼吸するだけでも少し苦しく、先程までカルセと普通に話せていたのが不思議なくらいだと自らで思い、苦笑した。

 もう体が限界であることは、他でもないクレース自身が一番よく知っている。いつこの呼吸が止まるとも知れない。それをわかった上で、クレースはカルセの前では笑顔を浮かべていた。……例えそれが、残り少ない自らの命を削る行為なのだとしても。



***



 騎士になったとき、ある程度の事象への覚悟は決めたつもりでいた。しかしそれはあくまで"つもり"にすぎなかったらしい。リスタはそう思いながら呆然と、目の前のベッドに横たわる友人を見つめていた。

 苦しげに息をして、今は此処にいない友人の、カルセの名を紡ぐクレース。色の白い額に脂汗を滲ませ、時折体を震わせながら必死に息をする彼の姿に、リスタは完全に固まってしまっていた。人の、それも親しい人の死をこうして近くに感じることは、こうも恐ろしいことなのかと、そう感じた。


「クレース……」


 名を呼べど、クレースは気がつかない。掠れた声で、カルセを呼ぶばかりの彼。苦しい、辛い、痛い……そう弱音を吐く彼の姿は、初めてみた。

 クレースはスファルのように豪胆でも、カルセのように何処か目立つ雰囲気を纏っている訳でもなかった。けれども優しく、努力家で、仲間を何よりも大切にする人間だった。リスタに良い意味で年齢の差を感じさせない、いつでも近い存在でいてくれる人間だった。いつでも穏やかに微笑んでいて、辛いときには励ましてくれる。そんな彼が弱音を吐く姿など今までみたことがなかったのだ。


「クレース……大丈夫か……?」


 少しクレースの呼吸が落ち着いた頃、ようやくリスタは動けるようになった。ハンカチで軽く額を拭ってやると、彼は薄く目を開けた。深海のような色の瞳に、涙が滲んでいる。


「は……、りす、た……?」


 心細そうに呼ぶ彼の声は弱々しくて、リスタは思わず拳を握りしめた。そして、眉を下げながら小さく頷き、彼に問う。


「カルセ呼んでくるか? 多分今は……」


 きっと仕事ではなく、研究中だろう。部屋には居るはずだから、呼びに行けば来るはずだ。否、例え仕事中だったとしてもクレースが会いたがっていると告げれば飛んでくるだろう。リスタはそう言うが、クレースは静かに首を振った。


「いい……駄目、だよ」

「でも……」


 クレースの強がりの癖はリスタもよく知っている。本当は、会いたいのではないか。

来てほしいのではないか。そう、思うのだけれど……

 リスタが困った顔をしていると、クレースはすまなそうに眉を下げた。そして一つ息をして、言う。


「ごめん、ね……きついときは、無意識に、呼んじゃうんだ……でも」


 彼に会いたい訳ではない、否、この姿を見せたくないのだと、クレースは言った。リスタはその言葉の意味が汲めずに眉を寄せる。クレースはそんな彼を見て、そっと笑った。


「……僕、今酷い顔、してるからさ。

 それに……今、カルに会ったら……多分、彼を困らせること、いっちゃう……」


 だから、駄目なんだよ。そういう彼は少し、寂しげに見えた。長い睫毛が震える。


―― 嗚呼、そうか。


 リスタは漸く理解した。彼は別に、カルセに会いたくないわけではないのだと。寧ろ会いたいには会いたいけれど、"会ってはいけない"と自らを戒めているのだと。それを理解して、リスタは何とも言えない表情を浮かべた。

 リスタの銀灰色の瞳には、弱りきった友人の姿が映る。すっかり痩せてしまった体。ほっそりとした手。いつも明るく笑っていたその顔に朱は射さず、なんとも顔色が悪い。泣きそうな顔をしているのに泣く素振りは見せないのは、彼なりのプライドなのだろうか。


「……俺に、言ってもいいんだぞ」


 リスタはやっとのことで、そう言葉を紡いだ。

 カルセとクレースの距離は近すぎて、故に言えないことも多いのだろう。ならば自分が、クレースがカルセに言えないことを聞こう。そう言ってやると、クレースは嬉しそうに破顔した。


「ふふ、ありがと、リスタ……っ」


 そう言葉を紡ぐと同時に、彼は顔を歪めた。こうした発作に襲われることも少なくないと、リスタも聞いている。


「っ、ぁ……はぁ……」


 顔を歪め、息を詰まらせる彼。リスタは慌てて、彼のベッドの周りを探した。


「大丈夫かクレース、薬……っ」


 薬くらいあるだろう。そう思って薬箱をみたのは良いが、リスタではどれがなんの薬やらさっぱりわからない。


「く、薬、どれだ?」


 そうリスタが問うと、クレースはゆるゆると首を振った。長い髪がぱさぱさとシーツの上を滑る。


「も……いい、よ……」

「いいってなにが」

「きか、ないから」


彼の発言に、リスタは大きく目を見開いた。


「効かない……?!」


 薬が? そうリスタが訊けば、彼はそうだと頷く。

 リスタは呆然とした。薬が効かないほどに彼の病状は進んでしまっているのか。そんなにも……

自分にできることは、もうないのだろうか。

 そう思った時、ぎゅっと手を握られた。かたかたと、手が震えている。


「はぁ……っは……リスタ、リスタぁ……っ」


 掠れた声で、名を呼ばれた。


「ど、どうした? 俺は、此処だぞ?」


 リスタは少し動揺しながらも問い返して彼をみる。大きな蒼の目が真っ直ぐにリスタを見上げていた。それからぱたり、と大粒の涙が溢れ落ちた。


「死にたく、ないよぉ……っ」


 震える声で、彼は言った。それを聞いてリスタは大きく目を見開いた。彼のこんな泣き顔、それを見たのは……初めてで。


「もっと、カルと一緒に……いたい……っ

 もっと、研究だってしたかったし、皆と……っ」


 泣きながら彼は言う。死ぬのが怖い、嫌だと。もっとやりたいこともある。もっと行きたかった場所もある。大切な友人たちと別れたくなどないと。

 その言葉に、切実な声に、リスタは唇を噛む。自分が泣いてはいけないと思いながら、リスタは絞り出すように言った。


「……っ、死ぬ、なんて……っ」


 縁起でもないことを言わないでほしかった。例え素人目にみても彼の病状がよくないことがわかってしまうほどだとしても。

 リスタの言葉にクレースは泣きながら、笑った。


「はぁ……っ、わか、っちゃ、うんだよ……も、僕は……――」


 もう長くないって。そう呟くように言った彼は、激しく咳き込んだ。

 きっと、誰より彼が一番よくわかっているのだ。幾ら大丈夫と言葉を吐いたって、その言葉の通りになどならないこと。周りが幾ら自分の病状を隠してきっと良くなると言葉をかけたってその可能性が限りなく低いこと。……カルセとの約束が守れないことも。


「……っ、カルセ、呼んでくる……っ」


 リスタは震える声でそういって、病室を飛び出そうとした。彼を呼べば、少しは楽にしてやれるかもしれない。例え何もできないとしても……傍に彼がいたらきっと気持ちは楽になるだろう。リスタはそう思い、反射的に外に飛び出そうとする。

 しかし、これまでになく強い力で、腕を引かれた。


「だめ……! やめ、て……おねが……っ」


 咳き込みながらも必死にリスタを引き留める。そんな彼の様子にリスタが足を止めれば、クレースは柔らかく微笑んだ。涙が滲む蒼の目が細められる。


「苦しむ、僕を……みせたく、ない……

 カルに、は……笑ってる、僕を覚えて、て……」


 彼の、思い。愛しい人に苦しむ姿を見せたくないという強がり。笑顔の自分を覚えていてほしいという想い……――

 わかる、その気持ちはよくわかる。けれど、それでも……


「っ、そういっても、クレース……」


 お前は、カルセに会いたいだろう。傍に居てほしいのは俺ではないはずだ。リスタはそうクレースに言う。しかし彼は頑なに頷こうとはしなかった。


「おね、がい……僕、大丈夫、だから……

 耐える、よ……大丈夫……カルに、は……」


 こんな姿を見せたくない、見せられない。そう言われてしまっては、もう動くことなどできなかった。




***




 ふ、とクレースの表情が和らいだ。発作が治まったのだろうか。そうリスタが思うのと同時に、彼はリスタを見つめた。澄んだ蒼い瞳はまるで凪いだ海のようだ。


「ね、リスタ……カルは、幸せに……なれる、よね」


 ぽつりと、消え入りそうな声でクレースは言った。ゆるりと揺らぐ瞳。リスタはそれを見つめ返した。弱々しく、今にも消えてしまいそうな彼を繋ぎ止めたくて、リスタはそっと彼の手を握った。


「僕が、いなくなっても、ちゃんと……真っ直ぐに前、向いて……」


 こんな状態なのに、いつ自分が死ぬともつかないのに、他人の心配をするクレース。彼らしい、そう思うと同時に少し、切なかった。

 こんな時くらい少しくらい、我儘を言えば良いのに。怖い、苦しい、辛い、どうして自分ばかりが、と怒ってくれれば良いのに。そう思うけれども、そうしないのが彼なのだ、とリスタも良くわかっている。

 彼にかける言葉を必死に探すリスタを見つめ、クレースは言葉を紡いだ。


「幸せ、になってほしい、から……だから、リスタ……それが、できるように……守って、あげて……?」

「え……」


 守ってあげてという言葉には少し疑問を抱いた。


「カルセは、俺みたいな未熟な騎士に守られるような人間やつじゃあないだろう」


彼は強く、しっかり者だから……リスタはそう言う。クレースはそれを聞いて、ふっと微笑んだ。そしてゆるゆると首を振る。


「カル、は……皆が、思ってるほど、強くないよ……

 優しくて、寂しがり屋で……でも、それを知られたくない意地っ張りで……」


 彼はあまり他人に弱っている姿を見せようとはしない。だから彼の本質を知っている人間はあまりいない。"表では"優しく強い、穏やかな少年。しかし彼の本質は、優しいけれども何処か脆い、寂しがりで意地っ張りな性格……そんな少年なのだ。だから、そんな彼が無理をし過ぎないように守ってほしい。クレースはそう言う。

 苦し気な彼の声に、リスタは顔を歪める。そしてこれ以上喋らないように、と彼を止めた。


「もういい、わかった……」

「だから、……僕、が……守って、あげたかったけど、もう、無理みたい、だから……」


 掠れた声で、彼は言葉を続ける。そしてきゅっと、弱い力でリスタの手を握った。そして縋るようにしながら、言う。


「お願い、リスタ……」


 彼を守ってやってほしい。クレースはそう言った。


―― この期に及んでも、彼はまだ……


 他の人間の心配をしているんだなと、リスタは思う。そのままそっと、クレースの手を握り返して、頷いて見せた。


「……わかった。だから、クレース……もう良い、もう良いから……休んで」


 ゆっくり、寝ていて。リスタはそういってそっと彼の額を空いた手で撫でた。その手に安堵したようにクレースはふっと息を吐く。


「うん……」


 ありがとう、と柔らかい声で彼は礼を言う。そのまま静かに目を閉じ、眠りに落ちる。

 その姿を見つめるリスタの瞳から一筋、涙が伝い落ちていった。




***




 ふっと、眼が開く。

 ゆっくりと瞬きをしたクレースの瞳には、ベッドサイドに腰かけているリスタの姿。部屋は薄暗くなっていた。思ったより長く眠ってしまったのかもしれない。そう思いながら少し身じろぎすれば彼が視線を向けてきた。


「大丈夫か」


 問いかける声にクレースは小さく頷く。


「うん……ごめん」


 息苦しさは軽くなっていた。詫びる彼を見てリスタは首を振る。


「謝らなくて良いよ。カルセ、呼ぶか?」


 落ち着いてるなら良いだろうとリスタは言う。それを聞いてクレースは少し悩むように目を伏せた。

長い睫毛が色白な瞼に影を落とす。暫し黙り込んでいた彼だったが、やがて小さく頷いた。


「……うん」


 発作が出そうな雰囲気はない。だから、彼に会いたいと素直にいえば、リスタはわかった、といって微笑んだ。クレースは眉を下げて、呟くような声音で言う。


「ごめんね。迷惑、かけて」

「迷惑だなんて思わないよ」


 リスタはそういって銀灰の瞳を緩く細めた。

 あぁ、カルセと同じことを言う。そう思いながらクレースは表情を緩めた。


「……ね、リスタ」


 弱い声でクレースは彼を呼ぶ。その声音にリスタが首を傾げれば、彼は一つ深い息を吸って、いった。


「僕、我儘だね」


 そう言いながら苦笑を漏らすクレース。リスタはその言葉にきょとんとして首を傾げる。


「何が?」


 我儘とは、なんなのか。リスタがそう問いかけるとクレースは目を伏せたままに、言った。


「カルに、覚えていてほしいって、そう思っちゃうんだ。

 カルは優しいから、きっと僕のことを覚えたままだったら前に進むことが出来ないのに……忘れないでほしいって、そう思っちゃう」


 カルセはきっと、自分のことを忘れずにいようといてくれるだろう。けれどもそれは彼を縛ることになりそうで。でも、"自分のことは忘れて前に進んで"と言いたくはなかった。だって……大切な彼に、自分の存在を忘れられてしまうというのはあまりに悲しいことだと、そう思ったから。それが我儘だとクレースは言う。

 リスタはそれを聞いて、小さく苦笑を漏らした。


「それは、普通の想いじゃないのか?」


 寧ろ、人間らしい彼の様子に幾らかほっとした。リスタがそういうと、クレースはふわりと表情を綻ばせた。


「……そう、そうかな」


 それなら、良いな。そう呟くクレースを見て、リスタは微笑んだ。


「伝えても、カルセはきっと頷いてくれる」


 だから大丈夫だといってみたが、クレースはそれには首を振った。


「……ううん。駄目」


 それは駄目だよ。クレースはそういう。リスタはそれを聞いて、小さく苦笑を漏らした。


「頑な、だな」


 そこは頷いていたら良いのに。リスタのそんな言葉にクレースはふわりと笑いながら、言った。


「ふふ、カルに似たのかなぁ……」


 あの人も頑なだから。クレースはそういうと一度深く息を吐き出した。


「疲れたか?」


 少し心配そうにリスタは問いかける。クレースが頷くのを見て、彼はすまなそうに一度、彼の頭を撫でてから"カルセを呼んでくるよ"と出ていった。


「ふう……」


 クレースはベッドに横たわり、白い天井を見上げる。その視界が少し霞むのを感じながら、クレースは目を細める。天井に向かって伸ばした手は、自分で見てもみっともないほどに細くなってしまっている。


「ねぇ、カル……僕、カルに似てきちゃったのかなぁ」


 そんなことを言って微笑むクレース。その瞳は涙に滲み、潤んでいった。




***




 軽いノックの後、ドアが開く。感じる気配はよく知った、彼のもの。リスタが呼んでくれたんだ、そう思って少年は目を開ける。


―― あぁ、もう良く見えないや。


 ふわふわの髪も、柔らかな藍色の瞳も。そう思いながらクレースは曖昧な笑みを浮かべた。

 カルセはそんな彼の頭をそっと撫でる。その温もりが心地よくて、嬉しい。


「きて、くれた」


 少し甘えるような声で、クレースは言う。一瞬だけ、自分の頭を撫でる彼の手が止まったのがわかった。


「来ますよ。珍しいですね、クレースが私を呼ぶのは」


 いつもはこんな風に甘えてくれないのにと、カルセは笑う。クレースはその言葉に苦笑を漏らした。


「へへ、カル、忙しそうだから」

「忙しくなんかありませんよ。だから、もっと私に頼ってくださいな」


 そう言うカルセはきっと、いつものように笑ってくれているのだろう。もう、自分にはよく見えないけれど、見えなくてもわかる。それほど、自分は彼のことが好きなのだと、クレースは今更のように思った。


「カルは、やさしいなあ」


 クレースは呟くように言う。夢を見るようなその声にカルセはそっと首を振った。


「……優しくなんかないですよ」


 もっと、貴方の傍に居られたら良いのですけどね。そういってカルセはそっとクレースの額を撫でた。その手は少し震えている。

 それを感じ取り、ごめんね、という言葉を飲み込んでクレースは言う。


「約束忘れないでね」


 その言葉にカルセは笑う。


「そちらこそ」


 優しい、低い声。大好きな、彼の声。それを聞いてクレースは、目を細めた。


「大好きだよ」


 真っ直ぐに、青の瞳で見つめて、クレースは言う。深い海のような瞳。それを見つめ返して、カルセも言う。


「私もですよ」


 少し唇が戦慄いている。それを殺して笑うカルセ。


―― ……嗚呼やはり、彼は優しい。


 いつも通りのやり取り。それを聞いてクレースは嬉しそうな顔をした。


「大好き、だよ」


 ドアを出ていくカルセの背中に、クレースはもう一度そっと呟いた。それからすぐに目を閉じる。

 外では、冷たい雨が降り始めていた。













第十三章 Fin

(バイオレット・フィズ:私を覚えていて)


 

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