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第十二章 Rusty Nail


Rusty Nail (Liberté 139)


 かつかつと、リノリウムを叩くブーツの音が響く。長い淡水色の髪を靡かせて歩く彼が向かうのは、自身の上官の部屋だった。

 しとしとと雨の降りしきる空模様が続く日々。何とも気分が沈むような、重苦しい空気。それはまるで自身の胸に渦巻く疑念、不安のようだと思いながら、彼は上官の部屋の前で足を止めた。

 一度、深呼吸をする。迷いがないといえば噓になるが、もう覚悟を決めたこと。そう思いながらカルセは上官の部屋の扉をノックする。


「失礼します」


 そう声をかけて、カルセは部屋に入る。彼の姿を見た上官は少し、表情を強張らせたように見えた。すぐに、いつも通りに微笑んで見せたけれど。


「あぁ、カルセか。どうした?」


 いつも通りに見せかけた笑顔で、上官は首を傾げる。カルセは藍色の瞳を細める。そして、静かな声音でずばりと本題に入った。


「本当のことを、教えてください」


 険しい声音でカルセは言う。それを聞いた上官の視線は少し揺らいだ。


「……本当のこと?」


何のことか、と彼は話を逸らそうとした。そんな彼の反応にカルセは眉を寄せる。そして苛立ちを隠そうともせず、言った。


「私が何を問いたいかはおわかりでしょう」


上官であるからと遠慮することなく、きっぱりと、硬い声で。


「クレースのことです。

 ただの風邪などではないことは、まだ見習いの私でもわかります。……彼に、何が起きているのですか」


 カルセが此処に訪ねてきたのは、病床に臥せっているクレースのことを聞くため。

 彼が倒れてからもうだいぶ経つのに、良くなる兆しが見えない。ただの風邪だ、疲れだといわれていたけれど、この現状を見ていれば、そうは思えない。彼も……クレース自身も、大丈夫だといつも言う。けれどもその言葉が強がりであることを見抜けないカルセではない。

 だからこそ知りたいと思ったのだ。彼の本当の病名。彼の本当の病状を。

 真剣な表情で自身を見据えてくる部下に、上官……スフェンは、少し視線を揺らした。困ったように、迷うように……

 しかしやがて溜息を一つ吐き出すと、ぽつぽつと呟くような声音でいった。


「……魔獣から罹患する病だ。あの日負った傷から、感染していたらしい」


 そこで彼は言葉を切る。


「……それで?」


 カルセは言葉の先を促す。スフェンはちらりと彼の様子を窺った。

 真っ直ぐに、スフェンを見つめる藍色の瞳。そこには確かな強さが灯っていた。絶対に退かないと、絶対に……真実を知るのだという意思が。

 けれどもまだスフェンは迷っていた。"それ"を伝えるか、否か。迷いながら、慎重に言葉を選びながら、彼はカルセに告げた。


「人から人への感染はない。それは断言できる」


 そう、スフェンは語る。カルセは彼の言葉に眉を寄せた。そしてきっぱりと、言う。


「私が聞きたいのはそんなことではありません。

 病名は? 治療法は? 何故あの子はあんなにも苦しんでいるのです?」


 スフェンが話を逸らそうとしているのがわかったのだろう。苛立ちから、少し口調が荒くなる。自分が知りたいのはそんなことではないのだと、自分が知りたいのは"結論"なのだと、彼はいった。

 そんな彼の覚悟に、決意にスフェンも折れた。本当は、こんな"現実"を伝えたくはなかったが……彼が知りたいというのなら、これ以上誤魔化すのは逆に残酷だろう。そう思った彼は、静かな声でいう。


「……勿論、感染初期ならば治療法もあった。ウィルスを殺すだけならば、簡単に出来ただろう。あんなにも苦しむ前に、手を打てただろう」


 カルセはその言葉に藍色の瞳を大きく見開いた。胸が嫌な音を立てる。それを押し殺すように、掠れた声でカルセはスフェンに問うた。


「それ、は……どう言う、意味なのですか」


 震えを殺したその声に、スフェンも顔を歪ませる。そしてまるで小さな子供を諭すように、言った。


「……お前ならばわかるだろう、カルセ。病魔が全身を蝕んでいたなら……」


 そこで、スフェンは言葉を切った。不気味なほどの、沈黙。続かない、彼の言葉。その先に続くであろう言葉が、聡いカルセには予測出来てしまった。


「……もう、手の施しようがない、と?」


 カルセはそう言う。スフェンは一度小さく頷いた。


「……クレースは死ぬ、ということですか」


 重ねて、カルセは問う。それに応えることなくスフェンが俯いたのは、もうカルセが答えを得ているとわかっていたからか、或いは……――

 カルセはぎゅっと、拳を握る。その拳が微かに震える。背中を、冷たい汗が伝って落ちていった。

 スフェンはふ、と一度息を吐き出してから、言った。


「……もっと早くにわかっていたら、手段もあったのかもしれないが、現状ここまで病状が進んだものを治療できる薬も方法も、存在しないんだ。

 比較的新しいウィルスで、ワクチンも存在しない」


 勿論スフェンも、必死に治療法を探した。カルセにとっても大切な人間だけれど、スフェンにとっても大切な部下。どうにか救いたいと思った。

 けれどもどれだけ診察しても彼の病を治す方法は見つからない。あの薬は、この薬は、と色々試してみたがどれも効果がなくて……手の施しようがないと理解したのは、もうどれくらい前だっただろうか。


「せめて、せめて……あんなにも酷くなる前に気づいてやれたなら」


 スフェンは消え入りそうな声で、そういった。

 その言葉にカルセは強く、唇を噛み締める。切れてしまったらしい唇から一滴、血が伝い落ちていった。



***



 スフェンと別れたカルセはそのままふらふらと、クレースの部屋に向かっていった。その足取りは重く、彼の顔色は青白い。

 かつん、と響いた靴音が止まる。目の前には、クレースの病室。そのドアの前に立ち尽くした彼は一度、壁に背を付ける。それから一つ、呼吸を整えてドアを開いた。

 クレースはベッドで眠っていた。思えば彼は最近、眠っていることが多かった。その腕に繋がれる管は日に日に増えて……


―― 本当は。


 本当は、とっくに気が付いていた。彼の様子がおかしいことも、スフェンが何か隠していることも。本当は、もうクレースが……それにだって気が付いていたけれど、気が付かないフリを続けていた。

 認めたくなかった。確信に変えたくなかった。けれど……確信に、変わってしまった。


「……どうしたら、良かった?」


 掠れた声で、カルセは呟く。虚ろに揺らぐ眼のふちは、微かに赤かった。


「……私は、何が出来たのでしょう……?」


 カルセはそう、呟く。

 クレースに繋がれていた管は、薬を体に入れるものと思っていた。けれどもそれがただの栄養剤であるのだと、理解してしまった。

 思えば彼が食事をとっているところを、久しく見ていない。ちゃんと食べているのかという自分の問いにはさっき食べた、あとで食べると話をしていたけれど……―― それも違ったのだ。もう食べる気力もないのだと、そう理解してしまった。


「私がもっと早くに気がついていたら。もっと早くに、止めていたら……――」


 スフェンも言っていた。せめてもう少し早い段階で気が付くことが出来ていたならば、と。

 クレースを責めることは出来ない。クレースが、他人を思うあまりに自分をないがしろにする癖があることはカルセもよく知っていた。だから……気づいてやらなければいけなかったのだ。彼が具合を悪くしていることに、もっと早く。


「私が、気づかなければいけなかったのに……」


 そう呟き、カルセは硬く拳を握りしめる。

 どうしてもっと早く気づくことが出来なかったのか。どうしてもっと早く、ちゃんと治療しろといわなかったのか。何年も一緒に居たのに、ずっといつも彼のことを見ていたのに。どうして……肝心な時には何も、気づいてやれなかったのか。どうして、どうして、どうして……


「……カル」


 後悔に沈むカルセに声をかけたのは、いつの間にか目を覚ましたらしいクレースだった。弱弱しい声でカルセを呼んだ彼は、ふっと柔らかく微笑んで、そっとカルセの拳に手を添えた。彼の手に籠った力を解こうとするように。


「自分を、責めないでよ。カルの所為じゃ、ないよ」

「クレース……」


 カルセはクレースの名を弱弱しく掠れた声で呼んだ。

 寝ぼけているのとは明らかに違う、弱弱しい声色のクレース。痛々しくて、見ていられない。カルセは顔を歪め、思わず視線を逸らす。

 クレースはカルセの声音に、表情に、少し苦笑を漏らして、いった。


「自業自得、だよ。

 カルにも皆にも無茶すんなってよく言われてたのに、言うこと聞かなかった僕が悪いんだよ。

 ……ごめんねカル、その挙げ句に君に迷惑かけて」


 少し眉を下げて、クレースは、言う。自分の体の具合が良くないこと、それは自分がカルセの言うことを聞かずに無理をした所為なのだと。そのまま、優しく彼の拳に手を添えた。ぎゅ、とその手を握るけれども、彼の手にあまり力は入っていない。カルセは、彼の言葉にずきりと胸が痛くなるのを感じた。

 明らかに弱っているクレース。もう碌に、手を握ることすらできない様子。それでも自分を慰めよう、宥めようと手を伸ばす彼があまりにも……痛々しく、健気で。ともすれば涙が零れ落ちそうで、カルセは慌てて唇を噛む。そして一度呼吸を整えてから、震えを押し殺した声で、言った。


「迷惑だなんて思ったこと、今まで一度もありません」


 確かに彼はしばしば無茶をした。その度カルセはクレースを叱ったし、喧嘩になったことも多々あった。けれども……今まで一度だって、彼を迷惑だと思ったことはなかった。今も、まったく迷惑だなんて思わない。ただ、ただ……心配しただけだ。

 カルセがそういうとクレースは少しだけ、ほっとした表情を浮かべた。そして、静かに口を開く。


「……ねぇ、カル」


 綿のように柔らかい、ふわりとした声でカルセを呼ぶクレース。カルセは緩く首を傾げて、彼に問うた。


「何ですか?」

「正直に、答えてね」


 そう言いながらもクレースは、穏やかに微笑んでいる。カルセは、彼が何を聞こうとしているか予測できて、思わず息を呑む。けれどもその先を、静かに促した。


「……えぇ」


 小さく頷く、カルセ。それを見てクレースはふわり、と微笑んで、静かな声で問いかけた。


「僕、死ぬんでしょ?」


 ……嗚呼。予測出来ていた問いかけ。予測していたとはいえ、一瞬息が止まる。

 クレースはそんな彼を見つめて、口角を上げながら、いった。


「……何となくね、わかっちゃうんだよ。僕も、医療部隊の騎士だからね」


 クレースは静かな声でそういった。

 彼自身気が付いていた。日に日に重くなる体。増えていく点滴。時折自分の様子を見にくる上官(スフェン)の悲痛な表情……その意味に気づかずにいられるほど、鈍くはない。

 クレースがそういうのを聞いて、カルセは一度、二度、口を開きかけて……閉じる。そして、肩を落としながら、いった。


「……そのようです」


 彼は正直にいってくれと言っていた。それにもう、誤魔化せないことはカルセもよくわかっている。


「スフェン様にも、話を聞きました」


 震える声を抑えながらそう言うカルセ。クレースはその言葉に、ふっと微笑んだ。


「……そっか」


 わかっていたこと。だからこそカルセが正直に話してくれたのが、純粋に嬉しかった。


「ありがと」


 何処か満足そうな表情で、言うクレース。嘘をつかないできちんと事実を告げてくれたこと。きっと認めたくなかったであろうことを認めて口に出してくれたことに対しての感謝の言葉を。

 カルセはそんな彼を、真っ直ぐに見つめた。藍色の瞳に強い決意の光を灯して。


「……でも、死なせません」

「え?」


 彼の発言に、クレースは驚いたように瞬きをする。彼は今、何といった?

 瞬きをする間に、カルセにぎゅ、と手を握られる。少し体温が低い方だといっていたカルセの手を暖かく感じた。真っ直ぐに自分を見つめる藍色の瞳を見つめ返せば、彼はゆっくりと口を開いた。


「私が、何とかしますから。

 薬でも、魔術でもいい……魔獣から罹患した病なら、調べれば治す方法は見つかるかもしれない……」


 "今は"治る薬が無いだけだ。それならば自分が、治す薬を作れば良い。カルセはそう言った。クレースに言い聞かせるように、或いは……自分自身の決意を固めるように。

 そっとクレースの手を握り、カルセは言葉を続ける。


「だから、待ってて。必ず治すから……それまで」


 きっと、きっと治す。その手段を見つけるからどうか、それまで……生きていてほしい。優しく、力強い声で彼は言う。もう彼の瞳は、視線は、揺るがなかった。

 クレースは暫し驚いたように彼を見つめていたが、やがてすぐ穏やかな微笑みを浮かべた。


「……カルなら、出来る気がするよ。頭いいし、研究熱心だもんね」


 きっと出来るよ、とクレースは言う。カルセはそれを聞いて表情を綻ばせる。そのまま、優しく彼の額を撫でた。


「ふふ、そういってくれると嬉しいですよ、クレース。

 頑張りますから、私も……――」


 きっと助ける。きっと、薬を作って見せるから。カルセは真剣な声音でそう言う。そのまま、彼に軽いキスを落とした。クレースは擽ったそうに、照れくさそうに目を細める。


「無理はしないでね」


 気遣う言葉。優しい表情。


―― 嗚呼、彼は優しい。


 カルセはそう思いながら苦笑を漏らす。


「貴方にだけは言われたくないですよ……」


 この期に及んで、自分の心配でなく他人の心配をするとは。カルセがそう言うと、クレースは頬を緩めながら、いった。


「ははっ、その通りだね」


 くすくす、と笑うクレース。カルセはそんな彼を見て微笑んだ後、ふと何かを思い出したような顔をして、そっと、クレースの小指に自分の小指を絡ませた。


「ん、どうしたの?」


 きょとんとした表情を浮かべる彼を見つめ、カルセは微笑み、いう。


「ねぇクレース、知ってます? これ、東方で約束をする時にするんですって」


 ゆびきり、っていうんだそうですよ。カルセはそう言う。それを聞いたクレースは幾度か瞬いた後、ふわりと微笑んだ。


「へぇ、そうなんだ……カルは、物知りだね」

「ふふ、調べることが好きなのですよ」


 カルセはそういって笑うと、東方から来た使者に教えてもらった通りの"言葉"を口に出す。


―― 指きりげんまん、嘘ついたらはりせんぼん飲ます。


「指切った……と」


 カルセはそう言い、絡ませた小指を解いた。、


「……何か物騒」


 クレースはそう言って、笑う。物騒だ、などと言いながらも何処か面白がる表情のクレースを見て、カルセも小さく笑った。


「ふふ、そうですね。貴方に針を飲ませるわけにはいきません」


 頑張らなくてはなりませんね、とカルセは言う。開いた窓から吹き込んだ湿った風が、彼の長い髪を揺らした。

 どうやら雨は上がったようで、うすぼんやりとした光が差している。それが、彼の淡水色の髪を照らしていた。クレースはそんな彼を見つめて、呟くように言った。


「カルは優しいなぁ……」


 ふ、と息を吐き出した彼は、目を閉じる。そのまま弱い咳をした。カルセはそれを見て、少しすまなそうな顔をする。


「ごめんなさいね、クレース。無理をさせました……」


 そう言いながら彼はそっと、クレースの頭を撫でる。その手の暖かさと優しさにクレースはゆるゆると首を振った。


「……へいき。ありがとね、カル」


 カルセはそう言う彼の頬にキスを落とした。


「約束、守ってくださいね」


 呟くように言うカルセ。呟く、というよりは……懇願に似た声音で。


「わかったよ」


 約束、だね。そう言ってクレースが微笑むのを見て笑うと、カルセは部屋を出ていった。

 ぱたん、と静かにドアが閉まる。カルセもそんなにお喋りな方ではないのに、人の気配がなくなっただけで酷くしんとしてしまったような気がした。

 寂しい、けれど……これ以上彼に迷惑はかけられない。クレースはそう思い、ひとつ息を吐き出す。


「カルがいてくれるだけで、楽になるよ……」


 そう、クレースは呟く。別にカルセは治療をしてくれた訳ではないけれど……それでも、カルセの存在が彼の心を、体を癒す。体の痛みも、胸の痛みも、全部全部……――

 薬品の匂いがする病室の中、クレースは一人目を閉じる。いうことを聞かない体。


―― ちゃんとカルセとの約束を守れますように。


 そう、誰にともつかず祈りながら、彼は緩やかな眠りに身を委ねた。

















第十二章 Fin

(ラスティネイル:私の痛みを和らげる)


 

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