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街の喫茶店

本作はアルファポリス様でも投稿させていただいておりますので、機会があれば是非そちらも一読していただけると幸いです。

パスタから立ち込める湯気と一緒に、客の鼻孔へと馨しいナポリタンソースの薫りが刹那的な速さで昇っていく。


食事を嗜む際の重要な器官とは舌もそうであるが、まず優先的なものは鼻であろう。


食通は口の中で咀嚼する前に、鼻でその薫りを咀嚼している。


そこで料理の情報を得られるのだ。

それは香辛料、具材、調理方法等である。


そして、想像する。

その料理が出来上がるまでの光景を。

料理人がまるで、演奏家のようにこれらの旋律を緻密に、美しく纏めて奏で上げる。


だが、この料理は全くもって、未開であった。


立ち込める薫りは奇抜で、斬新さという印象を与えるのだが、その情報は量が大きいせいか全く頭に入ってこない。


だから、料理人が奏でた一つ一つの音も想像することが出来ないのだ。


それ故に、客は店員に問う「これは何であるか」と。


だが聞いてもなお、これが何であるのか、不明であった。

その店員が返した言葉は要領を得なかった。

"すぱげっていえ"という何かの呪文のような言葉を伝えるだけで、この料理の情報を得るヒントには到底成りえなかった。


どうしたものか、取り敢えず一口食べてみるか、だが、無知のまま食べるというのも面白くない。


自慢ではないが私は食には少し煩い。


常日頃から料理は情報を知覚して、全身に経験するものだと考えているので、いくらお腹が減っているとはいえ、無知のまま食べるというのも些か問題があった。


そのように未知の料理を前にして、悶々としていると、脇から店員が寄る辺無い声色で尋ねてくる。


「すみません、何かお気に召さない事でもありましたでしょうか?」


それは突然だったので、客も少しばかり動揺した。


「い、いえ、特には無いのですが……」


「特には、ですか?」


煮え切らない言い方に、店員は客へ強迫気味に問い返す。


「とっ、特にはというのはですね。

あ、あのですね……」


自分の返事を待つ彼が、泰然自若として眉根一つ動かさないので、静かにでかでかと佇む彼のその姿が怒れる鬼のようにも見え、客は恐ろしさから頭に血を登らせてしまった。

それゆえ、上手く説明しようにも呂律が回らなかった。


その時、客の理性を一気に取り戻す優しい一声が風に乗ってやって来る。


「ハル君、もういいから、君は厨房を頼むよ。」


すると、ハル君呼ばれる店員の顔が一気に青ざめて、やがて俯き気味にすみません、と客に伝え、店内の奥へと寂しそうに去ってしまった。


その後ろ姿が先よりも何倍も小さく見えて、客にはもはや、彼に対しての先までの一切の感情は消えていた。


あまりにも気の毒に見えて、少し罪悪感を感じた。


「すみません、お客様。

何か彼に関して、ご不満がございましたでしょうか。

でしたら、私の方から彼をきつく言い聞かせて起きますので……」


あの店員の退散後、急いで自分の元へと駆けつけてきたオーナーが慇懃に謝罪をしてくる。


それが益々、彼に対する申し訳なさを煽っていた。


「い、いえ、そのようなことは決して無いのです。

で、ですから、彼を叱咤する必要も無いですし、オーナーが頭を下げることは無いです。

全て、私が産んだ問題ですから……」


「そ、そうですか……」


少なからず自分に責任を感じてしまった客は、そう必死にオーナーアレクセイに説明する。


そんな客を目の前にして、アレクセイはやや驚いた顔を浮かべた。


「彼には失礼な事をしてしまいましたが、ただ、この料理の情報を知りたかったのです。

此処いらでは見ないものだったので……」


「そ、そうでしたか。」


やや俯き気味にそう説明した客を見て、アレクセイはどこか安堵の表情をしていた。

そして、アレクセイは置き去りにさせられたパスタを一瞥すると、急に慎重な声で客に話し始めた。


「お客様が見慣れない料理と思われるのも、無理はありません。

これは西の遠方イターニャに古くから伝わる物ですが、原材料は小麦粉なんですよ。」


「こ、小麦粉ですか?」


あっと、驚きながら食卓の上のそれを見やる客にアレクセイは微笑した。


「はい。ここら辺ではパンが主食ですから、こういったものを食べる機会は無いです。

ですが、それでも元は小麦粉ですから、腹持ちも良いですし、安心して食べられますよ。

それと、この赤いソースですが、こちらは南の熱帯地域で取れるトーチャの実を材料にしております。

雨量の多い場所でしか実は実らず、また、その身は熟すと鮮やかな赤色になります。

酸味のある食材ですが、当店の秘伝の香辛料と味付け方法で、大変美味しく仕上げております。」


「な、なるほど」


どうやら、客も納得がいったようで、説明をしていたアレクセイ本人の顔が何処か満ち足りていたので、それが良くわかる。


「失礼ですが、お客様。」


すると、アレクセイは神妙な面持ちで客を正視して言った。


「食事とは、既に分かりきっているものを愉しむのでありません。

自らが知覚した料理を自分の中で描き、これは何であろう、この匂いは不思議だ。等、そこから中身を自分自身で練り上げ、想像していく。

そこに料理の楽しみというものが見えてくるのだと、私は思います。

とはいえ、私がこう言うのも吝かでしたでしょうか?」


すると、客は頭を振り、非常に晴れた笑顔で言った。


「いいえ、勉強になりました。

これで、私も落ち着いてこの時間を楽しめそうです。」


「はい、お役に立てようで……

ありがとうございます。」


和やかな雰囲気を誘う欠片が、焙煎したコーヒーから抽出された一滴のようにじんわりと小さな空間に浸透する。


これが喫茶店「アリエス」が大切にする瞬間だ。

それは浄化というのであろうか。


人には何らかの疑問、不満や悩みがどこかにある。


それは自分で解決するなら、言うことは何も無いのだが、如何せん解決出来ず、それをそのまま溜め込んでいる人もいる。


そんな悩む羊達を厚く迎い入れ、安らぎの開放地へと誘うのが、ここ喫茶店「アリエス」なのである。


そして、今日もまた悩む羊は安らぎへと、静かに達していくのだった。





お昼時を過ぎると、客足も減り、店内は閑散とする。

人気が少なくなるというのも、寂しいことである。



そして、そんな空気に流されるようにして、喫茶店「アリエス」の従業員の一人ハルアキは店内の掃除をしながら深く溜息を吐いた。


「おや、ハル君。

どこか物憂げだね。

もしかして、先の事まだ気にしてるのかい?」


そんな彼を見兼ねて、アレクセイはロビー席の裏から声をかける。


「はい……」


どこか気の無い返事だった。

掃除をする手も先程から殆ど動いていない。


そんな彼にアレクセイは優しく語りかける。


「最初は申し分は無かったんだけどね。

後からが、ちょっと心配だったよ。」


「やっぱり、そうですか。」


アレクセイの言葉でハルアキは更に気を落としてしまう。


「他人事な言い方だけど、やっぱりハル君は不器用なんだよ。

今日も残り少しの所で、失敗してしまっただろう?

何というのかね、不器用故に急な出来事に対する処理の杜撰が出たように見えるね。」


「面目ないです。」


次第にハルアキの視線は床に向いていた。

このままでは何も無い地の底までも、見据えてしまいそうな、そんなようにも見える。


「ハル君は真面目だからね。

そう思い悩むのも、君の良いところでもあり、悪いところだと私は思うよ。

でも、ちょっと肩の荷を下ろしたらどうだい?

接客中、ハル君はいつも顔が強ばっているし、余裕がないようにも思えるよ。

君は体格が大きいからね。それだけでも、お客様に強烈な印象を与えてしまうから……」


「自分もそれは、分かってはいるんですけど、それでも如何しても人の前に立ってしまうと、上がってしまうんです。」


そう云いながら、ハルアキはほとほと困ったような顔でアレクセイの顔を覗く。


「まぁ、こればかりは経験を積んでいくしかないだろうね。

コゼット君が居ない今日のような日は、なるべく接客は君に対応してもらうから、少しずつ慣らしていこうか。」


「は、はい。何だかいつもすみません。」


親子であるがハルアキはアレクセイに対して、かなり他人行儀な言い方をする。

それも、彼の生い立ちに関係があるのだが……


ハルアキが暫く物思いに耽っていると、チリーンと扉の右上に設置されたベルが、ドアの開閉と同時に小気味よく鳴る。


そして、その合図に気づいたアレクセイ達は訪れた者へ陽気に挨拶をする。


果たして、それはただの客なのか、それとも悩む羊であるのか、まだハルアキには判断出来ない事であった。

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