第十七話「夢現」
溶けるような闇が広がっていた。
暗澹たる末広がりの世界に飲まれ、己を構築している境界線さえ溶けてなくなっている。
何の前触れもなく、不意に、灯りが入る。
吹けば消えそうな淡い灯りは、古びた、どこか滑稽なランタンに守られて、世界に出現した。
頼りない程ではあるが、確かに火に照らされ、ようやく自分の形を思い出す。
同時に、目の前に錆臭くて小さな四角い木の机と、体のサイズに合わない大きな安楽椅子が二つが現れ、机を挟み向かい合って並んでいた。
「どうした、座れ」
机の向こう側の椅子より、世界よりも暗い、とても暗い声が届く。
目の前に、男が座っていた。何もかもに疲れ果てたかのように椅子に背を預けたその姿に懐かしさを感じていた。とても、懐かしかったのである。
服はくたびれ、もともとは修道服であったなどとは思えないほどに着崩れている。
無造作に散らばった白髪の隠せない茶髪に、空色をしているのにどこか夜よりも暗い瞳。表情を見るだけで、人間性が欠落しきっていることがわかる、初老のような男がいた。
しばしの沈黙の後、椅子を引き、その姿を眺めてからゆっくりと座る。
そのまま、何も言葉が交わさないまま、静かに左の手を机の上に乗せた。
「大きくなったな、イオリ」
そういいながら、男は差し出された手を触りだす。
中指、人差し指、親指、薬指、小指。順繰りと、丁寧に嘗め回すかのように観察される。手の甲が終わればさかさまに向け手のひらを触りだす。
押して、曲げ、撫でて、摘まんで。そして、最後に薬指を掴んでいた。
「本当に大きくなった。なのに相変わらずお前は変わらないな」
そういい終わったと同時に、枝を折ったような乾いた音が掴まれていた指から響いた。
激痛が走る。指は曲がってはいけない方向に曲がっていた。
いつか、昔は耐え難かった、激痛が走っている。
だが、いつからだっただろうか。そんなものはどうでも良くなってしまったのは。
まだ、掴まれたままの薬指の様子をよく観察してから、オレは静かに表情を作った。そこには自分が今行われている仕打ちに反し、まるで幼子のいたずらを困ったように眺める老人のような笑顔が張り付いている。
「今日は、誰が死んだ」
問いと同時に、同じ指から再び音が響く。
「今日は、誰が死んだ。お前のために誰が死んだ。お前のせいで誰が死んだ」
相も変わらず指からは乾いた音が鳴り響き、そのたびに激痛が走る。
痛みで空っぽになっていく脳。それでも悲鳴は上げることなく笑みを浮かべたまま指の惨事を見届け、ようやく問いかけに対する答えを口に出す。
「アリス」
世界に沈黙が落ち、指折りの作業が停止する
憎悪、嫌悪、軽蔑、侮蔑、嘲り。
または、激高、失望、憫笑、憤労、憂鬱。
見上げると、負の感情をどれもこれも何もかもを詰め込んだような、死人よりも哀れな瞳がこちらを覗き込んでいた。
「世界を守る勇者様。そんな彼女でも、お前を守ることはできない」
男は指から手を離すと、懐から褐色のビンを取り出し、中身を一気に呷る。中に入っていた白い錠剤が口の中に無造作に流れ込んでいく。
口にした錠剤をまるで骨を貪るような音を立てて咀嚼し終えると、顔を衝突するかの如く近づけ、文字通り目と鼻の距離で薬臭くなった口を開く。
「忘れたのか、庵。お前の敵は世界だ。お前たちの敵は、世界そのものの悪意だということを」
その言葉を最後に、男はいつの間にか消えていた。手品のようにいなくなったのに、自然と違和感はなかった。
座っていた椅子だけを残し再び闇に戻った世界に、今度は不自然な長方形の枠が表れ冷たく照らしてくる。真っ暗な部屋で稼働している電子モニターのようなその中には、もうどうしようもなく過ぎ去ってしまった過去の映像が流れていた。
淡い灯りしかない檻の中、こちらを覗き込む、生まれつきヤクザの様にいかつい顔をした兄の姿が映っていた。
『いいか、兄ちゃんが守るからな。だから安心して耳を塞いでいてくれ』
何一つ不安を残さないような笑顔を作った兄は、こちらの肩に手をのせ、その表情に反した止まらない身体の震えを隠そうと必死だった。
外から閉じ込められた部屋の中、奇麗だった姉と並んで座っていた。その前には合わせても一人分にも足りやしない量の食事が乗った二つの皿が並んでいた。
『大丈夫、イオリ?お腹空いてない。お姉ちゃんの分………もう、いらないから食べて。いっぱい食べて大きくなるんだよ』
もう二日、姉は何も口にしていない姉の身体は、水のように冷たかった。
枠はテレビの画面のように光景を映し出し、そして次第に増えていく。
身体は弱かったが、孤児院で一番しっかり者だった姉の背中をさすっていた。
『お願い、イオリ。もし私が死んだら家族を頼むね』
飲まなくてはいけない薬をもう三日も飲んでいない。離れた別の街まで薬を取りに向かった兄が帰って来る予定から既に二週間も過ぎていた。
病気で血を吐き苦しみもがきながら、それでも最後まで家族の未来を案じていた。
ようやく帰ってこれた兄は、息絶えていないことが不思議なほどの致命傷を負っていた。
『イオリまだ一緒にいたかったけど、もう、ダメみたいだ。サム兄さんに、謝りたかったって伝えてくれ』
年長の兄の反対を押しのけ少し遠出した結果がこれであった。その手に握られた薬が必要だった姉を追うように、彼は天に昇って行った。
崖の淵に立つ、文字を自分に教えてくれた兄の声が届く。
『なあ、イオリ。どうして世界は、こんなに優ししくないんだろうな。もっと、皆で、静かに暮らしたいだけなのにな』
そのまま、彼は真っ逆さまに落ちていった。手を伸ばすこちらに向けられた最後の表情は未だに忘れることができない。
上えも下も、右も左も、高さも距離も、大きさも向きも関係なく、枠は等しく、映る光景を攻め立てるように見せつけながら増えていく。
腕の中に、仲の良かった妹がいた。
『イオにぃ、どこ。さむい、さむいよ。まっくらでさむい、さむいよ』
あんなに抱きしめていたのに、彼女は最後までこちらの存在に気づくことはなかった。
臆病だったくせに、いつの間にか立派になった弟がいた。
『兄さん、ありがとう。今度はボクが助けるから………今までありがとう』
そういって彼は勝ち目のない悪意に向かっていった。
断頭台の上にこれから向かう、年長だった兄と向かい合っていた。
『じゃあな、イオリ。僕が言えることじゃないけど、あいつらのこと頼んだよ』
死刑が執行される。ただ少し現実にあらがっただけだった、彼の罪はその程度の行いの結果であった。
やがて完成した歪なモニタールーム。
いっぱいに映し出された再上映の群れ。
『ごめんね、イオちゃん。お母さん、約束守れなくて、間に合わなくてごめんね』
『約束…………守ったのですよ』
どれ一つ、忘れられない記憶ばかりだった。
ご丁寧に、一番新しいものまでそろっていやがった。
「変わらない。今も昔も、今までも、何一つ変わっていないなイオリ」
気がつけば、また男が立っていた。
男は相変わらずひどい表情をしていた。人間性の崩壊しきったその顔に明るさを失った空色の瞳が並んでいた。
「何一つ変わらず、変わろうともせず嘆いているばかりで、守られているばかりだな。だが、今回は違うだろう」
「いつまで死人の真似をしている。心を殺すすべは教えたが殺した覚えはない。いい加減に目を覚ます時間だ、『イオ』」
全身をあらん限りの力で突き飛ばされ、その先にあったモニターの一つに落ちていく。
――――――――
静まり返った夕方、オレは一人で教会の外の森に出ていた。
いったいいつ以来の外だろうか、最後に記憶に残っている外の光景はもう一年も前だった気がする。
永遠と、殻に閉じこもるように孤児院の地下室にいた。何もかも時間をも忘れ、取りつかれるように服を作っていた。残酷すぎる外の世界を拒絶し、唯一仕えるギフトをフルに使い家族が持ってきてくれる布を服に仕立てる。そんな日々を一年以上繰り返してきた。
何の解決にもなりはしない。
産まれてからずっと、誰かに命を狙われ続ける日々であった。そしてそれはオレ一人がおとなしく隠れていれば済む問題でないことは分かっていた。
国境線に近い辺境地のさらに端にぽつりとたたずむボロ教会。
そこに集う孤児たちは、誰もが厄介な生まれを持つ問題児たち。誰一人その存在を許されない者たちばかり。
何度も何度も襲われた。
買い物に行けば、一緒にいた兄は暗殺者に殺された。
薪を集めていれば、いつの間にか人さらいに囲まれていた。
朝起きたら檻の中だったことも珍しくはない。
一人隠れたところで家族にかかる災難には何一つ変わりはないだろう。
だが、オレの場合それだけではなかった。
この容姿だ。老若男女、人間どころか種族を問わず魅了するこの姿。
街中で素性を知らない余所者に押し倒された。
馬車をよければいきなり止まり、中から出てきた貴族に連れ去られたこともある。
産まれた時から世界のすべてが敵だった。だというのにこの見た目はいやというほど目立っていた。
そしてこの魔力だ。馬鹿馬鹿しい夢の永久機関。
何処から秘密が広がってしまったかは知らないが、世界中の学者気取りの野蛮人どもが手段を択ばずに攫いに来る。
幾度となく尊厳を踏みにじられた。立ち上がろうにも足はもう動かず差し伸ばされる手もなかった。
幾度となく神に嘆きかけた。声を潰し、石の床に膝の跡がつくほど祈ろうとも救いはなかった。
幾度となく諦観を味わった。ほとんどの感情が死んでもなお悲しみだけは消えなかった。
そして自棄を超えた。
家族の目をかいくぐり、誰にも知られずに教会を抜け出し森の中をさまよい歩くこと二日目。
入り組んだ森の中、偶然見つけた大樹の洞の中でとうとう動けなくなっていた。
これ以上このまま放っておけば危険だと空腹が訴え続けてくるが、喜んで享受していた。これでようやく死ぬことができる。
オレの身体に備わった異常な魔力。
ひとたび体が大きく傷つけば、そこから染み出した魔力によって引き起こされる魔力災害。
人間をまるで虫けらのように蹴散らすことのできる魔物を量産できるこの体質故に、刃物や縄、高台といった場所での死に方はできない。生産された魔物は見境なく周りにいる生物を襲うため家族を巻き込みかねない。また、例え傷一つなく死ねても死体に宿った魔力で何が起こるかは分からなかった。
故に、唯一選ぶことのできる死に方は餓死のみであった。
そうすれば、無限に思えるこの魔力も死ぬときは少しも残っていない。
洞の壁に背を預け、虚空を眺めながらもどこか安らかな表情で死を待ち望んでいる時であった。
「うう、ウサギさんどこに行ったですか。わっ!お洋服が破れちゃったのです」
どこからともなく、やけに元気な声が森に木霊した。
響いた声に警戒し視線を外に向けると不意に一匹の白兎が慌ただしく飛び込んできた。そしてそれを追って誰かが洞の中を覗き込んだ。
「そこなのです‼」
「……誰」
警戒しつつ視線を向けた先には薄暗い洞の中を照らす太陽のような少女がいた。
「わわっ!こっ!こんにちわなのです‼︎あれ?もうこんばんわなのです?」
「……で、誰?」
少女はまさか覗いた先に人がいるとは思ってもいなかったはずだ。だが慌てながらも出た言葉は今の時間帯どのあいさつをするのが正しいかというものであった。
「う〜、挨拶は大事なのですよ、挨拶ができないと立派な淑女にはなれないのです。だからほら、こんにちわなのです!」
「…こんにちわ、で、誰」
必要に挨拶をせがむ少女に対し、今にも消え入りそうだが明確な敵意と警戒を感じることのできる声が、必要にお前は誰だと問い続けた。だが、少女にとってはそれはどうでもいいものであったらしい。
そんなことよりも挨拶を返されたことがとてもうれしかったらしい。その顔に花が咲くような満面の笑みを浮かべながらこう返してきた。
「初めましてなのです。私はアリス‼︎今代のゆーしゃなのです。あの………よければお友達になってくほしいのです!」
とびっきりの笑顔が、真っ暗だった世界に朝日のような光を差し込んだ。
初めて、この世界が明るく見えた。
仕事は、じっくり選びましょう。壊れます。




