第十五話「狂気の世界で」
あたり一面が、紅く紅く染まっていた。
それは、優しく暖かく広がる幻想的な夕焼けの色と違う。
冷酷で、残酷で、無慈悲に現実を突きつける紅い色。
漂う鉄臭さは何がこの世界を彩っているのかを無遠慮に突き付け、先ほどから響いていたクチャクチャという生々しい粗食音は誰かが喰われていることを知らせてくる。
……頭が回らない。
見たくない。聞きたくない。嗅ぎたくない。……知りたくない。
アリスが迷い込んだ幻想的な狂気の世界。
紅い液体にいたずらのように染められた世界で、悪魔の肉塊がワルツを踊る。
そして、その中心で灰色の獣が、取り疲れれたかのようにディナーを貪り続けていた。
身体中が寒い。
気持ち悪くて、吐き気が止まらない。
今すぐここから逃げ出したいのに、手足が震えて言うことを聞いてくれない。
(どうして……こんなところに来たのでしたっけ……)
処理能力の限界を超え、すべてを拒絶し始めたアリスの脳内に、一瞬だけそんな疑問が浮かぶ。
現実から逃避するようにその思考にすがり、考え事に耽込み始める。
なにか、怖いものを見た気がする。
でも、怖いものって?勇者である自分が?
でも、確かに怖かった気が……ああ、でもここのほうが怖い。
何が怖い?
まっかな血。こんなに出ていたら、きっと人だったら、死んでしまう。
踊る肉塊。もしこんな風になってしまったら、きっと元には戻れない。
大きな狼。だけど、狼なんてひとひねり。だってさっきも……なんで、さっき狼を退治したのでしたっけ?
たしか、退治しないとイオりんが……。
ああ、イオりん。
どこにいるのでしょう、イオりん。
会いたい。会いたい。早く会いたい。
イオりんはきっと暖かい。一緒にいればきっと寒くないし、震えない。
イオりんはとっても優しい。一緒にいればきっと何も怖くない。
なのに、どうしてここに彼がいない?
いつも隣にいてくれたのに。
こんな時はいつも一緒にいてくれたのに。
探さなきゃ。
きっと彼も寂しいはず。
探さなきゃ。早く探さなきゃ。
だけど、ここは探したくない。
見たくないものがいっぱいある。怖いものはたくさんです。
まっかな血。こんなに出ていたら、きっと人だったら、死んでしまう。
踊る肉塊。もしこんな風になってしまったら、きっと元には戻れない。
全部、イオりんだったら、きっと彼は……
そこでアリスの思考が途絶えた。
それ以上の考えを彼女は放棄してしまう。
思考は潰え、脳が世界を拒絶し始める。
徐々に認識できなくなっていく世界の中、比較的恐怖を感じないものだけが残っていく。
肉塊が消えた。紅い木が消えた。うっとおしいにおいが消えた……
そして、深い深い森の中、最後に何かを無我夢中で食べ続ける狼だけが残った。
(………あ…ああ…あああああアアアアアァァ)
そこで、アリスはようやく気付いた。
狼が、“何を”喰らっていたのかを。
「イオりんから離れろおおおおおぉぉ!」
アリスは、悲鳴のように叫びながらイオに向かって突っ込んでいく。イオを喰らっていた狼は邪魔だと言わんばかりに片手ではじかれ近くの木に衝突する。
「イオりん!イオり……」
座り込んだ彼女のひざ元にはイオがいた。
突如迷い込んだ狂気の世界で、ずっとずっと探していた人に出会えてアリスは破顔しながら心から喜んだが、それも一瞬であった。
「そんな……」
そこに暖かな温もりはなかった。ただ、悲しくなるような冷たさが彼の体を支配していた。
そこにいつもの優しさはなかった。表情の抜け落ちたその顔からは残酷なまでの現実を突きつけられた。
黒い修道服はいたるところがズタボロに引き裂かれていて、その内側からは彼の血の匂いがあふれ出ている。
むき出しだった手には牙が通った後がくっきりとわかるほどだ。
そして、噛み切られたらしいその喉からはとめどなく血があふれ出ていた。
いつものイオはそこにはいなかった。
ただ、その美しさはいつものように健在で……その様子はどこかで見た死を現した絵画によく似ていた。
「『ヒール』『ヒール』『ヒール』『ヒール』『ヒール』――」
アリスは取りつかれたかのように一心不乱にイオに回復魔法を唱え始めた。
だが苦手な回復魔法は通常よりも多く魔力を消耗する上に効果も薄い。
ましてやほんの数分前にアリスは大魔法を発動したばかり、さらに錯乱していて精神状態がよくない。
そんな状態でも必死になって治療を続ける。
魔力切れの症状は出始めている。
ただでさえ寒気がしていた身体は、もはや死んでしまったかのように感覚がない。
極度の貧血を起こしたように意識も薄れていくのに、金槌で殴られたような頭痛が止まず、頭の中ではシンバルが鳴り響き続けている。
しかし、どんなにかけ続けても、傷は一向に治る気配がない。
視界が白く染まる。
とうとう限界に達したアリスはイオの隣に倒れこんでしまった。
「……ヒー…ル………ヒ…ル――」
それでも、無意識的に魔法を唱え続けるが魔力の残っていないため、もう魔法は発動することはなかった。
暗い森の中にアリスのつぶやくような言葉だけが溶けては消える。
最後に、真っ白に染まった視界で未だ出血の止まらないイオが映って消えた。
(このまま目を閉じてしまえばきっと楽でしょう)
(起きた時には魔力もある程度戻っているはずです)
(だけど、起きた時にはきっともうイオりんは……)
(あと、少しだけでいいから……魔力を――)
そう渇望したアリスはふと気づく。
何もなくなってしまったこの世界から、どこかからか甘いにおいがすることを。
それは意識が途切れかけた時に感じる幻覚か…それともすでに夢の中か。
だが、アリスにははっきりとそれを感じ取れた。
それは、どこかで嗅いだことがあるが、こんな風にどこかおいしそうには感じなかったはずだ。
よく知っているにおいなのに、普段は何ともないそれが、今は悪魔に魂を売ってしまってでも欲しくなるようなそのにおい。
まるで、何も口にすることなくいつまでもさまよい続けてようやく手に入れることのできた水とパンのようなそんな感覚。
アリスはにおいの元に這いよる。
身体はほとんど動かなかったが幸いにもそれはすぐそこにあった。
それはわずかに暖かく、どこか優しく――
アリスはそのまま躊躇することなく舌を這わせた。
瞬間、世界が弾けた。
舌の上に乗ったそれは極上の甘露であった。
口の中に爆発的に甘みが広がり、神経が焼けきれそうなほどの信号を脳に送る。
まるで、ケーキやチョコレート、アップルパイにキャンディー、シロップ、フルーツジャム、とにかく甘くておいしいものがすべて合わさったような美味しさ。神が落とした奇跡のソーマ。
喉を投りすぎてからは、体の底から力があふれる。体の芯から温まり、まるで生まれ変わったかのように気分が晴れていく。
真っ白だった視界はまるでバケツで水をかけて洗った後のようにすっきりしていた。もう、頭痛も感じない。
そして、魔力が完全に回復していた。
先ほどまでもはや搾りかすほどの魔力しか残っていなかったのに、今はいくらでも大魔法が使えそうなほどどこからか力が湧いてきていた。
身体はもう問題ない。魔力はいくらでも湧いてくる。
アリスは飛び起きた。
そして横たわるイオの回復を再開する。
「『ヒール』……え?」
すると、どうだろうか。
瞬く間に、イオの傷かふさがっていく。
アリスは回復や治療魔法のエキスパートではないし、どう甘く見積もっても後何十回かは、魔法をかける必要があると思っていた。
それが、たった一回、それも今までにないほどの効果が現れている。
とある疑問がアリスの脳内によぎる。
先ほど自分が口にしたものは一体何だったのかと。
口に残ったわずかな甘みと鉄の味。
だが、それを深く考えている時間はなかった。
イオの傷は塞がったが未だに意識は戻らない。
アリスは恐る恐るイオの脈を測る。
手に伝わる振動は弱々しくはあるが、主の生存を伝えてくる。
彼の心臓はきちんと音を立てて動いていた。
アリスは今度こそ安心できた。イオは死んでいなかったのだ。
落ち着いたアリスは次に意識のないイオをどうするかを考えた。
心臓マッサージ?人工呼吸?AED?そんな言葉がアリスの頭の中をよぎるがどれもあいまいな知識でしかなかった。ましてや今朝それをしてイオに怒られたばかりであったことを思い出す。
「『気絶しているときは何もするな』って言っていたのです」
その言葉を思い出したアリスはいったんイオを仰向けに体制を立て直させて辺りを見渡した。
そこにはいくつもの狂気の肉塊がアリスをあざ笑うように散乱している。
だが、それを見ても今度は取り乱さなかった。
アリスの傍らにはイオがいる。それは、アリスにとって絶対の安心材料になっていた。
それに、もしイオを襲って来たら自分が守らなくてはならない。
だが、こんな場所にいつまでもいたらまた気が狂いかねない。
少し悩んだ末にアリスは街に移動することを選択する。
「イオりん、ごめんなさいなのです。少しだけ我慢してください」
そういうとアリスはイオを姫抱えし、街に向かって走り出した。
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紅い世界に狂気の肉塊が蠢いている。
それらは特に何をすることもなく、膨張してははじけ飛び、飛び散った紅はさらに世界を赤く染め続ける。
ふいにそこに仲間が一つ加わる。
木の根元で白目をむいて無様に気絶していた狼の身体が泡立ちだす。
先ほどまでイオを貪り、アリスに弾き飛ばされたオオカミはみるみる原型を失っていった。
肉体の変化による激痛で目を覚ました狼は、体が変化し続ける中、断末魔を上げ続ける。
そして、最後かと思われた瞬間、狼の眼に何かが映った。
「うわっ……気持ち悪……いのです?確かにこれは見ないほうがいいなあ……いいのです?」
眼に映るそれは、腰まで伸びた金色の髪と翡翠色の瞳を持っていた。
しかし、それは狼の眼にはあまりにも不気味に映っていた。
生来、狼には色を識別する能力がなかった。全てが白黒に見える世界は影と光だけでできていた。
だが、目の前のそれは金色の髪と翡翠色の瞳を持っていた。狼の眼に映る世界には、髪と瞳だけが色を持つ不気味な存在が立っている。
野生の感か、それが本物でないと思った。何か作り物めいたものを感じる。
「え?何こいつ、偽物だってわかったの?結構自信作だったんだけどな…だったのですが。まさかこんな畜生にばれるレベルだったなんて……だったので……もう!この口調めんどくさい、(怒)!」
急に不自然に取り繕ったような口調を止め、自分が怒っているということを『かっこいかり』と話し方としてはさらに不自然な語尾でアピールしながら、それは狼を見つめてきた。
「なに?あんたもこの色がおかしいっていうの、(怒)。……そうよね、『あの人』だって元に戻しなさいって言ってたもんね、(哀)」
そういうとそれの髪と瞳は瞬く間に脱色していった。
後に、白と黒に戻った世界にやせっぽっちの少女だけが残る。
彼女は、アリスと同じようなエプロンドレスを着ていた。だが冬を前にした寒い日だというのに彼女はそのドレス以外には、不釣り合いに大きい長靴を履いているだけで他に一切のものを身に着けていなかった。
そして、どことなくそのドレスは彼女には似合っていない。やせた小さい体からは、彼女がとても裕福とはいいがたい環境にいたように見えるが、華やかなドレスはまるで貴族が着るような高級品である。
人が服を着ている、というよりも、人が服に着られているというような格好。
ただ、その長靴だけは不気味なほどに似合っていた。
狼は思う、こいつはどこかおかしいと。
「まあ、死にかけの狼にまで疑われるなんてショックです(哀)。ところで――」
そういうと少女は眼を鋭く細め、猫のように笑いながら狼に触れた。
「あなた、このままだと死にますけどいいんですか(楽)」
その瞬間、狼は自分がどんな状態になっていたのかを思い出した。
全身に激痛が走り、肉体の崩壊が再開した。
少女が狼に話しかけていた間、肉体の変質も止まっていたらしい。
だが、突然激痛の波に襲われ始めたオオカミはそんなこと疑問に思う暇もない。
膨れては弾けまた膨れだす肉体に狼は苦悶の声をあげながら、こう『思った』。
痛い、痛い、死にたくない、痛い。
狼自身は気づく余裕もなかったが、それは人間が感じたことを言葉で表すように、本能のような曖昧なものでなく確かな形として脳に浮かぶ。
「へぇ……助けてほしいの(驚)」
その様子を興味深そうにまじかで眺めていた少女は実に楽しそうに言葉を続けた。
「まあ、欲しかったものは手に入ったし、これだけあれば十分かな(慢)。そうね、あなたは助けてあげるけどかなえる願いは一つだけ、私は欲張りが大嫌いだもの(呆)」
そういうと少女は狼から少しだけ距離をとった。
その場で彼女はくるくると回り始めた。
肉塊の崩壊する音が、ワルツを奏でる。それに合わせて踊るように回り続ける。
突如、彼女は両手を大きく広げて止まった。その頭にはいつの間にか三角帽子が乗っていた。不似合いだったエプロンドレスも消え、代わりに簡素なシャツの上に襤褸衣のようなローブを着ている。
「痛みか死か好きなほうから救ってあげる。だけど、きちんと対価は頂く。だって私は『魔女』だもの(喜)」
少女のその姿は、まるで十字架に囚われた罪人のようであった。あたり一面の紅い光景はまるで彼女を焼いているようである。
少女の言葉の意味を狼は理解できるような状態ではなかった。
ただ一瞬、意識が途切れる最後に『死にたくない』とだけ願った。
その様子に少女はまるで面白いおもちゃを見つけたかのように喜んでいた。
「足の代わりにきれいな声を、命の代わりは何にしよう?今日の私は素敵な魔女。好きな願いを叶えましょう。だけど、一人に一つだけ、欲張りさんは大っ嫌い。あなたの願いを叶えましょう、だから――」
紅い森の中に少女の歌声が響く。
いつの間にか肉塊の演奏は止んでいた。
「私の願いも叶えてね(喜)」
三か月
前回を投稿して空いた時間です、ハイ。
あ、就職決まりました。あとパソコン買ったので小説書きやすくなりました(今まではタブレットで書いてました)
三か月でいろいろありましたが一つ思うことは、なぜ高機能執筆フォームなくなったし!めっちゃ使ってたんですけどねぇ。
三か月何も書いてなかったわけでなく、ほかのものをかいたり、書いたけど没になりまくったりしました。因みに今回の話は4パターンぐらい存在しましたが、(比較的)無難なものになりました。




