第10話 「やりたいからやる」
やることがあるからと、先に家から出て行った雨宮を、ショウは食べ終えた食器を洗いながら見送った。
護衛として来たのに、一人にするってどうなんだ。という当たり前すぎる事実に気づいたのは、八時を知らせる時報が鳴り響いてからだった。
昨日より激しさを増した雨が、灰色の雲から大量に降り注ぐ。ただでさえこんな日はサボってでも休みたいというのに、左右の手には傘が握られている。一本は当然ショウ本人が雨避けとして使うものだが、もう一方は浅輝から借りた傘だ。
傘を二本持つというのは、思った以上に邪魔くさいものだったが、さすがに返さないと持ち主よりもファナンに何を言われるかわからない。
それこそ、ファナンに目をつけられて、残りの中学校生活を怯えて暮らすことになる。イメージ出来やすい分、雨宮の話よりリアリティがあって恐ろしい。
そう思うと急に寒気がして、背筋を震わせた。
「うん、ちゃんと返そう、そうしよう」
簡単にへし折れてしまいそうな決意を胸に抱き、家を出た。
同じ第二深央中学生を始め、これから仕事へ向かうであろうスーツ姿の男性に混じり、住宅街から聖蘭本街道に入る。この地が南端に位置する関係で、車の往来が少ないのだが、なぜか高確率で赤信号に引っかかることが多い。
今日も交差点で一度足を止める羽目になり、青に変わるのを待つことになる。
そんな中、一台の黒塗りのセダンが、向かい側の路地に左折し、電信柱の前で停車した。
信号が赤から青に変わると、一斉に歩き出した群衆に紛れて横断歩道を渡り始めた。依然として路地の入口には先ほどのセダンが止まっており、通行人が対向車線側に避けて通る。ショウも同じように車道を通ろうとして、
「――おはよう」
全く予期せぬ場所から声をかけられ、眠くて垂れ下がった目を大きくした。
吃驚したショウは、反射的に隣のセダンを見た。
後部座席の窓は下がり、車中には見覚えのある女性が着座する。黒塗りのセダンに乗っているからだろうか、玉の肌が際立ち輝いてすら見える。しかし、その凄絶なまでの美貌も陰りのある瞳が均衡を保つ。
「あっ、浅輝!? お、おはよう」
「驚き過ぎよ。逆に私がびっくりするでしょ。もうここで良いわよ。学校までは歩いて行くわ」
前半はショウに向けたものだが、後半は運転席のファナンに対してだ。
扉を開けて外に出ようとした浅輝が、すっと右手を伸ばした。
「傘を返してもらわないと、外に出れないんだけど?」
「あ、そっか、ごめん」
すぐに手にしていた傘を浅輝に渡した。受け取るやいなや傘を広げ、車外へ出る。それを見たファナンが運転席側の窓を開け、
「葵沙那様。何もこのような場所でお降りになられなくても、学校までお送り致しますよ」
「別にこの距離なら歩いて行けるわよ」
「いえ、そうではありません。万が一何かあってからでは遅いのですよ。せめて学校に着くまでは護衛をつけるべきだと申しているのです」
「はぁ。もう……仕方ないわね。風間乗って」
「………………え?」
今なんて言った。乗れって言ったのか? いやいやまさか、そんなはずがない。その他大勢の一人にしか過ぎないオレがこんな風に声をかけられるなんてあり得ない。そもそも、学校一の有名人である浅輝に――
ショート寸前の脳みそをフル回転させていたショウの思考は次の瞬間強制的に中断させられた。
「いいから、早く乗ってよ。私が乗れないでしょ」
半ば詰め込まれる形で、背中を押されて車の中に入れられた。
これほとんど拉致。
眼前に迫りくる黒革のシートに、胸中でそう呟きながら飛び込んだ。
シートに顔型の窪みを作り、ほどよい痛みが首に生まれる。後方でバタンッと音が鳴ったのは浅輝がドアを閉めた音だ。
「だ、大丈夫ですか風間君?」
「なんとか……」
まさかファナンに心配されるとは思っていなかったが、なにより今までの雰囲気から浅輝がこんな乱暴だとは想像できなかった。
ショウは、赤くなっているであろう擦りむいた鼻頭をさすり、シートの上に座り直した。
「葵沙那様、いくらなんでも乱暴ですよ。私としてはご学友の方を乗せることに異論はありませんが、もう少しご自身の立場というものを――」
「いいから早く出しなさい」
と仕える主人の命令が出れば、従うしかないのが執事の辛いところ。まだ言い足りないという面貌ではあったが、アクセルを踏み込んだ。
「なんかオレまで送ってもらってありがとうございます」
「葵沙那様のご学友の方ですからね、お気になさらないでください」
バックミラー越しにファナンの屈託のない笑顔が映る。
正直かなり助かった。路地に入ってしまえば、学校までの距離はそれほど残っていないが、雨の中を歩くとなると、送迎は嬉しい限りだ。
最初はどうなるかとひやひやしたショウではあったが、昨日今日の言動を見る限り、ファナンの件は所詮噂でしかなかったのだと安堵した。
「浅輝もありがとうな。もしかして、あそこで止まったのって交差点でオレを見つけたから?」
「そうよ。それより、ファナン。まだ授業が始まるまで時間あるわよね?」
「ええ、あと二十分弱ありますが、それがどうかしましたか?」
「そのまま真っ直ぐ行って」
「「え!?」」
驚いたのは、ショウもファナンも同じで、数メートル先には正門が迫っている。右折しかけたハンドルを持ち直し、浅輝の指示通りに直進した。
過ぎ去っていく正門を無意識に目で追う。状況が呑み込めず茫然としていた思考を取戻し、ショウは声を荒げた。
「ちょっと待てよ。なんで通り過ぎるんだよ!」
「そうですよ。運転している私が申し上げるのもなんですが、どうして通り過ぎるのですか!」
揃って異議申し立てする二人に、当の本人の浅輝は素知らぬ顔をして窓の外に視線を外す。
「丁度いい機会だから、少し話をしようと思っただけよ」
「は、話ってオレと!?」
「何よその反応。私とは話をしたくないっていうの?」
「ええええ!? いや、そういうんじゃくて、その、なんていうか嫌とかじゃなくて驚いただけだって。浅輝からそんなこと言われるとか思ってなかったからさ。でも、なんでオレとなんだ?」
「ん、別に興味があったからって理由じゃだめ?」
この先、まず二度と聞くことができないと確信できる理由にショウは耳を疑った。
興味があるってオレのこと?
目をぱちくりとさせ、受け入れられない現実をたっぷり享受する。
「前から気になっていたのよ。風間翔、十一月十一日生まれの十五歳。身長一六四センチ、体重五二キロ。成績は一八〇人中、三〇位前後と特別高くはないけど常に上の中をキープ。帰宅部の割に運動神経も悪くなく、全種目で全国平均を下回ったことは一度もない。血筋は父・勇治と母・夏海の間に生まれた第二子。七年前に突如消息を絶った一つ上の聖夏を姉に持つ。当時は姉を失った悲しみで塞ぎ込んでいたけど、雪村正志と交友関係を築くことで立ち直り現在に至る。唯一の趣味は五年前に買ったMMORPGのGSOをプレイすること。何か間違ってる?」
誇らしげに語る内容に、ショウは口をぱくぱくさせた。
ちょっと調べればわかりそうなものばかりだが、入手経路が不明なものまである。というのも、浅輝の弁舌爽やかに並べられた情報を得ようとするなら、どうしてもターゲットである風間翔の近辺を当たる必要が出てくる。しかし、本人の口からもあったように、ショウとまともに交友関係があるのはマサシだけなのだ。
昼間は留守にすることが多い風間家は、自然と隣家との交流も少ないので、こちらの線も薄い。
どこから調べ上げたんだそれ。
同じことを思ったのか、バックミラーの中のファナンも苦笑いを浮かべていた。
「よくそこまで調べましたね。興味があったというだけでは、普通そこまでしませんよ。むしろどうやって調べたのですか? 葵沙那様に何かあってからでは遅いので、私も立場上、事前に教員と生徒の近辺調査は済ませていますが、そこまで詳しくはないですよ」
「別に。そんなの役所と学校のデータベースに載ってるじゃない」
「ああ、なるほ、ど……。えっ……!?」
納得しかけて高速で首を回転させる。さも当然のように言って退けたが、データベースにアクセスするには閲覧権限を持っている必要がある。ここでいうなら、役所の事務員や学校の教員にあたる。
浅輝は言うまでもなく、どちらにも該当しないのだから、そんな権限は与えられていないはずなのだが。
「……またクラッキングされたのですか。褒められた行為ではありませんよ?」
「じゃあ、頼んだらファナンがやってくれるの? してくれないでしょ? だから私が自分でやるんじゃない。私だって何でもかんでも盗み見てるわけじゃないわ。必要な時に、必要なものだけを選んでるわよ」
「それ、どんな理屈だよ……」
全く悪びれる素振りもなく、むしろ踏ん反り返る浅輝に、開いた口が塞がらなかった。それどころか、ふんっと鼻を鳴らし、そんなのはどうでもいいのよ、と一蹴する始末。
口数が少ないゆえのミステリアスな雰囲気。天使に例えられる容姿。その上、お嬢様というイメージばかりが先行して形作られた浅輝葵沙那という人物像。そのどれからも、今の浅輝とイコールで結びつけるのは難しかった。
「……浅輝ってこういうタイプだったんだな」
「申し訳ありません。この度の非礼、私から謝罪致します」
「なんで謝るのよ。それだとまるで私が悪いことしたみたいでしょ」
不満を漏らし、ぷいっと顔を逸らす。
「なんていうか、大変ですね……」
「そう仰って頂けるだけで十分です。これも葵沙那様の執事としての責務ですので」
「オレとしては、逆にファナンさんが噂通りの人じゃなくて助かりました。浅輝に近づく人間は容赦なく排除するって言われてたから、すっごく怖くて怖くて」
「……なんですかそれ?」
初めて聞いたのか、頭上に疑問符を浮かべつつ、ショウに訊ねた。
「あ、それ私よ」
とショウではなく、隣に座る浅輝が答えた。
「中学に入学したころ、なぜか声をかけてくる人が多くてね。目障りだったから、ファナンは私を溺愛してるから近づかない方がいいわよ。って触れ回ったわ」
「葵沙那様! どうしてそういうことを言うのですか!? 初耳ですよ!!」
「何を言ってるのファナン。今初めて言ったんだから、知らなくて当然でしょ?」
「そ、それはそうなりますが。そうではなくてですね」
ああ、こういう人なんだ。
段々浅輝葵沙那という人間がわかってきた。普通の人とどこかずれてるんだ。それも悪い方に。
普通なら常識や良心といったものが働き躊躇する場面ですら、彼女はやりたいからやるのだ。そこだけはちゃんとお嬢様としての素質を持っているらしい。
……ダメだけど。
不意に、ファナンと言い合いをしていた浅輝と目が合った。