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良いことをした後のご飯は美味しいものです

 男が血まみれになって倒れていた。人々が行き来する往来で、だ。


 自身から流れ出た朱色の液を見て、自分は『生きている』のだと実感する。あと数時間で屍になるこの体を、通行人はさぞ穢らわしく気味悪がっていることだろうか。流血の根源である腹の傷口はズクズクと熱を持ち、痛みを増す。

 この痛みが不思議なほど、心地よい。じわり、と指の先から体が冷たくなっていくのを感じた。もうすぐ死が近いのだろうか。

 この期に及んでまだ命に未練がある。これだけ生きたのにまだ俺は、生き足りないというのだろうか。

 終わりのない人生に見切りをつけたいとは思う。

 だがそれ以上に、それ以上に俺の『生きたい』と願う心の方が大きい。

 長生きする程に、卑しい感情が自分の中で肥大していった。




 雨が降ってきた。滴が(あらた)の身体を濡らしていく。流れ出た血液は、雨滴と混じりつつもその流れを止めようとはしない。新の周りは相当量の血溜まりができていた。

 すでに絶命しているであろう、もし新がただの人であったなら。




霞ゆく視界の中で新の視界の端に目を引く、紅色(あか)が見えた。

ひとりの女が紅の蛇目傘を差して、此方を見ている。

通行人は誰も此方を見ようとはせず、無関係を装っていた。俺と女以外の一切が、灰色になる。女の傘の紅がより一層の濃さを増した。

女が新に近づく。新は黒橡色の目を見開いて、女を睨んだ。

「おんな、みせものではない。」

やっとふりしぼって出た新の声は、雨音に消えそうな程に小さかった。


 女は臆することもなくカロカロと木履を鳴らして新の前にしゃがみこみ、新の頬に手を添える。新は身構えた。

 女の白い手が新の血で、朱くなった。じんわりと女の体温が頬から伝わってくる。血を失ったせいなのか、雨に濡れたせいなのか、冷たくなっていた身体に心地好い暖かさだ。

女の手の心地好さに新は目を閉じる。瞬間彼は意識を失った。

 

 俺が目を覚ましたのはあれから二時間後だった。口の中が血液まみれで気分が悪い。身体中がギシギシと痛み、たぶん熱もある。ものすごい倦怠感だ。

熱で朦朧としながらも、自分が寝かされているのが和室ということを確認する。俺は生き残れたことに安堵すべきなのか、死ななかったことに落胆すべきなのか。暫く天井の電灯を見た後、俺はもう一度瞑目した。


 新が倒れた頃から降っていた雨は、その激しさを増してなおも地上に降り注いでいた。この国特有の湿潤な気候がさらに湿度を上げ、室内にいるものを不快にさせる。新は、部屋中を覆い尽くす湿り気に雨の轟音、風邪による熱によって不快のピークをむかえていた。

 部屋の時計が七時を表した頃、雨は不快にならない程度に弱まっていた。新は、再び熱が上がり汗を吹き出して苦しんでいる。

 傍らには、濃紺の浴衣を着た女がいた。名を(よし)という。

 慶は静かに目を閉じて、夜雨を聞いていた。ポツ、ポツと庭の石に雨滴が当たる音が耳に心地好い。


「おい」

慶が目を開けると、怪訝そうな顔で慶を見ている新がいた。新が首だけを動かすと頭の下の氷枕が音をたてる。

(なん)が楽しい。」

熱で体力が奪われたのか新の声はやや小さいが、いささかの生気を含んでいた。慶は新の額から手拭いをとると、傍らのタライで冷やす。

「貴方イビキもかかないし、死んだのかと思ました。」

慶は決して高くないような、アルト調の声で応えた。

「なあ、」

「なんです。」

「なんで助けたんだ。」

睨むでもない、新は慶の目をまっすぐに見つめた。それには困惑の色も混じる。

「死にたかったのですか。」

「・・・。あの時の俺は、半分死体みたいなものだった。好き好んで、死体を拾うやつはいない。俺には、君の意図が解せん。」

「私のは、自己満足ですから。」

「自己満足?」

「良いことをした後のご飯は美味しいものです。私は、今日のご飯が美味しくなるように行動しただけです。」

慶は目じりを下げて、苦笑した。




 特定の事物に対して、強い執着と所有したい意志をもつことを「所有欲」という。いままで、本や食べ物に対してそのような気持ちを抱いたことはあっても、人に対して抱いたことは皆無であった。

しかしながら今、それが起きているということは、現在俺は「恋」というものを初めて体験しているということになる。存外悪くはないが、胸の奥が平素、落ち着かないというのは真に難儀なことだ。

 長い生を経て、数多の女と体を交え、三人の女と所帯を持ったがこのような気持ちになったことは一度もなかった。ということは今までの俺は惚れられたことはあっても、惚れたことは一度もなかったらしい。女に対して失礼にもほどがあるが、今は目の前にいる女が幸せであれば他の女の気持ちなど、どうでも良い。

 人に対して常に平等、公平であれと教えられてきたが、どうしようもなく一人の女を依怙贔屓したい、と思っている。

 今は、女のすべてが愛おしい。


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