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 メルが永遠の別れの意味を込めた『さようなら』を告げた日から一週間が経った。

 一生会わないつもりでそう告げたはずなのに、現在ビスコット男爵の邸にはグラースの姿がある。


 遡る事数時間前。


 メルはソファに寝そべりながら片肘を付き、クッキーを貪り食っていた。

 侍女に見付かれば『はしたないでしょう!』と大目玉を食らうところだが、三人の騎士が付いてからと言うもの侍女達はあまりメルに小言を言わなくなっていた。

 侍女達は騎士達との距離の取り方がわからないのだろう。

 そんな時、ドアの外に居たセシルがメルに声を掛けた。


「メル様、グラース様がお見えですが」


 そんなセシルの声に、メルは相変わらずクッキーを食べながら呟く。


「……グラース様って誰だっけ」


 と。

 思いも寄らない返しにぽかんとするセシルだったが、すぐに平静を装った。


「侯爵です」


 完全に忘れ去られていたグラースを思うと、セシルは今にも笑い出しそうだったのだが、必死で耐えている。頬をぷるぷるさせるくらい必死で耐えている。

 そんなセシルの心中をメルが気付くはずもなく、暢気に『今思い出した!』と言わんばかりの顔をしているから、セシルの頬はぷるぷるしっ放しだった。


「あぁ! ……でもなんで?」


 これと言って用もないし、こっちに来るという連絡も受け取っていないのに、と考えながら軽く身だしなみを整えたメルは、玄関まで行ってグラースを出迎えたのであった。


 玄関で目にしたのは、大量の手土産を持ったグラースの姿だった。


「お久しぶりですねメル嬢」


 太陽のような明るい笑顔でそう言い放つグラースを見て、メルはふと思い出した。

 メルが告げた『さようなら』を聞いた時、グラースは同じような笑顔を湛えていた。

 グラースはあの時から、こうしてこの邸まで足を運ぶ気があったのかもしれない。


「……そう、ですね」


 たった一週間ぶりですけど、と心の中で付け足すメル。

 さらには、会う気なんてなかったのに、とも心の中で呟く。


「こちらは手土産ですのでどうぞ受け取ってください」


 にこやかにそう言ったグラースだが、メルは顔を顰めたまま手土産の山を見詰めている。


「受け取れません」


 手土産の山を睨みつけるように一瞥した後、きっぱりと言い切る。


「謝罪の品だと言えば受け取ってもらえますか?」


 グラースは妙に真剣な顔でそう言った。


「何の謝罪ですか? 謝罪されるようなこと……」


「あの日の夜の謝罪です」


 あの日の夜とは、おっぱい抱き枕の件か。


「まだ蒸し返すつもりですか? もう忘れましょうって……」


 呆れたように息を吐くメルだったが、グラースは喋る事をやめない。


「こうすれば、忘れずにいてくれるということでしょう?」


「はぁ?」


 グラースの言葉を理解しきれなかったメルが、素っ頓狂な声を上げる。


「こうでもしなければ、あなたはわたしを忘れてしまうかもしれない」


 そんなグラースの呟きを聞いて、メルの背後に居たセシルがクスクスと笑う。現にさっきまで忘れていた、と言いたいのだろう。

 必死で笑いを堪えようとしているが、全然堪え切れていない。

 セシルのその様子を見て、メルがほんの少し頬を染める。

 そして心中であぁ忘れていたさ! と開き直った。


「わたしは……あなたを忘れる事が出来ない……」


 ところでどのタイミングで応接室に通そうか、とメルが思案していた時、グラースが搾り出すように呟いた。

 それを聞いたメルは、きょとん、と首を傾げ、


「……何をですか? おっぱいの感触ですか?」


 そう言ってのけた。

 悪戯に笑いながらでもなく、ただただきょとんと首を傾げたまま。

 それを見たセシルが思い切り噴き出し、盛大に笑い出してしまった。我慢の限界はとうに超えていたようだ。


「それも……あ、いえ、そ、その事は是非忘れていただきたく……!」


 グラースの顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。


「忘れるなとか忘れろとか、忙しい人ね。じゃあ」


 メルがじゃあそろそろ一度応接室へ、と言いかけたところで、グラースが大きく息を吸う。

 そんなグラースの様子を、何事だろう? と見ていたメルだったが、次の瞬間グラースの大きな声が響き渡った。


「メル嬢! わたしと結婚してください!」


 それはそれは物凄く大きな声だった。

 あまりにも大きな声だったので、その場に居た全員の耳にキーンという耳鳴りが響いている。

 さらにその大きな声は、大きすぎた故に外まで聞こえていたらしい。

 外から近所のおばあさんの声で、


「見た目に騙されただけならやめときなよぉ」


 という呑気な忠告が飛んできた。

 他にも近所の住人の笑い声がちらほら聞こえていた。

 その声に、酷い言い草だ、と暫し苦笑を零していたメルだったが、ふと我に返ったようにグラースの目を見る。


「……私、結婚するつもりはないんです」


 申し訳無さそうに、眉を下げながら言う。しかしグラースとてその程度で諦めるような男ではない。メルを映す瞳に宿る炎は熱い。

 それを見たセシルは思う。

 何か考えがあるのだろう、と。


「……そこをなんとか!」


 ただの懇願か! と、セシルは人知れず心の中で頭を抱えた。

 前々から女性の扱いが下手な男ではあったが、ここまで酷いとは思っていなかったのだ。

 他の良い男であったなら、もっと甘い口説き文句を多用して落としに掛かるだろうに……、とこっそりと溜め息を零すセシル。

 そもそも結婚を申し込む場所が玄関先というのも正直いただけない。グラースも気ばかりが焦っているのだろうが、もう少し落ち着いて申し込めば良いのだ。と、さらにもう一度溜め息を零す。

 きっとこの場にアナが居たら呆れて説教を始めているに違いない、セシルはそう思っていた。

 しかしメルもグラースもそんなセシルの様子には全く気付いていない。


「そもそも暫くは家から出るつもりもありません。散々嫌な目に遭ってきたんだから、少し休息しても罰は当りませんよね」


 と、メルは言った。しかしグラースも食い下がる。


「わたしと結婚すれば、もう他の男の手により傷つけられる事はないかと!」


 いいことを思い付いた! と言いたげな顔だが、メルの表情が明るくなる事はない。


「……と、言いますと、契約結婚……みたいなものですか? そういえば、侯爵様も言い寄ってくる女が多くて苦労していると聞きましたし」


 そんなメルの言葉に、グラースはすぐに言葉を返すことが出来ず、


「契約……結婚……?」


 と、反芻して首を傾げるばかりだった。


「要するに、虫除けとして私と結婚したいということですか? 結婚してしまえば、言い寄ってくる者は減るでしょうから」


 "居なくなる"とは言わずに"減る"という言葉を選んだのは、言い寄ってくる者が全て居なくなることなんてないとメルが思っているから。

 現に、ミエーレと結婚したはずの公爵のもとに近付いてくる女は今も居るのだ。

 メルはそれを知っているから、結婚に夢を見る事など出来なかった。

 それに、侯爵などという身分の高い男と結婚してしまえば、女の嫉妬も付き纏うだろう。

 言い寄ってくる男だけでも面倒だというのに、その上その女達をあしらうとなると、面倒事は増える一方なのだから。

 と、まぁそんな事は言えないのだけど、とメルは心の中で溜め息を零す。


「わたしはそんなものの為に結婚を申し込んだのではありません!」


 グラースは苦しげに眉根を寄せて、メルに縋るようにそう言った。

 メルの手を取ろうと手を伸ばしたのだが、またもそれを避けられてしまう。


「……あ、ごめんなさい、防衛本能で」


「……こ、こちらこそ学習能力が足らず申し訳ない」


 突然手を伸ばせば避けられるのは以前も見ていたはずなのに、とグラースは小さく苦笑する。


「とにかく、私は結婚などしません」


 きっぱりと言い放つメルだったが、グラースも負けじと口を開く。


「わたしは諦めません。どんなに拒絶されようと諦めません」


 グラースの言葉を聞いて、メルは呆れたように息を吐いた。


「……無駄な努力だと思いますけど」


 メルがそう言うと、グラースは少しだけ傷付いたような表情を浮かべる。

 それを見たメルは、グラースから視線を逸らしてしまった。

 グラースはまだ何か言い募ろうとしていたのだが、どうやら時間切れのようだった。

 グラースの側近が迎えに来たのだ。


「メル嬢、わたしはあなたと結婚するためならなんだってしますから。今日は時間がないのでこれにて失礼します」


「……さようなら、侯爵様。」


 避けられる前に捕まえてしまえとでも思ったのか、グラースは素早い動きでメルの手を取り、掌にキスを落として去っていった。

 あまりの速さに呆気に取られていたメルだったが、セシルと目が合って我に返った。


「……手の甲にキスされるのは慣れていたけど、掌にくるとは思わなかったわ。」


 グラースが居なくなった玄関を見詰めながらメルは呟いた。

 そんなメルを見ていたセシルがふと口を開く。


「メル様、グラース様は悪い人ではないのですよ」


 どこか寂しそうに眉を下げて苦笑を零すセシル。

 それを、メルは何も言わずにただただぼんやりと見ていた。


「お気に障ったのなら申し訳ありません」


 セシルは深々と美しく一礼した。


「いえ、気に障ったわけじゃないの。ただ……そうよね、貴方達は、元々侯爵家の方々ですものね。ごめんなさいね」


 そう謝ったメルの表情が、セシルには今にも泣き出してしまいそうに見えた。

 だから、セシルは思わずメルを抱きしめていた。


「謝らないでくださいメル様」


「ううん、ごめんなさい。ただ、私は貴方達の主を悪い人だと思ってあんな事言ったんじゃないの……」


 長いこと自分の殻に閉じ篭りすぎたメルには、すんなりとグラースの言葉に頷くなんて事は出来なかった。

 きっと、普通の令嬢なら、心をときめかせたことだろう。

 だけど、いつの間にか臆病になっていたメルにとって、グラースの甘い言葉は恐ろしいものでしかなかったのだ。



 それから数日後、ミエーレがビスコット男爵邸にやってきた。


「お姉様! 侯爵様に結婚を申し込まれたんですってね!」


 そう言いながらメルの部屋に転がり込んでくる。


「誰に聞いたの、それ」


 メルは相変わらずソファに片肘をついて寝そべり、クッキーを貪り食っていた。


「誰でも良いでしょ! どうなの!? 本当なの!?」


「……ただの気の迷いじゃないかしら?」


 覇気のない声でそう返したメルだったが、ミエーレは嬉しそうにメルに飛びついた。


「本当なのね! いつ結婚するの!?」


 今にも飛び跳ねそうなミエーレに、メルは淡々と返事をする。


「しないわよ」


 と、一言だけ。

 一瞬にしてミエーレの顔から表情が消えた。

 天国から地獄とはまさにこのことだろう。


「……お姉様」


 ムスッとむくれたミエーレを見たメルは、これは長くなりそうだな、と判断したメルは、とりあえずお茶を淹れることにした。

 メルが用意したお茶を前に、ミエーレが口を開く。

 

「お姉様は、侯爵様のこと嫌い?」


 ミエーレの問いは単刀直入だった。


「うん、嫌い」


 しかし、メルも顔色一つ変えずに淡々と答える。


 二人の目の前に置かれたお茶からは、ほわりほわりと湯気が上がっている。

 しかし室内の空気は完全に凍り付いてしまっていた。

 メルの背後に付いていたマリーは、凍りつく空気に居た堪れなくなって気配を絶とうと試みている。

 よりによって自分が側に付いている時にこんなことになるなんて、と明後日の方向へと憤りをぶつけてみたりしながら。


「嘘。お姉ちゃんが私の目を見ない時は嘘吐いてる時だもん」


 ミエーレの口調が崩れる。

 たった今"公爵夫人"から"メルの妹"にシフトチェンジしたらしい。


「嘘じゃない。嫌い」


 メルは頑なにそう言い張る。


「嘘!」


「……嫌い。どうせ好きになったところでまたフられるんだから。だから嫌い」


 お茶から立ち上る湯気だけをジッと見て、メルはそう言った。どこか、寂しそうな顔で。


「そんな事ない! 今までの男はお姉ちゃんの見た目だけで中身なんて見ずに言い寄ってきてたけど侯爵様はお姉ちゃんの素の姿を見て……いや、待って……侯爵様って、お姉ちゃんの一番悪い顔しか見てないような……」


 メルとミエーレはあの夜の事を思い出していた。

 確かにメルは、完全に荒みきっていて機嫌も物凄く悪かった。口から出てくるのは悪い印象を与えるような言葉しかなかったように思う。


「そ、それでも結婚したいって言ってるんでしょう? 侯爵様は……」


 本当に申し込まれたのよね? と不安そうにメルを見詰めるミエーレ。


「……そうね、あの人頭おかしいんじゃないかしら?」


「お姉ちゃん!」


 ミエーレは非難を含んだ声で姉を呼ぶ。


「……ダメね、信じるの……怖いわ」


 メルだって気付いていた。

 グラースが本当にメルに好意を抱いて結婚を申し込んできたことくらい。

 そうじゃなければ、拒絶を見せたとき、あんな傷付いた顔なんてしなかったはずだから。


「そう……よね」


 メルが今まで男にされてきた仕打ちを思い出し、ミエーレは黙り込むしかなかった。






 

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