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それから程無くして侯爵家の侍従らしき人物の数が増えた。
侯爵をメルから引っ剥がすために。
侯爵の手がドレスの胸元から離れたので、ある程度力一杯引っ張っても問題はなくなった。主にポロリ方面での問題はなくなった。
だが、侯爵の力が強すぎてびくともしない。
それどころか引っ張れば引っ張るほど力が増して、メルの体を思いっ切り締め付けている。
引っ剥がすためなら多少は我慢しようとしていたメルだったが、あまりにも背骨が軋むので一旦止まってもらう。
ふと胸元にある侯爵の顔を覗き込むと、眠っているくせに物凄く不機嫌そうな顔をしているのが目に入る。
「……このまま一晩待ちますか。盛った奴も強めの睡眠薬と言っていたので起きない可能性もある……」
メルはそう言いながら侍従達の顔を窺ったが、全員示し合わせたように渋い顔を見せている。
「別にそちらの大事な大事な侯爵様とやらには何もしやしないわよ。心配なら一晩そこで見張っててくれても構いませんし」
メルははぁ、とあからさまな溜め息を零し、不機嫌な様子を隠す事なく侍従に告げる。
「お姉様……」
「このままじゃ横にもなれないから、とりあえず寝台に大量のクッションを敷いてくれる? そこにもたれかかるくらい良いわよね? この人の腕潰れちゃうかしら……」
というメルの言葉に、侯爵家の侍従達は相変わらず渋い表情を見せている。
そんな彼等を見たメルは、もう一度大きな溜め息を零す。
「そんなに気に入らないの? それなら私の胴体切り刻むなりなんなりして引っ剥がせばいいじゃない! そうすりゃ嫌でも離れるわよ。ったく、私だけが悪者みたいに……」
私だって一応被害者なのに、そんなメルの呟きは誰の耳にも届くことなく消えていった。
「貴方達、今すぐこの部屋から出てちょうだい。今後この部屋で何か問題が生じた場合、全ての責任は我が公爵家が取りましょう」
ミエーレが侍従達に命令する声が響く。
メルはそれを見ながら、公爵家と侯爵家じゃ公爵家の方が上だもんなぁとぼんやり考える。
しかしそんなことを考えている場合ではない。
「何勝手な事言ってるの。別に誰か付いててくれて良いのよ。私はアンタ達夫婦を巻き込むようなこと」
したくないのに、そう言い掛けたメルだったが、ミエーレがそれを遮るように口を開く。
「大丈夫。そもそもの原因は私が無理矢理お姉様を引き摺ってきた事だし。それに今私の旦那様はお姉様に薬を盛ろうとした男を尋問しているところよ」
どちらにせよ私達が関与することになるんだから、とミエーレは笑って見せた。
その後、侍従達は渋々といった表情で部屋から立ち去っていく。
「さぁ、これどうしましょうね。下手に動くと力が強くなるんだけど。背骨が痛いわ」
もう一度侯爵の頭をぽんぽんと叩きながら言う。
「起きるのを待つしかないでしょうね……」
と、ミエーレは呟く。
「ですよねー」
メルはこの日何度目かの大きな溜め息を零すばかりだった。
ぽつりぽつりと会話をしながらメルの側に居たミエーレだが、さすがに徹夜をさせるわけにはいかないと言ったメルに半ば追い出されるように別室へと移動した。
暗闇の中、うつらうつらと舟を漕いでいると、自分の胸元で何かが蠢く気配を感じる。
すぐに覚醒して、あぁそうか、今おっぱい抱き枕なんだったわ、などと思いながら改めて舟を漕ぎ始める。
メルがそんな事を繰り返していた時、
「母上……、母上……」
というくぐもった声がする。
この部屋にはメルと侯爵しか居ないので、確実に侯爵のものだ。
「おっぱいに縋りつきながら母上はちょっとマズいんじゃないかしらね」
眠っている侯爵に向けてか、それともただ口から零れ落ちただけの独り言か、それはメルにも解らなかった。
この上なく眠いから、まず自分が寝ているのか起きているのかも判別し難い状態になっているのだ。
舟を漕いでは目を覚まし、欠伸を漏らしては舟を漕ぎ、少し深く眠ったと思えば首や背骨の痛みですぐに覚醒する。
そんな状態を必死で耐えていると、やっと夜が明けはじめていた。
窓の外からはちゅんちゅん、と可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえてきている。
しっかり日が昇りだしたころになると、胸元で侯爵がもぞもぞと動き始めた。
この男、結局朝までずっと同じ体勢で眠り続けやがって寝相が良いんだか悪いんだか……と、恨めしそうな瞳で侯爵の頭を見詰めているメル。
ふと侯爵の動きが止まったと思えば、メルを締め付けていた力が緩んだ。
そして顔を上げ、メルの顔をじっと見る侯爵。
やっとお目覚めのようだ。
侯爵は顔中を怒りの色に染め、物凄い勢いで後ずさった。
メルは初めからどうせ自分が悪者だと思われるのだろうと踏んでいたし、怒られたところで動じない。
うーん、と一つ伸びをして、隠す事もなく欠伸を漏らす。
「ふあー……やっと起きた。医者呼んできます」
あぁ体が痛い、なんて呟きながら寝台から降りようとするメルに、
「待て! 貴様、俺に何をした!」
と、侯爵は声を荒らげた。
「……後で説明するので今はさっさと医者に見てもらってください。その後改めて謝罪しますし、それで気が済まなければ殺してくれたって構いません。……もう、疲れた」
―何もかもに。
メルは侯爵に淡々と告げながらさっさと部屋から出て行ってしまった。
呆気に取られた侯爵は暫くの間その場に呆然と座り込んでいた。
メルがドアの外に出ると、ミエーレと、相変わらず渋い顔をしている侍従達が居た。
丁度様子を見ようとしていた時だったようだ。
「侯爵様、起きましたよ」
侍従達にそう告げると、彼等は流れ込むように部屋に入っていく。
「お姉様、これ、お姉様の着替え」
ミエーレの手にあったのはメルの着替えだった。
夜会に出席したドレスのままだしそのドレスはボタンが飛んだままだったし、とメルは妹の手からそれを受け取る。
「ありがと。くらくらする」
「こちらのお部屋を使っていいから仮眠をとって」
「たすかる」
ミエーレに言われるがまま、ふらふらと示された部屋へ歩みを進める。
「それと、昨日お姉様に薬を盛った男が謝罪をしたいと言っているのだけど……」
「あいたいわけないでしょ」
「だと思って追い帰しておいたわ」
「たすかる」
出来た妹で助かるわ、とそれだけを言い残し、メルは部屋に入って行った。
それを見送ったミエーレだったが、しっかり寝台で眠っているのかが気になったのでこっそりドアを開けてみる。
そこには案の定床に転がっている姉の姿があった。
ミエーレは、私が同じことをすると物凄く怒るくせに、なんて思いながら転がる姉に近付く。
完全に眠ってしまっていて起きる気配はないようだ。
仕方がないので着ていたものを脱がし、色々と整えてから改めてメルを寝台へと転がすのだった。
メルが目を覚ましたのは、とっぷりと日が暮れてしまった後のこと。
目を覚ましたメルの瞳に映ったのは、メルを心配そうに覗き込むミエーレの姿だった。
「うわぁ寝過ぎた……この邸の方に迷惑かかるし帰らなきゃ」
そう言って起き上がろうとするメルを待って! と縋るように止めるミエーレ。
「あーそうだ、私夜道歩くと奇襲に遭うんだった。面倒だわぁ、いっそ通り魔にあったフリして自分の腹でも刺してやろうかしら……ふあぁ……」
「お姉様!」
嘲笑を零しながら言うメルを咎めるようにミエーレが声を掛ける。
「……いいのよ別に。最近よく思うの。生まれてくるんじゃなかったって。何で私ばっかりこんな目に遭うのよ。もうさすがに疲れたわよ。……あ、でももう二度と夜会には出なくて良いのよね? これで心置きなく家に閉じこもれるわね」
ふふ、と変わらず嘲笑を浮かべるメル。
そんなメルに、ミエーレとは別の声が届く。
「……メル嬢」
という、男の声。
メルが声のした方を見ると、そこには見慣れぬ男の姿があった。
くるりとミエーレのほうに向き直ったメルは、
「誰? いつから居たの?」
と、ミエーレに問う。
「昨日の、侯爵様よ。ずっと居たわ」
ミエーレの返答に、軽く目を丸くするメル。
横になったままでは失礼だろうと上体を起こし、
「あらやだ早く教えてよ」
などとぶつぶつ呟きながらぺこりと頭を下げる。そして、
「侯爵様、昨夜はわたくしのせいで申し訳ありませんでした。お体は大丈夫でしょうか? わたくしは金輪際あなたの目に触れぬよう生きていきますので昨夜の事はどうかお忘れください」
頭を下げたまま、息継ぎもせずにそう続けた。
侯爵が何も言わないので、顔を上げて侯爵を見遣ると、
「しゃ、謝罪を、」
しどろもどろになる侯爵。
その侯爵の言葉に、きちんと謝罪をしろと言われたと判断したメルは、寝台から降りて、これでもかと言わんばかりに深々と頭を下げる。
「昨夜の事はわたくしの不徳の致すところでございます。どんな処罰も受けるつもりです」
淡々と、声色を変える事無くそう述べるメルだが、ミエーレはそれが気に入らない。
「お姉様! そんなこと言ったら本当にお姉様が飲ませたことになっちゃう!」
と、言い募るミエーレ。だが、メルは態度を変えようとはしなかった。
「結果的にはそうでしょ。遠ざけずに私が飲んどきゃ良かったのよ。そうすれば私だけが被害に遭うだけであとは丸く収まった。どっちにしろ私が悪者になるんだから変わりゃしないわよ」
半ば自棄になって言ったメルは、そのままどさりと寝台に座りなおした。
「おねえさま……」
メルがふとミエーレを見ると、彼女は完全に涙目になっていた。
「やだ、泣かないでよ」
「お姉ちゃんのバカ!」
ミエーレはそう吐き捨てて、部屋から走り去っていく。
そんなミエーレの背中を目で追いながら、メルはぽつりと呟く。
「バカで結構よ。こんなに散々な目に遭えばさすがの私だって荒むわよ……」
バタン、というドアの音で掻き消されたために、メルの言葉がミエーレに届く事はなかった。
くるりと侯爵の方を向いたメルは、先程と変わらぬ淡々とした調子で喋りだす。
「それでは侯爵様、処罰については後日書類でお知らせしていただけますか?決まっているようでしたら今でも構いません」
「申し訳ない!」
メルの言葉を遮るように、侯爵は叫んだ。
そして、デカい図体を極限まで小さくしながら頭を下げる。
「は? やめてください、さっきも言った通り悪いのは私で」
「今朝は、何も知らずに怒鳴ってしまい……本当に申し訳ない……」
そのデカい図体からは考えられないような弱気な声での謝罪だった。
それどころか起きている侯爵はキリリとした顔立ちで強そう且つ鋭そうな顔をしているのだ。さらにはそのデカい図体も相俟って、軍人ですと言われても疑いようのない容姿だった。
それが口を開けばこんなに弱々しい声をしているとは。
と、一瞬思ったメルだったが、自分も見た目と中身が違うとよく言われるため、同属なのだろうと無理矢理納得する。
「あのー、頭を上げていただけませんか?」
「……は、はい。それで、昨日の状況を、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?」
恐る恐る頭を上げる侯爵は、叱られた大型犬を髣髴とさせるものだった。
「簡単に説明しますと、私に言い寄ってきた男が居まして。……あ、昨日私とぶつかった事は覚えていますでしょうか?」
小首を傾げながら問い掛けると、侯爵はこくりと頷く。
「丁度あの頃です。その男がしきりに酒を勧めてきたのです。凄い執念で勧めてくるので危険を感じた私はそのグラスを一度受け取り遠ざけました。……その結果、あなたの前までグラスが到達していたのでしょう」
「それをわたしが飲んだ……と」
侯爵の言葉に、今度はメルがこくりと頷いた。
その時、ガチャリとドアが開き、未だ半泣き状態のミエーレが戻って来た。
「お姉ちゃん元気だしてええ!」
半泣きではなくマジ泣きだった。
ミエーレは邸の住人に貰ったと思われるお菓子を大量にメルへと突き出す。
ご機嫌を取ろうとしているらしい。
「公爵夫人がそんな情けない声出すんじゃないの!」
メルが叱ると、
「だってお姉ちゃんがああ!」
ミエーレは完全に公爵夫人の顔を忘れて泣き出してしまった。
「はいはい、もう解ったわよ。あんな事言ってごめん。全くもう……」
メルは、ミエーレを泣き止ませるために抱きしめて宥めてやる。
すぐに泣き止みはしなかったが、少し落ち着いたようだ。
「こんな状態ですみません侯爵様。……どこまでお話しましたでしょうか……?」
ミエーレを抱きしめ、背中をぽんぽんと叩きながら、侯爵に問い掛ける。
「そ、その、わたしが……酒を飲んだところまで」
「あぁ、その酒に睡眠薬が盛られていたんです。その後は何故か侯爵様が私の方に倒れ掛かってきただけです」
メルがそこまで話すとミエーレがふと顔を上げ、侯爵をじとりと睨み、
「さらにその後の侯爵様はお姉ちゃんのおっぱい抱き枕で気持ち良さそうにぐっすりでした」
そんな事を言い放つ。
思いも寄らない単語に、侯爵は、
「おっ……!?」
という言葉にならない音を漏らしながら顔を真っ赤に染め上げた。
「あぁ、さらにさらにその後は私のおっぱいに縋りつきながら母上ーって寝言を」
「ねっ……!? ご、後日改めて謝罪に伺います、そそ、それからメル嬢には護衛を付けさせます」
茹蛸の如く赤くなった顔を湛えながら、焦っていますと言わんばかりにどもる侯爵。
「護衛? 別に必要ありませんが」
「酷い目に遭っているそうですから、念のために。侯爵家から出しますのでご心配なく。そ、それでは、わたしはこれで失礼します……」
侯爵はそう言ってふらふらと立ち上がり、あちこちにガツンガツンと身体をぶつけながら部屋から出て行った。
「遊び散らかしてそうな顔してるくせに、たったあれだけで真っ赤になるなんてね」
侯爵の背中を見送ったメルは唖然とした様子のまま言う。
「それがそうでもないのよ。あぁ、あの方もお姉様に似た境遇なのよ」
お姉ちゃんからお姉様に戻ったので、やっと落ち着いたと思われるミエーレがそう言った。
「似た境遇、ねぇ」
「侯爵様だもの、顔と金と地位に目が眩んだ女に言い寄られて迷惑しているそうよ。だから、最近は女性から逃げているみたい」
「へー」
メルはあまり関心がないのか、ゆるい相槌を返すだけだった。