婚約破棄?いたしませんが。――ずっと両想いですので――
最近、私の婚約者を狙っている令嬢がいるらしい。
「そうなの?」
「そうなの!」
友人のクラリスは、私以上に怒っていた。
昼休み。
王立学園の食堂で向かい合っていたクラリスは、ばん、とテーブルを叩いた。
「昨日なんて、殿下が庭園を歩いていらしたら、わざと目の前で転んだんですって!」
「まあ」
「殿下が抱き留めたそうです!」
「あら」
それは大変。
転んだ令嬢が。
「怪我はなかったの?」
「そっち!?」
だって転んだのでしょう?
心配するところだと思うのだけれども。
「殿下ですよ!あなたの婚約者の!」
「知っているわ」
「抱き留めたんですよ!」
「まあ、だって。転んできた人を避けたりしたら、怪我をするでしょう?」
クラリスは頭を抱えた。
「セシリア様……あなた、正気ですか?」
「なんだかちょっと失礼ね」
「その令嬢、エミーリア・ローデン男爵令嬢です」
「ああ、あの」
「知ってるんですか!?」
「同じ学園だもの」
「そうじゃなくて!最近、殿下にものすごく接近しているって有名なんですよ!」
「そうなの?」
「そうなの!」
私の婚約者である皇太子アレクシスは昔から女性に人気がある。
顔がいい。
頭もいい。
剣も使える。
身分については言うまでもない。
だから、女性から好意を向けられること自体は珍しくなかった。
「心配じゃないんですか?」
「別に」
「どうして!?」
「アレクシスだから?」
「理由になってません!」
そう言われても困る。
アレクシスとは六歳の頃から十一年間一緒にいる。
彼がどういう人なのかは知っているつもりだった。
「まあ、何かあれば本人から聞くわ」
「それじゃ遅いんですよ!」
クラリスはまだ何か言っていたが、午後の授業を告げる鐘が鳴った。
◇◇◇
その日の放課後。
「セシリア」
「まあ。ごきげんよう、殿下」
「二人きりのときくらいアレクシスと呼んでほしい」
「ここ、廊下でしてよ?」
「では場所を変えよう」
「……何か御用かしら?」
「昨日の件だ」
「ああ。転んだ方?」
「聞いたのか」
「先ほど伺いましたわ」
アレクシスの顔が曇った。
「すまなかった」
「どうしてあなたが謝るの?」
「女性を抱き留めた」
「それは転んだからでしょう?」
「……そうなんだが」
「その方、怪我は?」
「なかった」
「よかったですわね」
話は終わった。
そう思ったのだが、アレクシスは帰らない。
「セシリア」
「なにかしら?」
「怒っていないのか?」
「え?どうして?」
「…………」
しばらく黙ったあと、アレクシスが私の両手を握った。
「好きだ」
「はい」
「君が好きだ」
「存じておりますわ」
「本当に?」
「十一年間、毎日三回は言われていますから」
「今日はまだ一回しか言っていない」
「二回目よ」
アレクシスは安心したように笑った。
「では、あと一回言えるな」
「回数限定ではないのだけれど」
「好きだ」
「使い切りましたわね」
「明日になればまた三回言える」
「ですから。回数限定ではございませんのよ」
満足したらしい。
私の手を離した。
「それで、昨日の件だが」
「まだございますの?」
「あの令嬢は、エミーリア・ローデン男爵令嬢というらしい」
「存じております」
「知っているのか?」
「同じ学園の生徒ですもの」
「そうか」
アレクシスは少し考えた。
「彼女に、今度二人で出掛けませんかと言われた」
「まあ」
「断った」
「まあ……」
「……それだけ?」
「何と言えばいいのかしら?」
「いや」
「ああ。ごめんなさい。気づかなくて。行きたかったのね?」
「違う。絶対違う。絶対に行きたくない」
「なら問題ないでしょう?」
また黙った。
何かしら?面倒になってきたわ。
「アレクシス」
「なんだ?」
「私、あなたを信用しているの」
「……」
「あなたが行かないと言ったなら、絶対行かないのでしょう?」
「ああ」
「なら大丈夫なのよ」
「そうか」
「そうよ」
今度こそ、アレクシスは笑った。
何だかとても嬉しそうだった。
変なの。
◇◇◇
ところが。
それで終わらなかった。
三日後。
図書室から出ると、廊下の向こうにアレクシスがいた。
件のエミーリア嬢もいた。
何故か柱の陰にクラリスもいた。
なぜそこに?
しかも私を見つけるなり、
「しっ!」
と人差し指を口元に当てている。
仕方なくそっと近づく。
「何をしているの?」
「静かに!」
小声で怒られた。
「決定的瞬間です」
「何の?」
「いいから見ててください」
静かに見守る。
エミーリア嬢がアレクシスを見上げていた。
「殿下。私……以前から殿下をお慕いしております」
まあ。
告白だわ。告白。
これは聞いていて、いいのでしょうか。
「セシリア様、どこへ行くんです?」
「告白中に盗み聞きするのは悪いでしょう?」
「あなたの婚約者への告白ですよ!」
そうだった。
では聞いていてもいいのだろうか。
「婚約者がいらっしゃることは存じています。でも、私……諦められなくて」
「そうか」
アレクシスが答える。
「気持ちはありがたい」
「では……!」
「だが、応えられない」
エミーリア嬢の顔が曇った。
「セシリア様がいらっしゃるからですか?」
「そうだ」
「もし、あの方がいなければ?」
「その仮定に意味があるのか?」
アレクシスが首を傾げた。
「え?」
「セシリアはいるが」
「ですから、もしものお話です」
「なぜ?」
会話が進まない。
クラリスも眉間を押さえている。
「例えば!」
エミーリア嬢が声を荒げた。
「セシリア様が他の男性を好きになったら!」
「泣く」
即答だった。
「え」
「たぶん三か月くらい寝込む」
何を言っているのだ。
「え、えーと。殿下、その、それから?」
「説得する」
「誰を?」
「セシリアを」
「それでも駄目だったら?!」
アレクシスが真剣に考え始めた。
「……もっと説得する」
エミーリア嬢が黙った。
「諦めないんですか?」
「なぜ私が諦めるんだ?」
「だって振られたんですよ?」
「まだ仮定の話だろう」
「そうですけど!」
もう出ていっていい気がする。
「アレクシス」
声をかけた。
二人が一斉にこちらを見る。
「セシリア!」
「セシリア様!?」
「ちょっと、こらセシリア様!」
クラリスまで。
「聞いていたのか?」
「途中から」
「どこから?」
「私が他の男性を好きになったら、あなたが三か月も寝込むところから」
「そこか……」
なぜ恥ずかしそうなのだ。
「大丈夫よ」
「何が?」
「今のところ他に好きな人はいないから」
「今のところ?」
「言葉の綾よ」
「セシリア」
「あなたが好き」
ぴたりと止まった。
分かりやすい。
「本当に?」
「ええ」
「もう一回」
「嫌よ」
「なぜ?」
「恥ずかしいから」
「私は毎日言っているが」
「あなたは恥ずかしくないの?」
「君になら別に」
どういう神経をしているのだろう。
後ろからクラリスのため息が聞こえた。
エミーリア嬢を見る。
顔が真っ赤だった。
「……あの」
「はい。何でしょう?」
「ごめんなさい」
頭を下げられた。
「どうして謝るのかしら?」
「だって私、殿下を……」
「好きになること自体は仕方ないでしょう?」
感情なんて、好きにできるものではない。
「ただ、アレクシスは私の婚約者だから、二人で出掛けるのは困るけれど」
「はい……」
「それ以外なら別に」
エミーリア嬢が俯いた。
泣いているのだろうか。
少し心配になったところで。
「セシリア」
「なに?」
「今、私が好きだと言ったな」
「まだそこなのね?」
「今日はいい日だ」
「そう」
「もう一度言ってくれ」
「嫌」
「なぜだ」
「しつこい」
エミーリア嬢が震え出した。
そして。
ぷっ。
吹き出した。
「あ」
本人が慌てて口を押さえる。
「申し訳ございません!」
「いい」
アレクシスは不満そうだったが、怒ってはいなかった。
エミーリア嬢はもう一度笑った。
「なんだか……思っていたのと全然違いました」
「何が?」
「お二人です」
どう思われていたのでしょう。
◇◇◇
しかし。
それでも噂は消えなかった。
『皇太子殿下が男爵令嬢に心変わりした』
『セシリア公爵令嬢との婚約は間もなく解消される』
『真実の愛を見つけたらしい』
誰が流しているのか知らないが、日に日に話が大きくなっていく。
「真実の愛ですって!」
クラリスが怒っている。
「そう」
「そう、じゃありません!」
「だって違うもの」
「放置するから広がるんですよ!」
「噂でしょう?」
「噂で婚約が壊れることもあるんです!」
「そうなの?」
「そうなの!」
困った。
どうしようか。
そう考えていたら。
アレクシスが先に動いた。
翌週の王家主催の夜会。
大勢の貴族が集まる中、彼は私の前まで歩いてきた。
「セシリア」
「なに?」
「踊ってくれ」
「もちろん」
手を取る。
曲が始まった。
「噂を聞いた」
「そう」
「知っていたのか?」
「ええ」
「なぜ教えてくれない」
「あなたも知っていると思って」
「腹が立った」
「そう」
「だから訂正する」
「どうやって?」
アレクシスは答えなかった。
一曲が終わる。
私たちは礼をする。
そして、アレクシスは私の手を握ったまま離さなかった。
「皆に聞いてほしい」
ざわめきが止まる。
嫌な予感がする。
「アレクシス?」
「最近、私が婚約者以外の女性に心変わりしたという噂があるらしい」
周囲が静まり返った。
「事実ではない」
そこまではいい。
「私は六歳の頃からセシリアが好きだ」
待って。
「十一年間、一度も変わっていない」
「アレクシス」
「今後も変える予定はない」
「アレクシス」
「ちなみに婚約解消の予定もない」
「もう十分よ」
「まだだ」
「十分です」
「大切なところだ」
どこが。
「セシリア」
こちらを見る。
「好きだ」
夜会会場のど真ん中で言われた。
ああ、死にたい。
「返事が欲しい」
「今するの!?ここで!?」
「皆の前なら噂も消える」
確かにそうかもしれない。
だからといって。
周囲を見る。
全員がこちらを見ている。
クラリスが満面の笑顔で頷いている。
裏切り者。
少し離れたところにはエミーリア嬢もいた。
目が合う。
彼女まで小さく頷いた。
あなたまで。
「セシリア」
「……好きよ」
「聞こえない」
「大好きです!」
言ってやった。
会場が沸いた。
拍手までされた。
恥ずかしい。
今すぐ帰りたい。
なのにアレクシスは人生で一番幸せそうな顔をしていた。
「もう一回」
「調子に乗らないで」
「残念だ」
「帰るわよ」
「一緒に?」
「婚約者でしょう!」
笑い声が起こった。
その夜を境に、噂はぴたりと消えた。
◇◇◇
「申し訳ございませんでした」
数日後。
エミーリア嬢が私のところへやって来た。
「もう謝ってもらったわ」
「でも」
「アレクシスを好きだったことでしょう?」
「……はい」
素直だ。
「だった、なの?」
「諦めました」
「そう」
「無理です」
真顔で言われた。
「何が?」
「あの方からセシリア様を奪うのは無理です」
「そうかしら」
「無理です」
二回言った。
「私、勘違いしていました」
「何を?」
「お二人は政略結婚だと」
「ああ……」
確かに婚約自体は政略だった。
公爵令嬢と皇太子。
家柄を考えれば自然な組み合わせだ。
「だから、私にも可能性があると思ってしまって」
「なるほど。そうなのね」
「でも違いました」
エミーリア嬢が遠い目をする。
「殿下、セシリア様の話しかしません」
「そうなの?」
「私がどんな話題を振ってもです」
「……例えば?」
「好きな食べ物を聞いたら、『セシリアは桃が好きだ』と」
「……」
「休日の過ごし方を聞いたら、『セシリアは本を読んでいることが多い』と」
「……」
「好きな女性のタイプを聞いたら」
「え?聞いたの?」
「『セシリア』と」
頭が痛くなってきた。
「会話にならないんです」
「何だか本当にごめんなさい」
「なぜセシリア様が謝るんです?」
確かに。
「ですから諦めました」
「そう」
「それに」
エミーリア嬢が少し笑った。
「セシリア様のことも好きになってしまいました」
「私?」
「はい」
予想外だった。
「怒られると思っていましたから」
「どうして?」
「婚約者に近づいたんですよ?」
「でも、もうやめたのでしょう?」
「はい」
「ならいいじゃない」
エミーリア嬢が笑う。
「本当に、思っていたのと違います」
また言われた。
「では、友人になっていただけませんか?」
「私と?」
「はい」
「いいけれど」
「本当ですか?」
「ええ」
「ありがとうございます!」
こうして。
婚約者を奪いに来たはずの令嬢と、なぜか友人になった。
◇◇◇
それから一年。
卒業式を無事終えた私たちは、その三か月後に結婚式を挙げた。
結婚式当日――
「セシリア」
「なに?」
「綺麗だ」
「ありがとう」
「好きだ」
「はい」
「愛している」
「はい」
「君と結婚できて幸せだ」
「思い出して。まだ式の途中よ?」
「もう逃げられないぞ」
「……逃げる予定はないわよ」
アレクシスが笑った。
私も笑う。
参列席にはクラリスがいる。
エミーリアもいる。
二人とも泣いていた。
なぜ本人たちより泣いているのだろう。
「セシリア」
「今度は何?」
「幸せにする」
「違うわ」
「え?」
「一緒に幸せになるのよ」
アレクシスが目を見開いた。
それから、ゆっくり笑った。
「ああ」
私たちの婚約期間は十二年とちょっと。
その間。
婚約破棄はなかった。
すれ違いもなかった。
浮気もなかった。
身分違いの真実の愛もなかった。
あったのは。
私を好きだとしつこいくらい言う婚約者と。
そんな彼を、実は私もかなり好きだったということ。
それだけだった。
◇◇◇
――ちなみに。
結婚して三年が経ち第一子が昨年誕生した今でも。
「セシリア」
「なあに?」
「好きだ」
「はい」
「今日、何回目か分かるか?」
「四回目ね」
「違う。五回目だ」
「まあ。そうだった?」
「朝食のときにも言った」
「……聞いてなかったわ」
「なぜ!?」
「書簡を読んでいたもの」
「では無効だということにして」
「何の話?」
「もう一度言おう。好きだ」
「はいはい」
「返事は?」
「そうね。私も好きよ」
満足そうに笑う。
この顔を六歳の頃から見ている。
たぶん。
これから先も、ずっと見る。
世の中には、恋を引き裂く運命だとか。
燃え上がる真実の愛だとか。
そんなものもあるらしい。
好きな人がいて。
その人も自分を好きで。
嫌なことがあれば話して。
誤解があれば確かめて。
明日も一緒にいる。
それで十分ではないだろうか。
「セシリア」
「今度は何?」
「明日も好きだと思う」
「そうなのね」
「明後日も」
「はいはい」
「十年後も」
「分かったから」
「五十年後も」
「ちょっとしつこいわね?」
「嫌か?」
少しだけ考えるふりをした。
「……嫌、ではないわね」
「それは、好きという意味か?」
「自分で考えて頂戴」
「好きという意味だな」
「ふふふ。もう寝なさい」
アレクシスは笑った。
私も笑う。
今日も特に波乱はない。
たぶん明日も。
それでいい。
私は、この何も起こらない、穏やかな恋を愛しているのだから。




