After the Rain ― 雨に消えた告白
「ねぇ……少し休んだら?」
愛未は眉を寄せ、心配そうに悠人へ声をかけた。
返事は無い。
ピアノの前に座ったまま、悠人は両手で頭を抱えていた。
譜面には書きかけの音符が並び、その先は真っ白なまま。
部屋には時計の進む針の音と、雨音だけが響いている。
悠人と愛未は付き合って三年になる。
もうすぐ大学を卒業し、それぞれの未来へ踏み出そうとしていた。
悠人は焦っていた。
彼は幼い頃から音楽とともに生きてきた。
その才能は周囲からも認められ、将来を期待されていた。
作曲家になること――それが彼にとって、誰よりも大切な夢だった。
だけど――。
ある日を境に、曲が書けなくなってしまった。
作曲中は、いつも一人部屋にこもる。
愛未は邪魔にならないよう、ただ黙って見守ることしかできなかった。
だが――。
ここ数日、悠人は部屋にこもったまま、まともに睡眠をとらず楽譜と向き合っていた。
食事もろくに口にせず、ただピアノの前でまっさらな楽譜を睨みつける。
そんな姿を見るだけで、愛未の胸は締めつけられた。
(わかってる。今は話しかけてほしくないって……。でもこのままじゃ……)
「……大丈夫だ」
顔を上げないまま、悠人はぽつりと呟いた。
(全然大丈夫じゃないよ…… )
愛未は胸の痛みを押し隠し、できるだけ明るく微笑んだ。
「悠人……お願いだから、少しだけ休もう?一緒にご飯食べよ。食べないと力でないよ」
その瞬間だった。
「うるさい!」
張り詰めていたものが切れたかのように、悠人は叫んだ。
握りしめた楽譜を床へ叩きつける。
乾いた音とともに、何枚もの楽譜が床に散らばった。
愛未の肩がぴくりと震えた。
「悠人……」
「お願いだから、黙っててくれないか。集中したいんだ……」
目もあわせてくれない。
「……わかった。あとで消化にいいもの作って置いておくから、ちゃんと食べてね」
返事は無い。
悠人は最後まで顔を上げなかった。
愛未は小さく息をつくと、そのまま静かに部屋を出た。
そして扉をそっとしめる。
その音さえ、彼の邪魔にならないように、と――。
「悠人……」
閉ざされた扉を背に、愛未は唇を噛んだ。
(わかってる。卒業を前にして焦って苦しんでいることも……)
背中にあたる無機質な扉の感覚。
それはまるで二人の間にできた見えない壁のようだった。
込み上げた熱が耐えきれず、頬を伝う。
そしてぽたり、と床へこぼれ落ちた。
(私たち……もう、ダメかもしれない――)
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
それから、悠人はしばらく大学を休んだ。
しばらくして復帰した彼は、少し痩せていた。
そして、その日の帰り。
悠人から別れを告げられた。
「……わかった」
理由は聞かなかった。
二人でいることが限界なのだと、分かっていたから。
きっと悠人も――。
大学に入学してすぐ。
好きなアーティストが同じだと知って、私たちは一気に距離を縮めた。
新曲が出れば熱く語り合い、ライブに行っては、時間を忘れるほどはしゃいだ。
それから悠人に告白され、私たちは付き合うことになった。
悠人はよく言っていた。
「自分も、みんなを感動させられるような音楽家になりたいと」
「悠人ならきっとなれるよ。才能あるんだから。私、応援する!」
あの頃の私は、本気でそう思っていた。
だけど卒業が近づくにつれ、夢は悠人を追い詰めていった。
曲を書こうとする度に彼の表情は険しくなり、笑顔がひとつ、またひとつと消えていく。
そんな姿を見るのがつらくて、私はどう応援すればいいのか分からなくなっていた。
同じ未来を見て歩いていたはずなのに。
気づけば、その先の未来が見えなくなっていた。
悠人と別れたあの日も、暗い雨が降っていた。
そして今日も――。
雨が降るたびに思い出す。
彼が投げ捨てた楽譜。
別れを告げられた日の、あの苦しそうな横顔。
胸の奥に沈んだままの、私の記憶。
窓の外では、今日も静かに雨が降り続いている。
まるで私の心を映し出しているかのように――。
「んっ――」
愛未は大きく背伸びをした。
「だめだ。雨の日はどうしても気分が暗くなる。気分転換にコンビニに行って、甘いものでも買おうかな」
近くのコンビニまでは歩いて五分。
愛未は、長い髪を一つに束ねると、バッグから財布だけを取り出した。
そのまま玄関へ向い、靴を履こうとした、その時。
「愛未――。どこか出かけるの?」
母がリビングから声をかけた。
「うん。甘いもの食べたいから、コンビニ行ってくる」
靴を履きながら振り返ると、そこには母が立っていた。
「じゃあ牛乳もお願いできる?もうすぐきれそうなのよ」
「わかった。じゃあ行ってきま―す」
愛未は傘をさし、静かに雨の中を歩き出した。
やがて目的のコンビニが見えてきた。
その時――。
(え……)
向こうから、一人の男性が歩いてくる。
雨で薄暗く、顔までははっきりと見えない。
それでも愛未には、すぐにわかった。
あの背格好。
少しだけ丸まった肩。
あの歩き方まで。
何も変わっていない。
――悠人だ。
「なんで……」
胸が大きく波打つ。
(悠人はこっちにはいないはず……。転勤して、今は関西にいるって聞いていたのに)
思わず足が止まった。
あれから三年。
大学を卒業して以来、一度も会っていなかった。
「あ……いみ?」
わずか五メートルほど先。
そこには、あの悠人が立っていた。
「……久しぶり。元気だった?」
先に口を開いたのは、悠人だった。
ぎこちない話し方。
どう話しかけたらよいのかわからない。その戸惑いが言葉に滲んでいた。
「……うん。久しぶりだね。こっちに戻ってきてたの?」
(上手く笑えていないかもしれない……)
「あぁ……。二週間前に帰ってきたんだ。またこっちで仕事することになって」
「そう……」
そこで会話は一度途切れた。
雨音だけが、二人の隙間を埋めているかのようだった。
愛未もまた、何を話せばいいのか分からなかった。
三年前、本気で好きだった人。
もう二度と交わることがないと思っていた人が、今こうして目の前にいる。
戸惑いと嬉しさ。
そして、胸の奥に小さな灯りが灯ったような、ほんのりとしたぬくもりを感じた。
「……愛未は?今、何の仕事してるの?」
「普通のOLだよ。家から二十分くらいのところで働いてる。悠人は?」
「近っ!羨ましいな。俺は建築関係の営業だよ」
「そっか……」
(やっぱり音楽は辞めたんだ……)
少しだけ、胸がチクリと痛んだ。
だけど――。
目の前の悠人は、三年前より穏やかな表情をしていた。
「……元気そうだね」
愛未は微笑んだ。
「愛未も……元気そうだな」
悠人はそう言うと、わずかに表情を曇らせた。
「うん。元気だよ」
愛未は優しく微笑む。
わかってる。
彼もどう接すればいいのか、わからないんだ。
私も同じ。
それが、三年という歳月の距離だった。
雨音が、少しずつ大きくなっていく。
「買い物だろ?邪魔して悪かったな。雨が強くなってきたし、早く済ませたほうかいいぞ」
「だね。じゃあ、またね」
愛未は歩き出す。
悠人もまた、歩き出した。
お互いの距離が少しづつ開いていく――。その時だった。
「愛未!」
心臓が大きく跳ねる。
愛未は驚き、くるりと振り返った。
悠人はその場に立ち尽くし、後頭部に手をやると、大きく息を吐いた。
「……クソっ」
小さく絞り出すような声だった。
「……どうしたの?」
悠人はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに愛未を見つめる。
その頬は、わずかに赤く染まっていた。
「……あの時はごめん」
愛未は意味がわからず、小さく首を傾げた。
「あの時って?」
「三年前。俺が愛未に別れを告げた日……。あの時は俺が一方的だったから……」
三年前――。
あの日の記憶が、雨とともに呼び起こされる。
別れを告げられたあの日。
確かに私は理由を聞かなかった。
聞けなかった、といった方が正しかったのもしれない。
私たちは、もう限界だった。
だから一方的ではなかった。
私もわかっていたから。
いつからだろう。
どこかで歯車は、少しずつずれていった。
そのずれは次第に大きくなり、気づいた時には、私たちはもう修復できないところまできていた。
嫌いになったわけじゃない。
誰かが悪かったわけでもない。
ただ、お互いの存在が、お互いを苦しめるようになってしまっていた。
愛未は、ふと優しく微笑んだ。
「あの時は、しんどかったんだよ。一緒にいることが……。悠人も、私も。だから謝らないで」
別れはもちろんつらかった。
だけど、あのまま一緒にいる方が、もっと苦しかったはずだ。
悠人は小さく息をついた。少しだけ表情が和らだように見えた。
「また同じ地元なんだし、これからは友達として仲良くしよう。向こうでの話も聞かせてよ」
愛未は明るく笑った。
「あぁ……。そのうち飲みに行こうな」
ようやく、悠人は心から笑った。
その笑顔は、大学時代と変わらなかった。
だだ、三年という歳月は、あどけなさを少しだけ消しさり、その笑顔に穏やかな大人の表情を添えていた。
「うん。また連絡待ってるねー」
愛未は身を翻し、そのまままっすぐに歩き出した。
背後で、悠人の足音が遠ざかっていく。
やがてその足音は、少しずつ雨音に溶けていった。
「……まいったなぁ」
愛未は小さく苦笑いした。
(悠人……大人っぽくなってた)
(ますます素敵になってたなぁ)
だけど――。
不思議と、あの日から胸の奥に残っていた痛みやざわめきも感じなかった。
(そうか――)
愛未は、ふっと笑みをこぼした。
(私が好きだったのは、二十二歳の自分が好きだった悠人なんだ)
涙のように感じていた雨も、また違ったように感じる。
愛未の足取りは軽くなった。
そして――。
誰にも聞こえない、小さな声で呟いた。
「好き、だったよ。二十二歳の悠人くん」
その声は、雨音にそっと溶けていく。
誰の耳にも届かない告白。
「さて、何にしようかなぁー?アイス?プリン?」
もう、きっと雨は重くない。
あの日、床に散らばった楽譜を、私は拾わなかった。
あの恋も、あの日のまま拾い直さなかった。
それがきっと、私が選んだ答えだったんだ。
愛未は空を見上げた。
雨はまだまだ止みそうにない。
だけど、私にはもう泣いている涙の雨ではない。
「あ!牛乳も買わなきゃ。忘れるとこだったわ」
愛未は小さく笑うと、コンビニへと足を進めた。




