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After the Rain ― 雨に消えた告白

作者: 亜久美 圭
掲載日:2026/06/27

「ねぇ……少し休んだら?」


愛未《あいみ》は眉を寄せ、心配そうに悠人《ゆうと》へ声をかけた。


返事は無い。


ピアノの前に座ったまま、悠人は両手で頭を抱えていた。


譜面には書きかけの音符が並び、その先は真っ白なまま。

部屋には時計の進む針の音と、雨音だけが響いている。


悠人と愛未は付き合って三年になる。

もうすぐ大学を卒業し、それぞれの未来へ踏み出そうとしていた。

 

悠人は焦っていた。


彼は幼い頃から音楽とともに生きてきた。

その才能は周囲からも認められ、将来を期待されていた。

 

作曲家になること――それが彼にとって、誰よりも大切な夢だった。


だけど――。

ある日を境に、曲が書けなくなってしまった。


作曲中は、いつも一人部屋にこもる。

愛未は邪魔にならないよう、ただ黙って見守ることしかできなかった。

 

だが――。

 

ここ数日、悠人は部屋にこもったまま、まともに睡眠をとらず楽譜と向き合っていた。

食事もろくに口にせず、ただピアノの前でまっさらな楽譜を睨みつける。


そんな姿を見るだけで、愛未の胸は締めつけられた。


(わかってる。今は話しかけてほしくないって……。でもこのままじゃ……)


「……大丈夫だ」


顔を上げないまま、悠人はぽつりと呟いた。


(全然大丈夫じゃないよ…… )


愛未は胸の痛みを押し隠し、できるだけ明るく微笑んだ。


「悠人……お願いだから、少しだけ休もう?一緒にご飯食べよ。食べないと力でないよ」


その瞬間だった。


「うるさい!」


張り詰めていたものが切れたかのように、悠人は叫んだ。


握りしめた楽譜を床へ叩きつける。


乾いた音とともに、何枚もの楽譜が床に散らばった。


愛未の肩がぴくりと震えた。


「悠人……」


「お願いだから、黙っててくれないか。集中したいんだ……」


目もあわせてくれない。


「……わかった。あとで消化にいいもの作って置いておくから、ちゃんと食べてね」


返事は無い。

悠人は最後まで顔を上げなかった。


愛未は小さく息をつくと、そのまま静かに部屋を出た。


そして扉をそっとしめる。

その音さえ、彼の邪魔にならないように、と――。


「悠人……」


閉ざされた扉を背に、愛未は唇を噛んだ。


(わかってる。卒業を前にして焦って苦しんでいることも……)


背中にあたる無機質な扉の感覚。

それはまるで二人の間にできた見えない壁のようだった。


込み上げた熱が耐えきれず、頬を伝う。

そしてぽたり、と床へこぼれ落ちた。


(私たち……もう、ダメかもしれない――)



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


それから、悠人はしばらく大学を休んだ。


しばらくして復帰した彼は、少し痩せていた。


そして、その日の帰り。

悠人から別れを告げられた。


「……わかった」


理由は聞かなかった。

二人でいることが限界なのだと、分かっていたから。

きっと悠人も――。



大学に入学してすぐ。

好きなアーティストが同じだと知って、私たちは一気に距離を縮めた。

新曲が出れば熱く語り合い、ライブに行っては、時間を忘れるほどはしゃいだ。

 

それから悠人に告白され、私たちは付き合うことになった。


悠人はよく言っていた。

「自分も、みんなを感動させられるような音楽家になりたいと」


「悠人ならきっとなれるよ。才能あるんだから。私、応援する!」


あの頃の私は、本気でそう思っていた。


だけど卒業が近づくにつれ、夢は悠人を追い詰めていった。


曲を書こうとする度に彼の表情は険しくなり、笑顔がひとつ、またひとつと消えていく。

そんな姿を見るのがつらくて、私はどう応援すればいいのか分からなくなっていた。


同じ未来を見て歩いていたはずなのに。


気づけば、その先の未来が見えなくなっていた。


悠人と別れたあの日も、暗い雨が降っていた。


そして今日も――。


雨が降るたびに思い出す。

彼が投げ捨てた楽譜。

別れを告げられた日の、あの苦しそうな横顔。


胸の奥に沈んだままの、私の記憶。

窓の外では、今日も静かに雨が降り続いている。


まるで私の心を映し出しているかのように――。



「んっ――」


愛未は大きく背伸びをした。


「だめだ。雨の日はどうしても気分が暗くなる。気分転換にコンビニに行って、甘いものでも買おうかな」


近くのコンビニまでは歩いて五分。

 

愛未は、長い髪を一つに束ねると、バッグから財布だけを取り出した。

 

そのまま玄関へ向い、靴を履こうとした、その時。


「愛未――。どこか出かけるの?」


母がリビングから声をかけた。


「うん。甘いもの食べたいから、コンビニ行ってくる」


靴を履きながら振り返ると、そこには母が立っていた。


「じゃあ牛乳もお願いできる?もうすぐきれそうなのよ」


「わかった。じゃあ行ってきま―す」


愛未は傘をさし、静かに雨の中を歩き出した。


やがて目的のコンビニが見えてきた。


その時――。


(え……)


向こうから、一人の男性が歩いてくる。

雨で薄暗く、顔までははっきりと見えない。

それでも愛未には、すぐにわかった。


あの背格好。

少しだけ丸まった肩。

あの歩き方まで。


何も変わっていない。


――悠人だ。


「なんで……」


胸が大きく波打つ。


(悠人はこっちにはいないはず……。転勤して、今は関西にいるって聞いていたのに)


思わず足が止まった。


あれから三年。

大学を卒業して以来、一度も会っていなかった。


「あ……いみ?」


わずか五メートルほど先。

そこには、あの悠人が立っていた。


「……久しぶり。元気だった?」


先に口を開いたのは、悠人だった。


ぎこちない話し方。

どう話しかけたらよいのかわからない。その戸惑いが言葉に滲んでいた。

 

「……うん。久しぶりだね。こっちに戻ってきてたの?」


(上手く笑えていないかもしれない……)


「あぁ……。二週間前に帰ってきたんだ。またこっちで仕事することになって」


「そう……」


そこで会話は一度途切れた。

雨音だけが、二人の隙間を埋めているかのようだった。


愛未もまた、何を話せばいいのか分からなかった。


三年前、本気で好きだった人。


もう二度と交わることがないと思っていた人が、今こうして目の前にいる。


戸惑いと嬉しさ。

そして、胸の奥に小さな灯りが灯ったような、ほんのりとしたぬくもりを感じた。


「……愛未は?今、何の仕事してるの?」


「普通のOLだよ。家から二十分くらいのところで働いてる。悠人は?」


「近っ!羨ましいな。俺は建築関係の営業だよ」


「そっか……」


(やっぱり音楽は辞めたんだ……)


少しだけ、胸がチクリと痛んだ。

 

だけど――。

目の前の悠人は、三年前より穏やかな表情をしていた。


「……元気そうだね」


愛未は微笑んだ。


「愛未も……元気そうだな」


悠人はそう言うと、わずかに表情を曇らせた。


「うん。元気だよ」


愛未は優しく微笑む。


わかってる。

彼もどう接すればいいのか、わからないんだ。


私も同じ。

それが、三年という歳月の距離だった。


雨音が、少しずつ大きくなっていく。


「買い物だろ?邪魔して悪かったな。雨が強くなってきたし、早く済ませたほうかいいぞ」


「だね。じゃあ、またね」


愛未は歩き出す。

悠人もまた、歩き出した。


お互いの距離が少しづつ開いていく――。その時だった。



「愛未!」


心臓が大きく跳ねる。

愛未は驚き、くるりと振り返った。


悠人はその場に立ち尽くし、後頭部に手をやると、大きく息を吐いた。


「……クソっ」


小さく絞り出すような声だった。


「……どうしたの?」


悠人はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに愛未を見つめる。

その頬は、わずかに赤く染まっていた。


「……あの時はごめん」


愛未は意味がわからず、小さく首を傾げた。


「あの時って?」


「三年前。俺が愛未に別れを告げた日……。あの時は俺が一方的だったから……」


三年前――。


あの日の記憶が、雨とともに呼び起こされる。


別れを告げられたあの日。

確かに私は理由を聞かなかった。


聞けなかった、といった方が正しかったのもしれない。


私たちは、もう限界だった。


だから一方的ではなかった。

私もわかっていたから。


いつからだろう。

どこかで歯車は、少しずつずれていった。

 

そのずれは次第に大きくなり、気づいた時には、私たちはもう修復できないところまできていた。


嫌いになったわけじゃない。


誰かが悪かったわけでもない。


ただ、お互いの存在が、お互いを苦しめるようになってしまっていた。

 

愛未は、ふと優しく微笑んだ。


「あの時は、しんどかったんだよ。一緒にいることが……。悠人も、私も。だから謝らないで」


別れはもちろんつらかった。

だけど、あのまま一緒にいる方が、もっと苦しかったはずだ。


悠人は小さく息をついた。少しだけ表情が和らだように見えた。


「また同じ地元なんだし、これからは友達として仲良くしよう。向こうでの話も聞かせてよ」


愛未は明るく笑った。


「あぁ……。そのうち飲みに行こうな」


ようやく、悠人は心から笑った。

その笑顔は、大学時代と変わらなかった。


だだ、三年という歳月は、あどけなさを少しだけ消しさり、その笑顔に穏やかな大人の表情を添えていた。


「うん。また連絡待ってるねー」


愛未は身を翻し、そのまままっすぐに歩き出した。


背後で、悠人の足音が遠ざかっていく。

やがてその足音は、少しずつ雨音に溶けていった。


「……まいったなぁ」


愛未は小さく苦笑いした。


(悠人……大人っぽくなってた)


(ますます素敵になってたなぁ)


だけど――。


不思議と、あの日から胸の奥に残っていた痛みやざわめきも感じなかった。


(そうか――)


愛未は、ふっと笑みをこぼした。


(私が好きだったのは、二十二歳の自分が好きだった悠人なんだ)


涙のように感じていた雨も、また違ったように感じる。


愛未の足取りは軽くなった。


そして――。


誰にも聞こえない、小さな声で呟いた。


「好き、だったよ。二十二歳の悠人くん」


その声は、雨音にそっと溶けていく。

誰の耳にも届かない告白。


「さて、何にしようかなぁー?アイス?プリン?」


もう、きっと雨は重くない。


あの日、床に散らばった楽譜を、私は拾わなかった。

あの恋も、あの日のまま拾い直さなかった。


それがきっと、私が選んだ答えだったんだ。


愛未は空を見上げた。


雨はまだまだ止みそうにない。


だけど、私にはもう泣いている涙の雨ではない。


「あ!牛乳も買わなきゃ。忘れるとこだったわ」

 

愛未は小さく笑うと、コンビニへと足を進めた。



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