第二章:時空を越える青年
俺、佐藤健人には、幼稚園の頃からの幼馴染がいる。
名前は絵梨花。何よりも大切な存在。
ようやく仕事にも慣れ、給与明細の数字を眺めては、明るい未来を具体的に想像できるようになった頃だった。
先日、俺たちは彼女の両親に挨拶を済ませた。
絵梨花の父親は、少し寂しそうにしながらも、最後には俺の手を強く握って「娘を頼む」と言ってくれた。
指先には、奮発して買った婚約指輪の重みがまだ残っているような気がした。
すべては、順風満帆だった。
あの日、彼女のマンションを訪ねるまでは。
「絵梨花、入るよ」
合鍵で開けたドアの先、視界に飛び込んできたのは、一面の赤。
どろりとした、鉄の匂いが鼻を突く。それは絶望の色だった。
部屋の中央、絵梨花は何者かに刺され、冷たい床に横たわっていた。
「……えり……か……?」
返事はない。ただ、まだ少しだけ温かい彼女の手を握り、俺は悲鳴を上げた。警察も救急車も、後のことは何一つ覚えていない。
犯人は見つからず、動機も不明。
ただ愛する人が、結婚を目前に控えた中で、殺された。
一週間後。
俺は自分のマンションの屋上に立っていた。
絵梨花のいない世界で生きている意味が、呼吸を続ける意味が、どうしても見出せなかった。
「今、行くから……」
一歩、足を踏み出した。
重力に身を任せ、視界が歪んだその瞬間。
気づけば、俺は「白」の中にいた。
ビルから飛び降りたはずなのに、地面の衝撃も、風の音もしない。ただ、無機質な純白の空間が無限に広がっている。
「あなたは……?」
目の前に、真っ白な服を着た男が立っていた。感情の欠片も見当たらない、硝子のような瞳。
「俺は、お前を観測する者だ。それ以上でも、それ以下でもない」
男の声は、機械のように平坦だった。
「お前の怒りと絶望が、この時空の概念を歪めた。結果として、お前には二つの道が生じている。一つは、このまま墜落を受け入れ、無に帰ること。……もう一つは、過去をやり直すことだ」
「過去を……やり直す?」
「お前は、時空を越える存在になった。あの女が生きていた時間へ戻ることもできる。ただし、俺は何もお前にしない。誰が彼女を殺したのか、どうすれば救えるのか。それを教えることも、手助けすることも俺はしない。それでもお前は、過去に戻るか?」
男の言葉が終わる前に、俺は叫んでいた。
「決まってるだろ! 戻る、戻るんだよ! 絵梨花を救うためなら、俺は何だってやる!」
「そうか」
視界が暗転し、次に目を開けたとき、俺は絵梨花が殺されるあの日に戻っていた。
心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響く。俺は必死で走り、彼女のマンションへ向かった。
いた。マンションの入り口、フードを深く被り、周囲を伺う怪しい男。
「おい! そこで何してる!」
俺が声を荒らげると、男はビクッとして、そのまま逃げるように走り去っていった。
(……やった。救えたんだ!)
インターホンを押し、出てきた絵梨花を無言で抱きしめる。
「健人? どうしたの、急に」
「いや……なんでもないんだ。ただ、顔が見たくなって」
「もう、大げさだよ」
絵梨花は笑っていた。温かい。生きている。
男は逃げた。けれど、念のために今日は泊まらせてもらうことにした。
「何か変わったことはないか? 変な電話が来たり、誰かにつけられたり……」
「ううん、何にもないよ。健人、心配性すぎ」
夜、隣で眠る彼女の寝息を聞きながら、俺はようやく胸を撫で下ろした。良かった。これで大丈夫なはずだ。
翌朝。
仕事がある彼女を送り出すため、一緒に家を出た。
「一緒に行こう、駅まで」
駅のホーム。通勤快速が通り過ぎる轟音が響く。
「健人、今日の夜は――」
絵梨花が言いかけたその時、人混みの中から、あのフードの男が飛び出してきた。
俺の手が届くよりも早く、彼女の背中が強く押された。
「え⋯⋯」
短い声。
目の前で、絵梨花の体が吸い込まれるように線路へ落ちた。
凄まじい金属音。鳴り止まない悲鳴。
再び、白い部屋。
俺は床に這いつくばり、拳を血が滲むほど叩きつけた。
「……無駄だ。事象は収束する。その日を回避しても、翌日。翌日を回避しても、翌々日。彼女の死は、この世界の確定事項として記録されている」
観測者の声は、どこまでも冷酷だった。
それからの俺は、狂ったように時間を戻し続けた。
ある時は、一日中、絵梨花を家に押し込めた。しかし、夜中にマンションが出火し、俺と彼女は、炎に包まれて、俺たちは意識を失った。
ある時は、遠くの街へ旅行に誘い出した。しかし、高速道路でトラックが突っ込んできて、彼女の助手席側だけが押し潰された。
刺殺、放火、事故⋯⋯。
救えない。何度やり直しても、あいつが、世界が、彼女を殺す。
「悪い夢だ……これは、悪い夢なんだ……」
救急車のサイレン。彼女が死ぬ瞬間の、肉が潰れる嫌な音。それらが脳内にこびりつき、俺の心は摩耗し、ボロボロに崩れていった。
観測者が問いかける。
「残念だが、お前にはどうすることもできない。しかし、お前には残された命がある。彼女のいない世界を受け入れて、生きる道もある。それでも、まだ続けるのか?」
俺は、うつむいたまま、掠れた声で漏らした。
「……俺、絵梨花を愛してたんだ。いつか、お母さんになりたいって笑ってた。子供を抱いて、暖かい家庭を作りたいって。その夢を、俺が一緒に叶えたかったんだ……。あいつが、なんで……なんで殺されないといけないんだ」
観測者は黙っている。
「お前は、殺した奴が憎いか?」
「……分からない。だけど。俺はただ、絵梨花に生きていて欲しかったんだ。それだけなんだ⋯⋯。もし、あいつを殺して、絵梨花が助かるなら、俺はなんだってしてやる。たとえ人殺しになったとしても……」
俺の言葉に、観測者の手が止まった。
「俺は、地獄に落ちてもいい。彼女にだけは、これからも幸せな世界で生きていてほしいんだ⋯⋯」
「……そうか」
男はそう言い残し、霧のように去っていった。
また、時間を戻る。
そして、あの日。
絵梨花が死ぬ、その直前。
俺は重い足取りで彼女のマンションに向かった。
この時間に、マンションの前にあのフードの男がいるはずだ。まずは、あいつを追い払わなければならない。
警察に相談してみても、これから人が殺されると言っても、信じてもらえなかった。ストーカーの被害届が出ているわけでもない。まして当の本人は認識すらしていないのだ。信じてもらえるはずがなかった。
数千回繰り返した、いつもの作業。
何をしたって、無駄だった。
でも、今日は違う。
俺はポケットにナイフを忍ばせていた。決心した。俺があいつをこの手で殺す。確実に。
手は震えていた。人殺しになったら、俺はもう絵梨花のそばにはいられない。犯罪者になったら、彼女の隣に立つ資格はない。犯罪者の婚約者として、非難されるかもしれない。辛い思いをさせるかもしれない。……いや、違う。俺が捕まれば、彼女と暮らす未来なんて、最初から存在しなくなるんだ。
それでも。絵梨花が生きていてくれるなら。
不快なノイズが頭に走る。
俺が、必ずあいつを殺す。
だけど、マンションの前に、男はいなかった。
(なぜだ……? まさか、予定が変わったのか? もう、中で絵梨花は……!)
血の気が引く。
俺は転がるように階段を駆け上がり、彼女の部屋のインターホンを叩くように押した。
「はい……え、健人?」
ドアが開いた。
そこには、いつもの絵梨花が、不思議そうな顔をして立っていた。傷一つない、生きた彼女。
「ああ……」
俺は言葉にならず、そのまま彼女を強く、強く抱きしめた。
「ちょ、健人!? どうしたの、苦しいよ」
「なんでもないんだ……。なんでもないんだ、絵梨花……」
彼女の心臓の音が聞こえる。体温を感じる。
いつもなら、この後に何らかの悲劇が襲ってくるはずだった。
しかし、今日は誰も来ない。
何かが、変わったのは確かだった。
俺はいつまでも、彼女を離さなかった。
この温もりだけは、もう誰にも渡さない。
壊れかけた俺に、唯一残った光。
もう二度と離さないと、強く誓った。




