第一章:死に戻りの令嬢
冬の朝の空気は、肺の奥まで凍てつかせるほど鋭かった。
断罪の広場を埋め尽くす民衆の罵声は、もはや意味をなさない雑音として私の耳を通り過ぎていく。 引きずられる石畳の冷たさも、ドレスを引き裂く泥の感触も、泥に混じって投げつけられる腐った果実の不快な臭いも、今の私にとっては遠い世界の出来事のようだった。
「――稀代の悪女、セシリアに死を!」
「王国の呪いめ、地獄へ落ちろ!」
投げつけられた石が頬を掠め、熱い液体が滴る。視界が赤く滲む。
私は、処刑台の階段を一歩ずつ登らされていた。かつては次期王妃として、誰よりも誇り高く、そして誰よりも慈しまれて育てられたはずの私の人生。父の厳しいながらも温かい指導、母の柔らかな歌声、それらすべてが、たった数ヶ月の間に塵となって消えた。
貴賓席で優雅にワインを傾け、満足げにこちらを見下ろしている、ラインハルト伯爵。
その男の邪悪な計略によって、私は「第一王子殺害の実行犯」に仕立て上げられた。私の家は取り潰され、愛する両親も「共犯」の汚名を着せられたまま獄中で命を落とした。没落は一瞬だった。
昨日まで跪いていた貴族たちが、今日は手のひらを返して私に唾を吐きかける。すべては伯爵の、あくなき権力への強欲が招いた悲劇だった。
処刑台の台座に跪かされ、冷たい鉄の輪が首筋に触れたその瞬間。
私の心を満たしたのは、迫りくる死への恐怖でも、伯爵への燃え盛るような憎しみでもなかった。
(ああ、あなたに……。あなたに、たった一言、伝えられれば良かったのに⋯⋯)
まぶたの裏に浮かぶのは、リアム様と過ごした、穏やかな日々の断片。
政務に追われる彼の、ふとした瞬間に緩む眉尻。二人きりのバルコニーで、私を後ろから抱き寄せる彼の腕の、確かな逞しさと温もり。
彼は何度も、囁くような低い声で、私に「愛している」と言ってくれた。
そのたびに私の心は歓喜に震え、世界が幸福な色に染まるのを感じていた。
しかし、いざ私も同じ言葉にしようとすると、臆病な羞恥心か、どうしても喉の奥で言葉が詰まってしまった。
『……ありがとうございます、リアム様。私も、その、光栄です⋯⋯』
頬を赤らめて目を逸らし、そう返すのが精一杯だった。
本当は、私の心だって同じ熱量で彼を求めていた。貴族の令嬢としての仮面なんて脱ぎ捨てて、心からの「愛している」を彼に届けたかった。彼の首に腕を回して、その体温を確かめながら、叫ぶように、祈るように伝えたかった。
けれど、もう、何もかもが遅い。
手の届かない、夢。
彼は今、ここから見える離宮の塔で、伯爵の盛った毒に倒れ、死の淵を彷徨っている。
伝えられなかった想いが、後悔となって胸を焦がし、刃よりも鋭く魂を切り裂く。こんなことになるのなら、明日が当たり前に来るなんて、信じなければよかった。今この瞬間、私の首が落ちる瞬間、彼のそばにいられないことが、何よりも耐え難いことだった。
(もし……。もし、この悲劇的な結末を回避できるのなら。運命を、この残酷な結末を書き換えられるのなら。あなたともう一度、やり直せるのなら……その時は、きっと⋯⋯)
私は強く、壊れそうなほどに願った。
例えどれほどの代償を支払うことになってもいい。私自身の魂が擦り切れたって構わない。
ただ、彼の隣に立ち、あの不器用な愛に、真っ直ぐな言葉で応えたかった。
もはや意味のない、空虚な願いなのに。
断罪の鐘が鳴る。
ヒュン、という、死を告げる無機質な風切り音。
直後、私の世界は凄まじい熱量とともに、完全に破壊された。
気づけば、私は「白」の中にいた。
上下も左右も判然としない、音も風もない純白の静寂。そこは生者の立ち入る場所ではなく、命の脈動すら否定された虚無の牢獄のようだった。
目の前には、見知らぬ一人の男が立っていた。
真っ白な服を纏い、感情をすべて削ぎ落としたような、硝子細工の瞳で書板を見つめている男。
「当該個体を『終焉』として記録する」
その声は、私の心臓を凍りつかせるほどに平坦だった。慈悲も憎しみも、温度というものが一切存在しない。まるで、数千年もの間、同じ数式を読み上げ続けてきた機械のように。
「……あなたは、だれ?」
震える声で問いかけた。首を断たれたはずなのに、痛みがない。けれど、魂が震えるような、未知なるものへの恐怖だけが重くのしかかっている。
「俺は、ただお前を観測する者だ。この時空における、事象の終着を記録すること、それが俺の役割だ。それ以上でも、それ以下でもない」
男は淡々と答えた。私の絶望も後悔も、彼にとっては、ただの一つの記録に過ぎないようだった。
「セシリア、お前の生涯は、ここで幕を下ろした。だが、お前には二つの選択肢が存在する。……一つは、死してなお、この世界でやり直すこと。もう一つは、こことは違う座標、全く違う属性を持つ新たな世界へ、お前の情報を転送することだ」
男は、何もない空中に二つの扉を浮かび上がらせた。一つは、血の匂いが漂う今の世界へ続く黒い扉。もう一つは、暖かな日差しが漏れ出る扉。
「こちらの扉を選べば、お前は処刑の苦しみからも、理不尽に向けられた悪意、そして卑劣な策略からも解放される。そこにお前を害する者は、もはや存在しない。穏やかな幸福が約束された、別の人生だ。もう二度と、鉄の冷たさに怯える必要はない。これが最も合理的な選択だ」
私は、扉を見つめることすらしなかった。
私の魂は、最初からひとつの場所を指し示していたからだ。
「……愚問ね。決まっているわ。この世界で、あの方を取り戻す」
観測者の眉が、僅かに動いた。
「理解不能だ。戻れば、お前はまた同じ苦しみを味わうことになる。これは確定した事象だ。なぜわざわざ、その不合理で果てしない苦痛を選ぶ?」
「あの方のいない人生を歩むくらいなら、私は何度だって、あの鉄の刃に引き裂かれる道を選ぶわ」
私は、男をまっすぐに見据えた。たとえ魂が引き裂かれようとも、この想いだけは手放さない。
「あの方のいない人生は、私にとっては地獄よりも辛い場所です。偽りの幸福なんて必要ない。たとえどれほど血を流しても、たとえどれほど惨めな死を繰り返しても。あの方を愛し、愛された記憶があるこの世界で……。私はあの方を救い、愛していると伝える道を探し出すわ」
そんな決意も虚しく、私は、幾度となくその「白」の世界に戻ってきた。
ある時は、目覚めてすぐに伯爵の短刀によって。
ある時は、あの方に迫る刺客を自ら引き受け、その冷たい刃で胸を貫かれながら。
ある時は、あの方を連れて隣国へ逃亡しようとした。国境の森で待ち伏せていた伯爵の手の者に囲まれ、私たちは共に終わりを迎えた。
策を講じれば講じるほど、伯爵の悪意は蜘蛛の糸のように、形を変えて私たちを絡め取る。
首を断たれる衝撃、刃に貫かれる熱、毒に蝕まれる震え。
積み重なった死の記憶が、私の魂を削るように摩耗させていく。
「結果は依然として変わらず、だな」
観測者の声が響く。何度目かの「白」の世界。
男は書板を指先でなぞり、そこに記された私の「失敗の歴史」を、単なる数字として処理していた。
「なぜだ? 肉体は元通りになったとしても、魂は確実に擦り減っている。お前の精神は、いつ壊れてもおかしくないというのに。なぜ、そこまでして、この不毛な反復に固執するのだ? まさか、お前は痛みも感じないと?」
「……痛くないわけ、ないじゃない⋯⋯」
私は、震える膝を叩いて立ち上がった。首筋にこびりつく、幻のような痛みに耐えて、吐き気を飲み込む。
「思い出せば今でも発狂しそうよ。死ぬたびに、その瞬間の恐怖が、氷のような感覚が私の肌に張り付いて離れない。でもね、そんな痛みなんて……。あの方と過ごした、あの温かな日々を完全に失うことに比べれば、取るに足らないものだわ」
まぶたの裏に、再び情景が浮かび上がる。
私を抱きしめる、彼の大きな手の温かさ。
私の名を呼ぶ、少し掠れた彼の声の響き。
あの方が生きている。あの方が笑っている。
その一点こそが、私の世界の均衡を保つ、唯一の真実だった。
「あの日々がなかったことにされるくらいなら、私は何度だって首を差し出すわ。いつか必ず、あの方が穏やかに朝日を浴びて、私の隣で眠りにつくその日まで。年を経て、二人が老いたとしても、変わらず穏やかな日々を過ごすの。いつか必ず、あの方が幸福に生きる道へ、辿り着いてみせるわ」
観測者は、持っていたペンを止めた。
初めて私を直視したその瞳が、僅かに揺れた。それは完璧に静止していた湖面に、一粒の石が投げ込まれたような微動だった。
「……理解できない。あれほどの痛みと屈辱を繰り返し、なお諦めない。お前の行動の理由も、執念も⋯⋯」
男は理解しがたいものを見る目でこちらを見た。だが、その言葉とは裏腹に、彼の視線は私の足元の震えをじっと見つめていた。
「……そうか。また失敗しても、これを続けるというのか?」
「ええ、何度でも。……何度でもよ」
そう言うと、男は私に背を向けた。
その刹那、私は見た。
すべてを情報として処理し、感情など持たないように思われた、観測者の手が、微かに震えていたことを。
彼は「理解できない」と言った。
けれど、あの震えだけは、幾多の死を越えてなお、愛を叫び続ける私の執念を、誰よりも深く、そして正しく「観測」していた証拠のように思えてならなかった。
意識が、急速に現実へと引き戻される。
次に目を開けたとき、私は十八歳の誕生日の朝に戻っていた。
窓から差し込む、柔らかくも眩しい黄金の朝日。小鳥のさえずり。
そして机の上には、リアム様から届いたばかりの、少し不器用な筆跡で愛を綴った手紙が置かれている。
(今度こそ。……幸せな結末を、あの方に捧げるわ)
怒りや復讐など、私にはどうだっていい。
ただ、あの方が私の名を呼び、私がその手に触れる。
この悲劇をもし回避することができたのなら、今度こそ、恥ずかしがらずに、あなたの瞳の奥を覗き込んで伝えたい。
心から、あなたを愛しています、と。
私は何度でも、あの方と幸せな日々を過ごすためなら、血塗られた道であろうと、探し続ける。




