第4話 止めなかった選択
広場では輪郭のはっきりしていた音楽も、離れるにつれて混ざり合い、ただの騒音になる。笑い声も、歌も、意味を失って壁に染みついていく。
カイはその中を歩いていた。
人の流れから外れたつもりはない。
ただ、いつの間にか周囲との速度がずれていることに気づく。足を止めているわけでも、急いでいるわけでもないのに、気づけば前後に誰もいない。
こういう瞬間は、昔からあった。
「相変わらず、変わらないわね」
少し遅れて、リシェルが追いつく。
彼女は歩きながら、さりげなく周囲を見回していた。
視線の動かし方が、街の人間とは違う。見るべき場所と、見てはいけない場所を知っている目だ。
「俺じゃない、街が悪い」
「人が多いから?」
「多いから、薄くなるんだよ……」
説明する気はなかったが、言葉は自然と出た。
個々の存在が薄まるほど、異物というのは目立つものだ。祝祭は、その差を一時的に誤魔化してくれる。
石段を下りきったところで、二人は立ち止まった。
ここから先は、灯りの配置がまばらになる。露店もなく、飾りもない。街の裏側と呼ばれる区域に入る。
カイは、無意識に肩をすぼめる。
風が冷たいわけでもないのに、身体が勝手にそう動いてしまう。
「見られた?」
「いや。見られてはない」
リシェルは小さく息を吐く。
「今日は特にね。魔族って言葉が、街に降ってきたばかりだもの」
降ってきた、という表現は確かに正しかった。
投げ込まれた石のように、その言葉は水面に波紋を広げる。誰が拾い上げるかは、選べない。
「セフィラは……」
言いかけて、カイは口を閉じた。
今、彼女の名を出すのは不用意だ。名前は、変な繋がりを生んでしまう。
「あの子、とっても静かだったわね」
代わりに、リシェルが言う。
「檻の中でか?」
「だって、連れてこられたときから、呼吸の仕方が変わらなかったんだもの」
それは、よく見ていなければ気づかない部分だった。
カイは一瞬だけ、彼女の横顔を見る。
「……よく、そんなところまで見てたな」
「だって、私と同族だもの」
軽く言ってはいるが、そこに冗談は感じられない。
通りの角を曲がると、視界が開けてきた。
高台に続く階段の途中から、まだ広場が見える。檻は見えなくなるほど小さく、ほとんど景色に溶けてなくなり、人の動きだけが、その周囲を巡っていた。
「あそこにいる限りは、まだ保護に近いわ。少し安心ね」
リシェルが言う。
「皮肉がすぎるぞリシェル」
「だって、保護と隔離は、紙一重でしょう?」
カイはリシェルの言葉に何も返さなかった。
その代わりに、視線を外す。
昔、同じように見下ろしたことがあった。
檻ではなかったし、囲いでもなかった。
ただ、線が引かれていただけだ。
それだけで、人は区別されていた時代だ。
「止めなかったこと、もしかして後悔してる?」
まるで確信めいたように、カイの顔を覗き込み聞いてくる。
「いや……後悔ってのは選択を誤ったときにするものだ」
「今回は?」
「……必要だった、それだけだ」
言葉にしてから、少しだけ間が空いた。
「少なくとも今は、な」
階段を上りきると、風の通りが変わる。
街の匂いが薄れ、冷えた空気が肺に入る。ここまで来ると、追ってくる音はない。
「勇者は、納得してると思うか?」
「していなければ、困るでしょ?」
勇者は、すでに物語の一ページになりつつある。物語の中では、その疑問はノイズだ。
「彼は……決して悪くなんかないんだ」
カイが言う。
「ええ分かってる。だから厄介なのよ」
リシェルは、手すりに指を置いた。
人の形をした影が、遠くの壁に伸びている。
「悪意がない分、彼を止める理由が見つからない」
沈黙が落ちる。
だが、それは居心地の悪いものではなかった。
カイは、深く息を吸って言葉を吐く。
「……俺は、いつか世界の檻を壊す」
それは面だけの宣言なんてものじゃなく、独白に近い。
「誰かを逃がすため、なんかじゃなく」
「制度そのものを壊しに行くってことね?」
「そうだ」
リシェルは、カイの言葉が最初から分かっていたかのように、少しだけ目を細め頷く。
「なるほどね。そのためには、檻の内側も、外側も知る必要があるわね」
「そんなの、分かってる」
だから、今は動かない。
助けない、ということも選択だ。
それは、見捨てることとは違うのだ。
遠くで、城の鐘が鳴った。
祝祭とは無関係な、乾いた音。
次の手順が、静かに始まった合図だ。
カイは背を向け、階段を下りる。
祝祭の夜は、まだ終わらない。
だが、均衡は、すでに軋み始めている。




