第3話 勝利のあとで、均衡は見下ろされる
広場を離れても、祝祭の音は追ってきた。
それは背中を叩くような騒がしさではなく、じわじわと染み込んでくる種類の音だった。
笑い声と音楽が石壁に反射し、細い路地の奥にまで流れ込んでくる。道幅が狭くなるほど、音は逃げ場を失い、濃度は増していく。
檻の前を通り過ぎた人々は、もうそれを意識していない。
さっきまで、確かに誰かが閉じ込められていた場所だという事実すら、記憶の中で輪郭を失っていく。
視界に入らなければ、なかったことになる。人が話題にしなければ、問題ではなくなる。
世界は、そうやって進むのだ。
止まらないし、振り返らない。
カイは人の流れから静かに外れ、石造りの階段を上った。
一段一段が低く、歩幅を乱さずに登れる作りだ。
ここは昔から、街を見下ろすための場所だったのだろう。防衛でも、監視でもなく、ただ『上から眺める』ための高さとしてちょうどいい場所だ。
見下ろせば、広場全体が視界に収まる。
人々の輪、露店の色、旗の揺れ。
祝祭と、檻と、それを囲む兵士たちが、同じ一枚の景色として並んでいる。
どれも等しく、街の一部だった。
「止めなかったわね」
背後から、リシェルの声がする。
足音はない、いつものことだ。
責める調子ではなかった。
問い詰めでも、確認でもない。ただ、事実をそのまま言葉にしただけの響き。
「止められなかった」
カイは即答した。
考えてから出た言葉ではない。胸の奥に、最初からあった答えだった。
言い訳の余地を残さない言い方だ。
もし「止めなかった」と言えば、自身の選択になる。だが「止められなかった」と言えば、それは人としての限界の話になる。
リシェルは何も言わず、彼の隣に立った。
長い耳は、フードから隠す気もなく見えている。だが、誰もここまで視線を向けない。
「あなたなら、できたでしょうに」
静かな声だった。
その言葉も責めではなく、事実として。
「できることと、していいことは違うんだよ」
カイはそう返し、それから少しだけ間を置いた。
言葉を足すかどうか、迷った時間だった。
「……それに、あれは『始まり』だ。今止めても、別の形で続くだけの」
檻の前では、兵の配置がすでに緩み始めていた。
交代の合図も、明確な命令もない。
ただ、役目が終わったと全員が理解している。後は時間に任せればいい。世界が勝手に整えてくれる。
「勇者はどうしたんだ?」
「城に戻ってるわ。祝賀の準備でしょうね」
勇者アルト。
この街で、今もっとも信頼されている男。
彼はきっと、今日のことを「必要だった」と思うだろう。
思わなければ、勇者ではいられない。
誰かを守る立場に立つ者は、同時に、誰かを切り捨てる理由を持たなければならない。
カイは、遠くの檻を見下ろした。
時間が経ってもセフィラは、動かない。
檻の中で座り込み、背を伸ばし、ただ前を見ている。
助けを求めるでもなく、怒りをぶつけるでもない。その姿は、不思議なほど周囲の景色に溶け込んでいた。
まるで、最初からそこにあったかのように。最初から「そういうもの」だったかのように。
「なぁ……この世界は、優しくなったと思うか?」
唐突に、カイが口にした。
自分でも、なぜこの言葉が出たのか分からなかった。
リシェルは、すぐには答えない。
少しだけ、祝祭の方を見て、それから首を横に振る。
「変わってないわよ。ただ、言い方が綺麗になっただけ」
昔は、もっともっと露骨だった。
魔族は斬れだ。
人間は守れだ。
だが、今は違う。
安全。秩序。均衡。
そういう言葉で包む。角を落とし、血を拭い、正しさの形に整える。
だから、誰も自分が悪だとは思わない。
ただ、必要なことをしただけだと信じられる。
カイはフードの縁に触れた。
見えなければ、存在しないことになる。この世界は、そういう世界だ。
「……俺はさ」
言いかけて、やめる。
言葉にした瞬間、それは決意になってしまう。今ここで自分が背負うには、まだ重い言葉だ。
彼が止めたいのは、一人の処刑なんかじゃない。
檻でも、魔族でも、勇者でもない。
勝った側が、疑いなく正義になる流れそのものだ。
それを止めるには、正しい場所には立てない。
もっと深く、もっと汚れて、誰にも理解されない立ち位置に行く必要がある。
「今は、まだ動かない」
カイはそう言って、階段を下り始めた。
祝祭はまだまだ続く。
檻は閉じたままだ。
世界は、何も問題がなかったかのような顔で回り続ける。
――だからこそ、カイが止めなければならない。
この均衡が、次の勇者と、魔王を生む前に。




