第2話 祝祭の影で、檻は待つ
鐘の音は、一度きりだった。
短く、確認のための二度目もない。
誰かに判断を委ねるような間も与えず、ただ『ここから先は別の段階に入った』という事実だけを、街の上に落としていく。
それ以上、何も起こらない。
だからこそ、その音は合図として完璧だった。
路地を抜けると、再び人の気配が濃くなる。
祝祭は、まだ終わっていない。
終わる理由がない、と言った方が正しいか。
昨夜から続く熱は冷めきらず、酒場からは朝だというのに笑い声が溢れる。
露店では余った料理が安く売られていた。
串に刺された肉から脂が落ち、鉄板の上で弾ける音がする。甘い菓子の匂いと、少し酸味の強い酒の香りが、空気の中で混ざり合っていた。
人々はまだ浮かれているんだ。
肩を叩き合い、昨日の戦いを語り、勇者の名を何度も口にする。
ついこの間に終わったこと、その恐怖はもう過去のものだと、互いに確認し合うように。
誰もが、これから起きることを自分とは無関係だと思っている。
それこそが、祝祭という状態だった。
カイは歩調を変えずに進んだ。
速くもなく、遅くもない。
人の流れに逆らわず、しかし中心にも入らない。
視線は少しだけ落とし、背筋は必要以上に丸めない。
目立たず、怪しまれず、それでいて埋もれすぎない――これが、生き延びるために覚えた、街での歩き方だった。
広場に近づくにつれ、兵の数が増えていく。
祝っている人々とは、明らかに違う空気をまとっている。笑顔はなく、視線は常に周囲を計るように動いていた。
剣に手を添える者、盾の位置を微調整する者、互いの距離を無言で確認する者。
彼らこそが『安心』を守る側だ。
そのためなら、何かを削る役目も引き受ける。
祝う側と、管理する側。
その境界線は、言葉にされることなく、だが確実に引かれている。
広場の端で、人の流れが一瞬、滞った。
「おい、もうすぐ始まるらしいぞ」
「式典ですかね?」
「まだ何かあんのか?」
期待と好奇心が混ざった声が、ざわめきの中に落ちる。
誰も、最悪を想像しない。想像する必要がないと思っている。
少しすると、演壇の前に、数人の役人が姿を見せた。
衣服は豪奢ではないが、とても質がいい。
装飾は最低限で、実務に慣れた者の身なりだった。
剣は帯びていない。その代わりに、巻物を手にしている。
彼らの後ろには、無言の兵士たちが控えている。
檻の前に立つと、役人の一人が一歩前に出て、巻物を広げた。
「――王都より通達を申し上げる!」
よく通る声だ。
広場全体が、自然と静まる。
祝祭のざわめきが完全に消えることはないが、それでも、人々が聞くべきものを聞く顔ににさせる力がある。
「魔王討伐に伴い、国内の安全確保を最優先とする。よって、以下の名の者を拘束し、調査の後、処分を決定する」
歓声は、起きなかった。
代わりに、小さなざわめきが広がる。
カイは人垣の後ろから、その様子を見ている。
視線は上げすぎない。だが、耳は一言も逃さない。ここで読み上げられる名前は、単なる名簿ではないと分かっているから。
一人目の名が、読み上げられた。
聞き覚えはなかった。
続いて、その者の職業。出自。過去の行動。
どれも、単体で見れば罪と呼ぶにはあまりに弱い。
だが、並べられることで意味を持ち、疑いとして形を持つ。
「……なんだ、それだけかよ」
「魔族でもないのに、拘束するの?」
囁きが、あちこちで漏れる。
街人にも疑問はある。だが、異議を申しでる奴はいない、皆気づかぬうちに周りに合わせて反応をしている。
そして、二人目、三人目。
共通点はとても曖昧だ。
戦時中に魔族と接触した者。
勇者の進軍に疑問を呈した者。
あるいは、単に都合の悪い場所に住んでいただけの者。
少し整理だ、とカイは心のなかで呟く。
世界が『正常』に戻るための、いつもの手順を踏んでいる。
しかし、最後に読み上げられた名で、空気がわずかに変わる。
「――セフィラ」
その名に、目立った反応はあったわけじゃない。
だが、役人の声がわずかに低くなったことで、周囲もそれを察する。
「魔族。戦闘記録なし。医療補助に従事。王都に滞在中」
魔族。
その言葉だけが、遅れて意味を持ち始める。
「やっぱり出やがったな」
「隠れてこそこそと……」
それは憎悪というよりも、納得だ。
人は物事の敵がいなければ、安心は完成しない。
兵に導かれて、檻の前に一人の女が連れてこられた。
なぜか、拘束は最低限だ。
鎖は軽く、魔力封じも簡易的なもの。
最初から、逃げる意思はないと判断されているのかもしれない。
セフィラという魔族は、とても静かだった。
俯きもせず、抗議もせず、ただ周囲を見渡している。その視線は、人々の顔をなぞるように移動し、誰かを責めることも、助けを求めることもしない。
ただ一瞬、群衆の奥で動きを止めた。
カイと、目が合った。
気のせいだと振り払えるほど、ほんの一瞬。
だが、確かに。
そこにあったのは、恐怖ではない。
怒りでも、絶望でもなかった。
彼女自信の理解だ。
自分が、ここに置かれる理由を知っている目だった。
兵が檻の扉を開ける。
金属の軋む音が、広場に響く。その音は、不思議なほどよく通った。
「収容する」
命令は短い。
セフィラは、誰に促されるでもなく、自分から一歩二歩、檻の中に入った。
扉が閉じられる。
錠がかかる音が、やけに大きく聞こえた。
それを見届けてから、役人は巻物を閉じる。
「以上だ。祝祭は続けて構わない」
まるで、何事もなかったかのように。
人々は一瞬だけ戸惑い、それから、ゆっくりと元の空気に戻っていく。
いつのまにか話題は変わり、酒が注がれ、笑い声が戻る。檻は、景色の一部になる。
カイは動かなかった。
足は、地面に縫い止められたようだった。
自分は助けられる立場にある。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
名も、居場所も、彼は知っている。
手を伸ばせば、届く距離だ。
だが、伸ばさなかった。
それが、新たな世界の始まりだと分かっているから。




