第1話 均衡は、静かに回っている
街は、まだ祝祭の中にあった。
夜明けとともに冷えた空気の中、昨夜まで降り続いていた紙吹雪が、通りの石畳に踏み潰されている。
白や赤に染まった紙片は靴底に張り付き、歩くたびに湿った音を立てる。街には酒の匂いと、砂糖を焦がした甘い焼き菓子の香りが混ざり合い、朝の空気が重く残っている。
店先では、ようやく片付けが始まっていた。倒れた樽を起こし、破れた幕を畳み、割れた杯を拾い集める。
だが、笑い声は消えていない。
二日酔いの顔であっても、人々は勝利を語り、英雄の名を繰り返す。昨日まで胸を締めつけていた恐怖など、最初から存在しなかったかのように──
「勇者さまがいれば、もう安心だな!」
「魔王は討たれたも同然だ!!」
そんな声が、疑いを挟む余地もなく飛び交う。誰かが言えば、誰かが頷き、別の誰かが同じ言葉を繰り返す。安心とは、こうして連鎖していく。
『カイ・ルグレイン』は、その輪の外側を歩いていた。
人の流れに逆らうことはしない。
ただ、中心には近づかない。
自然と壁際を選び、視線を落とし、必要以上に誰とも目を合わせない。肩が触れそうになるたび、わずかに歩調をずらす。
祝う理由が分からないわけではなかった。
勝利がもたらす安堵も、夜を越えた解放感も、理解はできる……理解できるからこそ、混ざれなかったのだ。
ただ、そこに混ざる理由がなかった。
通りに掲げられた布旗が、朝の風に揺れる。
粗い縫い目が目立ち、端はまだ切り揃えられていない。
《魔王討伐》
そう大きく書かれた文字は、どれも新しい。急いで作られたことが一目で分かるほど、誇らしげであり、雑であった。
誰もがそれを見上げ、同じ言葉を口にする。声が重なり合うほど、言葉は軽くなり、意味だけが独り歩きを始める。
『勇者アルト・ファイン』の名も、何度も耳に入った。
遠くで誰かが彼の美しく強い剣技を語り、別の誰かが彼の優しさを称える。
戦場での話も、村での逸話も、少しずつ形を変えながら噂話として広がっていく。
誰もが彼を善だと信じている。
信じるに足る行いを、彼が積み重ねてきたのは事実だ。カイも、それを否定するつもりはなかった。
──ただ。
広場に差し掛かったとき、視線が自然と中央へ引き寄せられた。
演壇の影、まだ式典も始まっていない場所に、鉄製の檻が据えられている。装飾もなく、無骨な造りだ。中は空っぽ。だが、檻そのものよりも、周囲の光景が異様だった。
兵が配置されている。
とても数が多い。鎧は磨かれ、剣は鞘に収まっているが、どの手も柄から離れていない。視線は絶えず周囲を巡り、祝祭の空気とは明らかに噛み合っていなかった。
異様に感じるほど、多すぎる。
祭りの後片付けにしては、剣の数が明らかに過剰だった。
「……もうか、早いな」
言葉は、喉の奥からこぼれただけだった。誰に聞かせるでもない。だが、胸の内で、嫌な感覚が確かに形を持った。
経験則とでも呼ぶべきものが、カイの心で静かに警鐘を鳴らす。
歴史とは、いつも同じ形を取る。
勝利の直後に、整理が始まる。敵は滅び、次は『不純物』が選ばれる。
魔族か、思想か、血か。
理由はその都度変わる。だが、切り捨てられる側が選ばれるという結果だけは、変わらない。
カイは無意識にフードを深く被り直した。
布越しに、指先が耳の付け根に触れそうになり、すぐに引っ込める。
形を確かめる必要はない。見せなければいい……それだけで、ここでは生きていける。
周囲の誰も彼を見ていない。
祝祭の熱に浮かされた街では、視線を集めないことが、何よりの安全だった。
路地に足を踏み入れると、喧騒は一気に遠のいていく。
石壁に反響する足音が、やけに大きく聞こえる。湿った空気と、日の届かない冷えた影。祝祭と切り離されたその空間の奥で、一人のエルフが立っていた。
リシェルだ。
長い年月をそのまま背負ったような目をしている。
驚きはない。彼女は、いつもこうして現れる。必要な時にだけ。
「もう、始まるわ」
挨拶もなく、彼女は一言喋る。
「……何がだ?」
カイは立ち止まらない。足を止める理由も、彼女に向き直る理由もなかった。
歩きながら、短く返す。
「均衡の修復。いつものことよ」
その言葉で、カイの足が止まった。
振り返らないまま、低く息を吐く。
路地の冷たい空気が、肺の奥に沈む。
「そんな、早すぎる…」
「勝利が綺麗すぎたからよ」
リシェルの声は淡々としていた。
賛成でも反対でもない。
長く見続けてきた者が、ただ事実を述べているだけの響きだった。
遠く、広場の方角から鐘の音が一つ鳴った。
合図だ。人々はまだ祝っている。
だが、その裏で、次の役割が静かに、確実に用意されている。
カイは思う。
勇者が生まれ、魔王が倒れ、世界が救われる。
――その次に、必ず何が来るのかを。
彼は知っているのだ。
いや、知ってしまった。
だから、歩き出した。
祝祭から遠ざかるように。
だが、運命からは離れられないと分かったまま。




