エッセイ。それはある意味毒以前の問題。
正義感、というものが日本人に強く根付いているのだから、基本的に親や上の世代から悪い印象を持たれてはいけない。そういった極論に達した際、結局必要なことは良い子でい続けることだが。ただそれ以上に、そもそもその人間は悪人という印象をすぐに持ちやすいことである。つまり、自分の子であっても外見から生じる印象で考えるため、結果的にはそう悪いことをしていなくても悪人になりやすいということだ。徹底的に善意を表面化していく必要があるため、それが分からない人間にとっては苦痛でしかないかもしれない。しかも外見の問題であって行為の問題ではないのだ。ようするに、今まで日本人が考えて子供に与えることは良いか悪いかの両極端な思想なので、どんなに子供の方が悪いことをしていなくても、印象に悪意が存在する場合意味はない。そう、むしろ黙っていてはいけないのだ。エスカレートするだけだから。
そもそも、年齢的に自分が生まれた年代を考えると、親世代はバブル経済の恩恵を受けて子供を作ったことになる。
そういう意味ではそういう世代もまた非常に危険なのだ。就職氷河期といって被害者ぶっているやつもいるが、お前の親がまともだからまだ良いだろという反論はある。そう、基本的に一部の人間は自分のことしか知らないということを踏まえていないと変なエラーが出るだけなのだ。そういう意味では、ただ良い子という日本人が作ったファンタジーに乗っているしかないだろう。しかし問題は、一体どうやって外見で良い子を印象づけるかだが。大半の人間はできないかと思われ。問題は、彼らにとってはほとんどの人間は悪意に基づいているという認識になっている。分かりやすく言えば、自分の親は性善説ではなく性悪説に基づいて行動しているため、余程良い子でなければ生きていけないことになる。一部の人たちは余計な考えを張り巡らして思考するが、ただ身近に異常な人間が生きているという地獄はそもそも経験していないということだろう。人間は基本的に悪いのだから殴っていいという思想で行動しているため、一見正義感が強いと感じられてしまう。問題はそこなのだが、徹底して他人あるいは自分の子供が悪意を持っていると信じているゆえに、その人間のソーシャルは至って微妙なままなのだ。問題は、外見(部屋の状態も含む清潔どあい)で人格を判断していたとすれば大体予想はつくのだが。ただ問題はその子供の自己評価である。自分のことをそもそも、知的レベルが高い人間だと思ったことはない。