第5話|守ると誓った、その日から
王妃を失ったあと、わずか三歳の少女は“母の宮”での生活を続けていた。
主を失い、本来なら閉鎖されるはずだった王妃宮。その奥の三部屋だけを最低限の手直しで整え、王女アリシアの生活の場とした。
仮の王女宮。
いっそのこと、新たな宮を建てるかという話もあったが、時期尚早だと判断された。
なにより、まだ子どもだった彼女にとって、なじみのある場所を離れることは望ましくなかった。
そして父王もまた、この決定に異を唱えなかった。
あれから七年──
アリシアが十歳を迎える年。
仮宮は晴れて、正式に“王女の宮”と認められた。
祝いの食事。装飾の花々。
そして王女としての新たな生活の始まり。
だがその裏で、ひとりの兄は頭を抱えていた。
◇◇◇
「……護衛を、増やす?」
兄──エドワルドは、宮廷文官の進言に驚きを隠せなかった。
アリシアの生活空間が正式な王女宮とされたことで、従来よりも来訪者や使節の目に触れる機会が増える。
王族としての表向きの役割が生じる以上、護衛の体制も見直されるのは当然だった。
「ですが、第四の派遣人数にも限度がございます。夜間の警備にはいっそうの人員が必要とされますし……」
「昼間の来客応対の際にも、控えの近衛が必要です。仮宮時代のように、“兄の顔”だけでまかり通る、などということはできないのですよ」
側近たちの声は穏やかだったが、そこには王族としての“責任”を促す響きがあった。
「つまり──王女付きの近衛を、王家側から先に選んでおくべきだと?」
「いずれ公的な親衛隊の設置も検討されましょうが、今は過渡期です。
それまでは、殿下のご判断で先行して数名を配するという形が現実的かと」
肩にのしかかる重み。
アリシアの兄であると同時に、王太子でもある立場。
私的な感情だけでは動けないとわかっていても──それでも。
(……アリシアを守るのは、自分でありたかった)
だが、それは叶わない。
王太子が日常的に妹のもとに詰めることはできないし、ましてや四六時中そばにいるなど、あってはならないことだ。
(では、誰に任せる……?)
王女の側に、常時控えることを許される者。
信頼に足る存在。騎士としての実力を持ち、礼節をわきまえた人物。
──そんな人間が、果たしているのか
(……いない、はずだった。だが──)
一人だけ、思い当たる顔がある。
まだ若く、学園でも頭角を現したばかり。
実戦経験には乏しいが、何よりその誠実さと目の強さが忘れられなかった。
(……あいつなら、アリシアを見くびることはない。
だが、任せるには──まだ、早い)
静かに頭を振る。
現実に求められているのは、すぐにでも動ける近衛。
そうなると──次に候補に上がるのは、やはりあいつか。
「殿下。王女付き近衛候補の報告書がまとまりました」
差し出された名簿を受け取りながら、エドワルドは小さく息を吐く。
それは、妹のそばに“誰か”を置くという決断。
誰よりも近くにいた兄が、手放すという選択。
王女宮は、もう“仮”ではない。
妹の歩みは、すでに次の段階に入っている。
(──守るとは、任せることでもあるのだろうか)
淡い苦味とともに、彼は一枚の報告書を開いた。
そこには、見慣れた名前があった。
「……ゼノ、グラナート」
読み上げた名に、自分の声がかすかに揺れる。
自分より一歳上の青年。王立学園で顔を合わせることもしばしば。
そして、次期グラナート当主と目されている男。
剣の腕も、家柄も申し分ない。
学園での評判も穏やかな上級生というすこぶるいいもの。
だが、そこに迷いが生じるのは、何ゆえか。
(……本当に、こいつでいいのか?)
報告書の行を追いながら、エドワルドの指先がぴたりと止まった。
その横で、文官がそっと付け加える。
「殿下。グラナート家からの要請もあり、実地研修の一環としての配属が認められております。
王女殿下付きとしての任命は、あくまで限定的なもの。
しかし、王家との関係強化にも資するとの判断です」
つまり、政治的にも好手。
否定する理由は、どこにもない。
「──わかった。第一候補として、名簿に残しておけ」
それは、“信頼”より“現実”を選ぶという決断だった。
まだ手綱を手放せない兄が、政治と秩序の名の下に、
妹を“誰か”に委ねるということ。
そう告げたとき、自分の声がわずかに乾いていることに気づく。
けれど、それでもいい。
これが“王太子”としての役目ならば。
彼は黙ってペンを走らせた。
その文字は、にじみも、揺らぎもせず、ただまっすぐに名を記していた。