第3話|扉がひらく、そのまえに
その日、わたくしの世界は──少しだけ、大きくなった。
これまでは小さな部屋の中で暮らしていたのに、突然、世界が広がった気がした。
十歳になったから、というのは分かっている。
分かっていても、なんだか不思議で、くすぐったくて、わたくしは少しそわそわしていた。
「アリシア様、今日からはこちらのお部屋ですよ」
「そうなの?」
「ええ、今までのお部屋より広くなりましたね。お衣装も、ドレスがたくさん用意されていますよ」
その言葉に、わたくしの胸はときめいた。
誕生日に着せていただいた白いドレスも、とても素敵だった。
けれど──衣装棚に並ぶドレスたちは、それよりももっと華やかで、大人びていて、見ているだけで胸が高鳴る。
「こちらのスカート丈は、ふくらはぎくらいまでございます。動きやすく、お散歩にもぴったりです」
勧められたドレスに着替えながら、鏡の前ですまし顔をしてみる。
ほんの少し、お姉さんになったような気がした。
わたくしの新しいお部屋──
いいえ、ここはもう「新しい」なんて言い方をしてはいけないのかもしれない。
ここが、わたくしの宮。
正式に、“王女の宮”とされたこの場所が、これからのわたくしの居場所になるのだ。
まだ、少し不思議な気がする。
でも、嬉しくて、どこか誇らしくて──そして、ほんの少しだけ、寂しかった。
◇◇◇
翌日からは、驚くほどの速さで日々が動いていった。
今までも勉強はしていたし、王女としての作法も学んできたけれど──
「挨拶の手順が違います。こちらではまず、目線を合わせてから会釈を」
「アリシア様、このあとは侍従長との顔合わせがございます」
「午後からの衣装合わせでは、少し高さのある靴を試してみましょう」
新しい人々、新しい習慣、新しい言葉。
次から次へとやってくる“新しい”に、わたくしの頭はついていくのに必死だった。
侍女のマティルダがそばにいてくれなければ、とても全部は覚えきれなかっただろう。
──でも、がんばらなくては。
わたくしは、王女だから。
正式に、この宮を任されたからには、胸を張って立たなければならない。
だから、わたくしは笑う。
どんなときも、にこやかに。
「王女らしく」ふるまえるように。
……なのに。
「ふう……」
午後の予定がひとつ終わったところで、わたくしは小さく息を吐いた。
廊下に面した窓辺に立つと、外は春の陽射しが柔らかく降りそそいでいて、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
(お兄様、いまごろ何をしていらっしゃるのかしら)
わたくしのドレス姿を見て、「すっかり王女らしくなったな」と言ってくれた、お兄様の声がふいに思い出された。
そして、あの日にいただいた髪飾り──
(大事にしなくては)
手でそっと髪に触れる。あの白いユリのモチーフは、王家の象徴でもあり、わたくしにとっては“家族のしるし”でもある。
──ほんとうに、嬉しかった。
でも、やっぱり。
(ほんの少しだけ、寂しいですわ)
新しい部屋。
新しい服。
新しい予定。
新しい人。
それらのどれもが「王女としての自分」には必要なものだけれど──
わたくしの中の「アリシア」は、まだ追いつけていない気がしていた。
“王女らしく”ふるまうことと、“わたしらしく”いること。
その間で、心が少しだけ迷子になりそうになる。
「アリシア様」
「……マティルダ?」
振り向くと、いつの間にかマティルダが立っていた。
気配を消していたのか、まるで風のようにそこに現れていたのが、どこか可笑しくて──思わず微笑んでしまう。
「ご予定よりも少し早く終わったようでしたので、次のお支度は、もう少し後でも大丈夫です」
「そうなの。……ありがとう、マティルダ」
彼女は変わらず、微笑んでいた。
わたくしの世界が変わっても、この人だけは変わらない。
変わらず、そばにいてくれる人がいるというのは、なんて心強いのだろう。
(わたくし、がんばらなくては)
そう思えた。
──ここは、わたくしの場所。
これから先もきっと、迷うことはある。
わからないことも、失敗することもある。
だけど、立ち止まりながらでも進んでいく。
そのための、最初の一歩。
扉が、今日ひらいた。
わたくしの世界が、今日ひとつ広がった。
そのことを、きっとわたくしは、ずっと忘れない。