第1話|白き花の、ひとひらを
まだ夜の匂いが残る早朝。王太子エドワルドは、制服姿のまま仮宮へと向かっていた。
手に持つのは、小さな箱。
昨晩のうちに用意した、ただの贈り物──
けれど、今日という日だからこそ、彼女の手に渡したかった。
父が用意した祝いの食事も、王女としての衣装もある。それでも、彼だけの「贈り物」を、妹に。
◇◇◇
王太子としての公務と、王立学園での学業。
多忙を極める毎日の中で、ただ一つだけ彼が譲れなかったのが──妹の節目だった。
アリシアが十歳を迎える日。
それは、王家の一員として“子ども”から“王女”になる節目であり、彼にとっては“妹が少し遠くなる”日でもあった。
彼が選んだのは、王家の象徴である白ユリを模した髪飾り。
白と金、そして小さな花弁に繊細な細工が施されたそれは、王女としての装いにふさわしい。
けれど、彼がそれを選んだ理由は──ただひとつ。
「……アリシアに、似合うと思った」
それだけだった。
王族としての格式よりも、贈答品としての価値よりも、ただ妹に似合うものを。今日のドレスに、映えるものを。
“自分だけの目で選びたい”と、迷惑を承知で仕立て屋に押しかけたのは二日前。
贈り物として包ませた小箱を、そっと胸に抱えて仮宮へ向かう足取りは、珍しく軽いものだった。
◇◇◇
「こんな朝早くに、まったく……」
扉を開けた乳母が、開口一番にため息を漏らした。
王女の生活する場である以上、男子の立ち入りは禁止されているはず。
けれど兄は、当然のように敷居をまたいだ。
乳母が一度だけ眉をひそめる。
けれどすぐに小さくため息をつき、「またこの人は……」とでも言いたげに、何も言わずに微笑んだ。
「今日は、特別ですからね」
その一言に、兄は小さく頭を下げた。そして、エドワルドは苦笑しながら箱を持ち上げてみせた。
「顔を見て、渡したかったんだ」
「ご立派な王太子殿下が、まるで小さな頃の坊っちゃんに戻ったみたいです」
王太子である彼に、このような口をきいていいはずがない。
だが、彼女はアリシアが生まれたときからの乳母だ。
エドワルドにとっても、七歳のころから見守ってくれた相手。
王妃が亡くなったあと、彼女の存在は妹にとっても、家族にとっても代えがたいものだった。
「……アリシアは?」
「まだ夢の中です。お姫さま、昨日の夜はずっと浮かれていましたから」
その一言に、エドワルドは少しだけ目を細める。
自分が届けた小さな箱が、彼女の喜びの一部であればと願いながら。
「まだ眠ってるのか……直接渡したかったけど、時間もないし無理だな。
ばあやが渡しておいてくれるかな?」
諦めを込めた言葉。そろそろ自分の宮に戻らなくてはならない時間。
護衛には話を通しているが、朝の準備にやってくる近侍は姿が見えないことで肝をつぶすだろう。
そう思って踵を返しかけた、そのとき──
「……お兄様?」
二人のやり取りと軽い物音に気づいたのだろう。
寝室の奥から、ワンピース姿のアリシアが顔を覗かせた。
金色の髪が跳ねたまま、でもその目はぱっちりと開いている。
「おはよう、アリシア。早起きだな」
「ううん、今、起きたところ」
そう言って、アリシアはぱたぱたと小走りに駆け寄ってくる。
その姿はまだ幼さの残る子どもなのに、彼女が今日から“王女”になるのだと思うと、不思議と感慨深かった。
アリシアはまだ着替え前。
正式なドレスは夜の祝いのために用意されている。
今の彼女は、上品なワンピース姿のまま──
まだ“子ども”らしさを残していた。
けれど──
「これ、わたくしに?」
小箱を差し出すと、彼女は目を輝かせて受け取った。
そっと蓋を開け、中から白ユリの髪飾りを取り出したアリシアは、まるで宝物を抱えるようにそれを見つめる。
「きれい……今日のドレスに合わせてくれたの?」
「……そうだ。似合うと思って、選んだ」
兄の言葉に、アリシアは頬を染めながら、髪飾りを自分の頭にあてがってみせた。
「どう? 王女らしく見える?」
「……ああ、間違いなく」
その笑顔を見た瞬間、来てよかったと心の底から思った。
朝の時間を削ったことも、公務の準備が遅れることも──
すべて、意味があると思えた。