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風の歌が聴こえる

作者: 蒼原悠


 


 夜、窓を開ける。

 吹き込んだ涼風がカーテンを揺らす。

 夜の匂いが鼻腔を満たす。山の緑に抱かれているような優しい匂いだ。暗闇の中でしか生きられない僕が、たったひとつ触れることのできる生命の輝き。


「イサナ様は今日も元気か」


 つぶやいて、カーテンを束ねる。夜風の中を微かな歌が漂っている。弦楽器のいちばん低い音よりも重く、鈍く、音階を聴き取るのがやっとの歌声だ。

 寝静まった街並みの彼方を光の海獣が泳いでいる。

 傍目には、そのようにしか表現できない。そもそも海獣(クジラ)の姿をしているわけでもない。連なる家々の頭上を、それは燐光をまといながらゆっくりと漂っている。その姿は海獣というより雲、あるいは顕微鏡で覗いた微生物のようだ。それでも、この街の人々は彼をイサナ様と呼ぶ。

 べつに何かをしてくれるわけじゃない。ただ、そこに漂っているだけ。僕が生まれて十六年が経ち、街の景色はずいぶん変わった。その遠景には変わらずイサナ様がいる。


「あなたは……」


 窓からすこし身を乗り出して、イサナ様を見上げる。その巨体が何かを思い出したように蠢いて、おぼろな光が明滅する。


「毎晩、誰のために歌っているんだ」


 イサナ様が僕を見下ろした、気がした。けれども応答を示すことなく、また姿を変えながら家の頭上を通り過ぎていった。人間の言葉を聴き取るのはやはり難しいようだ。落胆しながら僕はベッドに引っ込んで、そっと窓を閉めた。窓ガラスはまだぴりぴりと振動している。

 イサナ様の歌は誰にも聴き取れない。

 その低すぎる「声」の音域は、人間の可聴領域を優に下回っている。

 それなのに何故か僕だけが、イサナ様の歌を聴くことができる。




 山と海に囲まれた平野にひろがる地方都市。

 最近は雨が少ない。中心部のビル群は今日も砂煙で霞んでいる。

 朝一番の街路を歩きながら、行き交う車の前照灯に目を細めた。造園業者の軽トラックが道端に停まり、二、三人の男たちが出てきて「最近多いんだよな」と文句を言いながらチェーンソーを取り出した。彼らの前には、根元から折れた街路樹の(むくろ)が横たわっていた。

 高校に着くと、まだ半分以上の生徒が登校していなかった。


「事故で電車が止まってるってよ」

「誰に聞いたんだ」

「ニュースになってたぞ。飛び込み自殺だったらしい」


 大あくびをしながら前列の同級生はスマートフォンをいじって、ほらよ、と画面を僕の眼前に押し付けた。まばゆいので光量を落としてほしいと伝えると、彼は「ほんと面倒くせぇよなトオルは」とぶつくさ言った。少し、僕の不満を代弁してくれたようでもあった。

 日除け眼鏡越しに文字を追う。

 ずいぶん明るさが落ちていたが、これでもまだ眩しい。

 僕には『無彩症候群』という持病がある。早い話、生まれつき肌の色素が極度に薄い。それでどうなるのかといえば、第一には肌や髪が真っ白になる。第二には弱視になる。そして第三には、皮膚が紫外線に耐えられない。登下校の際には大きな帽子を目深に被り、できる限り光の影響を避けねばならない。


「こういうの多すぎじゃね、最近。俺には自殺を図りたいやつの気持ちは分かんねーや。生きてりゃいつかいいことがあるって、漠然と思えたりするもんだろ」

「そりゃ、マスミに比べればね……」

「俺が異常者みたいな言い方すんなよ。傷つくだろ」


 けらけらと笑いながら彼──マスミはスマホを取り返した。命知らずな彼は高校生にもかかわらず煙草を吸い、酒を飲み、親の車を持ち出して無断で山道を走り回ったりしているようだ。その刹那的な生き様に、幼馴染ながらに胃の底が冷える。彼にとって命の価値はそんなものなのかもしれない。

 命の重みは、一定じゃない。

 生きているだけで迷惑のかかる「無彩」の命は、健常者に比べてどれほど軽いのだろうか。

 眼鏡の鼻当てが汗に濡れて滑った。窓の外を伺ったマスミが「お」とつぶやいた。遅れてきた同級生たちの姿が見えたのかと思ったが、違ったらしい。


「イサナ様が見える」

「よく見えるね、昼間なのに」

「トオルの目じゃ無理だろうな」


 この気遣いのない台詞がマスミの欠点と長所を兼ねている。うんと目を細めると、まばゆい空の一角に燐光が点々と浮かんでいる。イサナ様は夜間にだけ姿を現すのではない。ただし、それと見える見えないは別の問題だ。教室の喧騒のおかげで“歌”も聴こえない。


「イサナ様はどう思ってんのかね。どんどん退屈になっていくこの街をさ」


 頬杖をつきながらマスミは空を見上げている。

 いっとき目をそらして、また視線を戻すとイサナ様の光は消えていた。遅れてきた同級生たちが教室になだれ込み、狭い箱の中は蒸し暑く、息苦しくなる。まばゆい陽光でちりちりと皮膚が痛むが、ここでは帽子をかぶれない。かぶれば馬鹿にされ、悪気のないいじめに晒される。

 マスミや同級生には想像もつかないのだろう。

 世の中には死んでやり直したい人間が大勢いる。

 生まれながらに理不尽を抱え、誰にも聴こえない声で泣いている人が。

 嘆息して、眼鏡を拭いて、先生の話に耳を傾けた。不審な変死事件が相次いでいます、帰り道にはくれぐれも気を付けて──。幼児を教え諭すような先生の言葉と、みんなの笑い飛ばす声が耳の中でやかましく反響した。無彩症候群が僕にもたらした唯一の“長所”は、この不必要に鋭敏な聴覚だけだった。




 このごろイサナ様は元気がない。

 帰宅途中に立ち寄ったコンビニで、店主と老婆がそんな話を交わしていた。

 以前よりも身にまとう輝きが弱々しい。ありゃ、近いうちに何かが起こりそうだ。もう起こっているんじゃないんですか。昨日は水族館で水槽一個分の魚が大量死した。街路樹もバタバタ枯死してるし、なんだか気持ち悪いよねぇ──。

 聞き流すには惜しい話だったが、僕の応対をした店員はさっさと会計を済ませてしまった。また帽子を目深に被り、店の外へ出た。空はひりひりするほど晴れ、足元の草花は萎れたように首を垂れている。黄色く汚れた街並みが遠くの方に霞んでいる。瑞々しい春の香りは、そこにはない。

 イサナ様が何者なのかは誰も知らない。

 もしも、あの歌が歌ではなく、誰にも届くことのない悲鳴やSOSであったなら。あの巨大な“守り神”を失ったとき、この街はどうなるのか。そんなことは誰にも分からないし、考えても仕方のないことだった。

 その晩、市役所勤務の父は食卓を囲みながら、ずっと仕事の話ばかりしていた。どうもおかしい、今月だけで築堤崩壊や街路の陥没事故が十五件も起きている──。実務にあたっている父の懸念は、老婆の世間話よりも切迫していた。


「どれもこれも定期的にメンテナンスは続けているんだ。こんなことはあり得ない。インフラの老朽化は急に進行するわけじゃない」

「私の周りもみんな言ってるわ。この街、何かが急におかしくなり始めてるって。川の臭いも淀んでいるし、野菜の生育もずいぶん悪いみたい」

「個人の不幸や設備損壊で済んでいるうちはまだいいさ。もしも、このおかしな流れが、大きな自然災害にでも波及したら……」


 父も、母も、不安げな顔で僕を伺った。二人の言わんとすることを言外に察した僕は、俯いてスプーンを口へ運んだ。光に弱い僕のために、居間の照明は戦時中の灯火管制のようになっている。まっとうな暮らしを送ることのできない僕は、まっとうな生活環境の約束されない場所では足枷になる。


「……僕に、どこか遠くへ疎開でもしろって?」

「そうは言ってないさ。何かが起こると決まったわけでもないしな。ただ、トオルは身体が弱いからな。何かが起きてから避難の方法を考えるのじゃ後手に回りかねない」

「現実問題、ねぇ? トオルの身を寄せられる場所は限られているし……」


 口ごもりながら視線を交わして、両親は話を打ち切ってしまった。耳をすませば消防車のサイレンが甲高く響いている。数時間前から街の中心部では大火事が起こっていて、いまだ鎮火の気配は見えないという。緊迫した現場の状況をテレビが映している。もうもうと立ち上る黒煙はイサナ様の身の丈よりも高く、威圧的だった。




 その晩、イサナ様の歌は聴こえなかった。

 煙の臭いがひどい。消防はまだ例の大火事と闘っているようだ。窓辺にもたれながら、僕は組んだ腕に顔を埋めた。眉を曇らせた両親の面影が脳裏をよぎった。人並みの生き方を選ぶことのできない僕に、両親は良くしてくれていると思う。ただ、そのぶん余分に抱え込んだ負荷が、近頃はずいぶん顔に出ている。

 好きこのんで真っ白な肌に生まれたわけじゃない。

 眼鏡の下の弱視も、そのぶん鋭い聴覚も。


「……なんで、僕だけ?」


 あふれた悲嘆が喉を通って声に変わる。この塞ぎ切った心の内を、歌い上げて発散できたらどんなにいいだろうと思う。誰にも聴かれることのない、人類の可聴域を外れた歌。そう──たとえばイサナ様の歌のような。

 はたとため息をついた、そのとき。

 冴えた視界の彼方にイサナ様が見えた。

 立ち込めた大火事の煙が、その姿を断続的に隠している。イサナ様の姿は見たこともないほど遠くの方にある。市街地を囲む田園地帯を抜け、里山の峰も越え、長い巨体は遠くの山脈へと掛かりつつある。茫然とたたずむ僕の耳に、聞き慣れた「歌」が届き始めた。海獣の鳴き声を収録して、うんと長く引き伸ばしたような重低音だった。

 イサナ様が苦しんでいる。

 なぜだか僕には、その歌が悲鳴に聴こえた。


「──よぉ!」


 不意に窓の下から声がかかった。

 砂利を蹴散らしながら軽自動車が自宅前に停まった。窓から身を乗り出して僕の方を眺めていたのはマスミだった。幼馴染の彼は僕の住まいを知っている。僕は頭を抱えた。


「また親のクルマなんか持ち出して……」

「おう。他人の車を盗むほどワルじゃねぇからな」

「無免許の時点で十分ワルなんだよ。捕まったらどうするつもりなんだ」

「警察は火事の対応でバタバタしてるぜ。要は捕まらなきゃいいのよ」


 自信たっぷりにマスミは胸を張った。

 彼が車を降りて背伸びをするのを、僕は呆れ果てながら眺めていた。隣家の垣根越しに、彼の目にも遠ざかるイサナ様が見えているはずだった。


「あれ、追いかけてみねぇ?」


 マスミの言葉が一瞬、知らない言語のように響いた。


「昼間に見たときよりずいぶん遠くなってる。あいつ、この街を出てゆくぞ。俺もさっき気づいて、慌てて車を出してきたんだ」

「ドライブのつもりじゃなかったのか」

「お前、あいつの声が聴こえるんだろ。あいつは何を歌ってる?」

「……分からないけど、ひどく苦しそうにしてる」

「そんな気がしたんだ。俺にはここ数日、あいつがのたうち回ってるように見えてた」


 含みのある言い方をしながら、マスミは門扉に手をかけた。


「来いよ、トオル。あいつの歌を聴きに行こう。たまには夜風も悪くないぞ」


 命知らずな幼馴染の提案に、不覚にも、心の芯がふるりと震えた。制止すべきだと頭の隅では分かっていながら、僕は慌ただしく上着を羽織り、忍び足で階段を降りた。玄関のドアを開けると、「あーあ」とマスミが白い歯を見せて笑った。これでお前も共犯な、といわんばかりの不敵な笑顔に僕は目を伏せた。親に見つかればきっと引き止められ、叱られるだろう。それでもイサナ様を追いかけねばならない気がした。それが、彼の歌にずっと耳を傾けていた僕の責務じゃないかと思った。


「乗れよ。お前、助手席な」

「道なんて分からないけど」

「適当に走るから心配すんな。でも寝るなよ、俺も眠くなるし」


 マスミがハンドルを握る。ガソリンをふかし、車は急発進する。夜空へ溶け込みつつあるイサナ様の幻影に僕は目を細めた。吹き下ろす風の波間に、あの苦しげな歌が響き続けていた。




 生まれてこのかた、この街を出たことはない。日差しを避けて外出する方法には限りがあるし、あいにく僕の両親は息子を夜中のドライブに連れ出すような人達ではなかった。点々と流れゆくナトリウムランプの橙を、助手席にもたれながらぼんやりと見つめる。可視化された時間の速さに、漠然とした不安が込み上げる。


「……いつも、こんな風に走り回ってるんだ?」

「おう」

「事故とか故障とか怖くないのか。もしも困ったことがあって、誰も助けに来てくれなかったら……」


 尋ね重ねると、マスミは少しだけ遠くを見た。鬱蒼と積み上がった山の輪郭が、藍色の空に滲んでいる。その彼方を、イサナ様が雲のように越えてゆく。


「まぁ、その時はその時かもな。考えたこともねーや。むしろ俺が事故で死んだら、親にとっては厄介払いになるだろうしな」

「…………」

「見ろよ。あいつの尻尾に追いつきそうだ」


 遮るようにマスミがアクセルを踏み込む。唸るエンジン音に引きずられ、僕は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。片側二車線の県道を車は疾走する。その行く手に、イサナ様の巨体のいちばん後ろのあたりが見えてくる。こうしてみると彼はやっぱりクジラのようだった。星屑の海をもがくように泳ぐ老齢の海獣だ。

 道端の水田が金色に輝いている。

 夜風にそよぐそれが、たわわに実った稲の穂だと気づいた。


「おいおい、何事だよ。まだ夏前だぞ」


 ハンドルを握るマスミの声が心なしか引きつっている。濁流のように流れ去ってゆく景色に、僕は必死に目を凝らした。陽の光を待ちわびる向日葵のようだった稲穂が、テールランプの赤い光のなかで次々に萎れてゆくのが見えた。

 イサナ様の苦しげな歌声はなおも響き続けている。その声に寄り添うように、道端の木々が伸び、葉を茂らせ、そして通り過ぎた途端に枯れ始める。ここ数日間で見聞きした街の“異常”が、少しくたびれた僕の脳裏で瞬いた。魚の大量死、相次ぐ倒木、インフラの急速な老朽化や不審死の連続──。何の説明もつかないが、それら全てがイサナ様の下で起きていることは本当に偶然なのか。それともマスミに話せば「考えすぎだ」と笑われるだろうか。


「向きを変えたぞ、あいつ」


 マスミの声が大きくなった。軽自動車は県道を外れ、灯りのない広域農道へと踏み込んでゆく。速度計の数字が七〇を越え、八〇を越えた。ヘッドライトの照らす先には暗闇しかない。窓を開けると草いきれの匂いが強くなった。青々とした真夏の匂いだ。

 振り払えないほどの闇のなかで、無数の命が息づいている。

 なぜか、そのことに無性に胸が躍った。

 生きることは僕にとって当たり前のことではなかった。生まれつきの「無彩」は紫外線に弱く、出生直後から命の危機に晒される。虚弱体質が祟って風邪をこじらせ、肺炎になりかけたこともある。当たり前に肌の色をもつ人々の間で、肌色のない僕だけが当然に社会から逸脱していた。太陽の下で生きられない原罪を僕に背負わせた「神様」がどこかにいるなら、その顔を、一度でいいから拝んでみたい。まともな人生を僕に返してほしい。──行き場のない僕の恨み言を、笑って聞いてくれたのは後にも先にもマスミだけだった。良くも悪くも彼だけが、要配慮者の僕に一切の配慮をしなかった。


「掴まってろよ」


 言うが早いか、彼はハンドルを大きく切った。不意に傾いだイサナ様の巨体が、山のなかへ抱かれるように沈んでゆく。もう空を泳ぐ気力もないと言わんばかりに、歌は途切れ途切れに聞こえている。




 未舗装の山道をためらいなく車は突き進む。

 つくづく乱暴な運転に僕は顔をしかめる。同時に、ハンドルを握るのがマスミでなければここまでたどり着けなかったな、と思う。はしゃぎ気味に「冒険映画みたいだな」と歯を見せながら、マスミはまたも急なハンドル捌きで車を滑らせた。


「酔ってきたら言えよ」

「……今更だよ」


 げんなりと言い返しながら、吐き気のないのに自分でも驚く。これもまたイサナ様の影響下にあることの賜物なのだろうか。


「俺、こういう運転しかできねーから」


 マスミがアクセルを踏み込む。命を投げ出さんばかりに車は加速する。


「忘れられるんだよな、一瞬だけ。酒もタバコも夜風もぜんぶ退屈しのぎの麻薬みたいなもんだ。特別でも何でもない退屈な俺が、ほんのいっときだけ特別になれる」

「……いいもんじゃないよ、特別なんて」

「お前はずっと生きづらそうだもんな」


 ないものねだりなのかもな、お互い。そうマスミはつぶやいた。シャツの袖から覗く、彼の浅黒い肌はひどく痩せている。幼馴染の腐れ縁とはいえ、なぜ彼がこうして気まぐれに僕を友達扱いしてくれるのか、僕はいまだに訊けずにいる。このまま訊かずにいるのが、互いのためになるような気もしている。

 特別であることは幸せなのか、それとも不幸なのか、惨めさばかりを享受してきた僕には判断がつかない。特別であることよりも孤独であることに、人は痛みを覚えるのかもしれない。もしもマスミや同級生や両親が「無彩」であったなら、僕は暗闇の中でも笑いながら暮らしていた。分かり合える相手を持たないことは、きっと最大の不幸だ。

 峠を越えると視界が開けた。

 獣道同然の砂利道の行く手に、山々が窪んでいる。直径一キロにも満たない、ごく小さな盆地のような空間に、今、まさにイサナ様の光が沈み込むように舞い降りたところだった。蛍のように明滅する燐光に、僕も、マスミも視線を奪われた。転がり落ちるように急坂を降りながら「古墳っぽいな」とマスミはつぶやいた。


「古墳?」

「知らねぇけど。少なくとも自然の丘じゃないぞ。まるで何かの目印みたいだ」


 燐光の暗がりに照らされた地面は、確かに一目で異質と分かる、不自然に直線的な輪郭をしている。恐る恐る車を停め、草地の中に降り立った。風が凪いで、汗が肌着にまとわる。イサナ様はじっと息をひそめている。脈を打つ心臓のように、燐光が明滅を繰り返すばかりだ。

 草いきれの匂いが強くなる。

 青々と茂った木々は、僕を異物のような目で見ない。

 あなたに会いに来ました。

 目を閉じて、黙って語りかけてみる。

 あなたの歌をずっと聴いていました。僕の言葉はあなたに伝わらないかもしれないけれど、このところ様子がおかしいのを案じて、彼のクルマでここまで来たのです。あなたの正体をいたずらに暴きたいのではない。ただ、あなたの歌を少しでも理解したいだけなんです。

 不意に風が湧き起こった。つむじ風に顔を撫ぜられ、「うわ」とマスミがすっとんきょうな声を上げた。目を開くとイサナ様が僕を見つめていた。どこに目がついているのかも分からなかったが、そうしている確信があった。燐光の瞬きが激しくなった。


 ──おまえにこれが聴こえるのか。


 ごうと渦を巻く風の中で、声が聴こえた。驚いたように上ずっていた。マスミの耳には吹きすさぶ嵐の音にしか聴こえなかったかもしれない。

 そうです、と僕は叫び返す。

 言葉を発しているのではないから会話感は薄い。


 ──ヒトの子がわたしの「歌」を聴きつけてきたのは初めてだ。長く生きていると、こんなこともあるものなのだな。


 そういって、イサナ様はふたたび目を閉じる。荒れた風が鋭くなって、マスミが古墳と称した丘の上へ集まってゆく。身体が悪いのですか。そう尋ねると燐光のまたたきが鈍り、イサナ様は頭を振った。


 ──疲れたのだ。代替わりを為してずいぶん時が経った。この光のちからも衰えた。もはや、わたしには役目が務まらぬ。


 イサナ様の「言葉」は言語の体を為してはいない。その代わり、その含意を心のなかへ直接的に植え付けられるような感覚がある。そうか、やっぱりイサナ様は守り神のような存在だったのだと、彼の言葉を僕は自分なりに解釈した。いや、守り神というのは人類にとって好意的すぎる解釈なのかもしれない。万物の生と死、誕生と終焉をつかさどる霊長。神というより(ことわり)と呼ぶべき存在。

 あなたは死ぬのですか。

 問いかけるとイサナ様は全身を震わせた。


 ──いっとき、消える。しかし全く消え去るのではない。おまえたちが眠りを取り、身体を休めるのと同じことをするのだ。万物に始まりと終わりがあるように、私の身体も永遠にはもたぬ。ゆえに身を滅ぼし、灰の中で再び息を宿す。わたしが去って世の理は乱れているだろうが、じき、すべて元のすがたに戻る。


 そうですか、と僕は肩の力を抜いた。イサナ様の都合で世界が変わり果てるようなことはないと、いますぐ戻って父や、母や、街の人々に伝えたい心持ちだった。ここへ来る道々で目にした木々の異常生育や、急速に萎れてゆく作物たちも、安息地を求めてゆくイサナ様が思いがけず起こした変異に過ぎなかったのだろう。

 夜が明ければ、すべては元に戻る。

 僕には目映(まばゆ)すぎる世界が(よみがえ)る。

 イサナ様がふたたび目を見開いた。


 ──おまえはそれで良いのか。


 質問の意図を汲みきれず、僕は沈黙した。吹き寄せた風が身体の周りをまわって、それはまるでイサナ様に抱き締められたような感覚だった。あるいは、命の火を握りしめられていたのか。


 ──美しい身体だ。ひどく白く、そして脆い。


 悼むようにイサナ様はつぶやく。


 ──ヒトの優れた智慧をもってしても、この肌色では長くは生きられまい。おまえは本来、もっと早くわたしのもとへ来るべき魂だった。元に戻れば、おまえは変わらぬ「無彩」のままだ。ありふれた肌の色が、ありふれた生が欲しいとは思わぬのか。


 イサナ様の身体に明滅する燐光が、確かな関心をもって僕を照らしている。そのとき不意に、燐光の正体が眼光であることに気づいた。ヒトだけではない、哺乳類にすら限らない無数の生物が、イサナ様の身体に宿っている。「無彩」を発症するのが人類だけではないことは広く知られている。動物でも、植物でも、ごく稀に色素を持たない「無彩」として出生するものがある。そして彼らは例外なく、その目立ちすぎる色のために短命に終わる。

 風の向こうでマスミが途切れ途切れに「何を話してんだよ」と叫んでいる。

 広げた手のひらに燐光が舞い降りて、青白い肌をあわく照らし出す。


 ──いまなら、おまえを「無彩」の呪いから解き放ってやれる。


 イサナ様の畳み掛けが優しい。


 ──平時のわたしは個々の魂にまで気を配ってやれぬ。だが、おまえには特別に機会をやろう。私の歌に耳を傾け、こうして追いかけてきたことへの労いと感謝のしるしだ。


 胸を衝かれて僕は固まった。

 当たり前の人肌を手に入れたいと、星にまで願った幼い日々のことを思い出した。

 渡りに船としか言いようのない提案のはずだった。困り果てた両親の顔が、扱いづらそうな友人たちの顔が脳裏をよぎった。首を縦に振ろうと思いきって顔を上げて──けれども振れなかった。

 あなたの歌が聴こえなくなるなら、いい。

 そう答えてしまった。

 イサナ様の燐光がざわりと揺れた。風の中で鳥肌が立った。僕の下した選択に、誰よりも困惑したのは僕自身だった。けれども深呼吸をして、前を見据える。あなたの歌をもっと聴いていたいのだと言葉を重ねる。その声は、もう震えを帯びてはいなかった。

 だって、あなたもずっと一人だったんでしょう?

 僕がそうであったように。

 いいや、きっと、もっと寂しい世界で。

 憧れの光を見上げながら問い直したその言葉は、イサナ様の胸にはつまらない憐憫のようにしか響かなかったかもしれない。それでも彼はそっと口角を崩して、そうか、と微笑んだようだった。


 ──ならば、わたしは大人しく先祖のもとに還るとしよう。おまえも気を付けて帰ることだ。帰るべき場所がどこにあるのか、おまえはちゃんと分かっているようだからな。


 ふっ、と燐光のフィラメントが切れて、あたりは闇に包まれる。風は凪ぎ、草木は静まり返り、常闇のなかでマスミが草を踏みしめる音だけが響いた。スマートフォンのライトを点灯した彼が、ようやく僕を見つけて駆け寄ってきた。


「……お前が目立つ身体でよかったよ」

「褒めてるつもり?」

「イサナ様はどうなったんだ。一体アレと何の話をしてた?」

「ありきたりの身体に変えてやってもいいぞ、って提案されたんだ」


 マスミの笑顔が強張った。上から下まで真っ白な僕の肌を、彼はライトで探傷するように照らし出した。断ったのかよ、と彼は変な声でつぶやいた。


「イサナ様はもうじき生まれ変わるらしい。そうしたらぜんぶ元通りだ。街の不自然な出来事も収まるし、マスミも、僕も、元の生活に戻るだけ」

「お前が望んだのか」

「もしも僕が凡人に戻ったら、マスミが悲しむだろうと思ってさ」


 そう答えると、マスミ様は目を剥いて、「なんだそりゃ」と言ってしばらく笑った。


「お前、バカだな。せっかくのチャンスをそんなことでフイにしたのかよ!」


 なぜ笑うのかと問い詰めることはせず、僕も黙って笑い返した。暗闇に浮かぶマスミの面持ちはひどく安らかで、なんだかそれで僕まで満足してしまった。ひとしきり笑ってからマスミはライトを掲げ、キーを押した。ドアが解錠され、寝静まっていた車のハザードランプが光る。寝静まった草木は心なしか(しお)れている。


「さっさとここを出よう。イサナ様の安眠を妨げたら罰が当たるかもしれねぇ」

「散々エンジン吹かしておいて何を今さら……」

「山道だったんだから仕方ねーだろ。馬力が足んねぇのよ、軽だから」


 一足先に運転席へ乗り込みながら、ふっとマスミは口元を緩めた。


「明日が来るのが待ち遠しいな。きっと、いい天気だ」


 僕もそっと笑って、助手席に腰を下ろした。耳を澄ませてもイサナ様の寝息は聴こえない。もう生まれ変わりの段階に入ってしまったのかもしれない、そうであってほしいと思った。マスミがエンジンキーを一気に回し、山中は騒音に包まれた。




 街の「異変」はわずか一晩で終息した。

 立ち枯れ同然だった樹木は息を吹き返し、劣化したインフラの損壊も鳴りを潜めた。大火事は一晩かけて鎮圧され、焼け跡の瓦礫の撤去が粛々と進められている。

 僕だけが、灰よりも透き通った「無彩」のまま。色彩を取り戻してゆく街の匂いに、今日も鼻を研ぎ澄ませる。時計の針が零時を回っても、マスミの乗り回す軽自動車の音は近づいてこない。今日は僕を誘わないつもりのようだ。奔放な彼を制御できるものなど、この世には誰もいない。頼むから事故死なんてするなよ。届きはしない独り言を、夜風に乗せてみる。

 イサナ様を見送った夜のことは、あまり積極的に思い出したくない。帰宅して早々、玄関で両親に叱り飛ばされた。どれだけ心配したと思っているのかと嘆く母や、見つかりましたと親戚に電話をかけて回る父を前にして、良心が痛まなかったといえば噓になる。

 おかげで僕は今日も生きている。

 生かされている、というのが実情だろうか。

 僕だけじゃない。あの荘重な「歌」の下では、みんな等しく命を与えられる側だ。

 耳を澄ませば、今日もイサナ様の歌が聴こえる。弦楽器のいちばん低い音を数倍に引き延ばしたような、風の音にも似た歌声。姿は見えないから、今日は家の裏手のほうを泳いでいるのかもしれなかった。僕はなんだかひどく優しい気持ちになって、しばらく目を閉じていた。

 あの晩に見聞きしたことは僕とマスミの秘密だ。

 マスミは僕らの会話を聴いていないから、本当に分かっているのは僕だけ。

 そのことに特別、優越感を覚えたりはしない。


「……聴いてますよ」


 目を閉じたまま、祈るように独り言を口にした。イサナ様の「歌」は万物を祝福する祈りの声なのかなと、そのとき何気なく思った。その存在そのものが万物をつかさどる(ことわり)であるなら、イサナ様にできることは多分、祈ることだけなのじゃないかと考えた。神様はいつだって究極の孤独のなかで生きている。その息吹に、僕だけが耳を傾けている。コンプレックスの源でしかなかった「無彩」に、それだけで大きな意味が添えられる。

 この白く脆い肌をいたわりながら、明日も、明後日も、僕は生きてゆく。

 父や母やマスミがいる限り。

 そして、この街に風のような加護がある限り。

 吹き込んだ涼風がカーテンを揺らす。そっと窓を閉めて、ベッドに潜り込む。見えない頭上を光の海獣が横切ってゆく。その柔らかな声が、子守り歌のように遠く遠く聴こえていた。






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