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史実の海陵王

海陵王と紇石烈良弼

作者: 鈴木 強

 暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。

 今回は『金史』巻八十八 列伝二十六の紇石烈良弼伝を見てみましょう。

 前回の蔡松年は、海陵王の若い頃から仲が良かっただけでなく、宋の鈔引法を復活させるなど有能な人物でした。海陵王は人材登用にも積極的で、『帰潜志』巻十二の「弁亡」は、金朝の歴史を略述し何故滅亡に至ったのかを論じていますが、海陵王の治世をこのように評しています。

 「海陵王は淫乱にして横暴ではあったが、頭脳明晰で大志あり、官制と法律を定めて共に見るべきところがある。また人材を抜擢して混沌とした天下を統一しようとした。成功には至らなかったとはいえ、国を強くした。」

 『帰潜志』は金代の書なので「淫乱にして横暴」という但し書きは必要だったのでしょう。

 海陵王に登用された人物として『金史』巻八十八 列伝二十六の紇石烈良弼伝を見てみましょう。



 海陵王が即位すると、紇石烈良弼は吏部郎中に昇進し、右司郎中に改められ、臨時の秘書少監の地位で宋主歳元使となった。

 このころ納合椿年は参知政事で、自身より才能が優れているとして紇石烈良弼を推挙したため、刑部尚書に登用されて、良弼との名を賜った。父の喪に服し、本官を以って復帰した。

 あるとき海陵王は「左丞相の張浩は実務に練達しているが、あまり仕事に熱心ではない。刑部尚書の紇石烈良弼は言行端正で、一切おもねらない。」と言い、納合椿年の方を向いてこう言った。

 「卿は良い人材を推薦した。常人の多くが自分に勝る者を嫉妬するが、卿は自分に勝る者を推挙した。卿こそ人並み外れた賢人である。」

 紇石烈良弼は侍衛親軍馬歩軍都指揮使に改められた。

 紇石烈良弼は綺麗な言葉を使うので、海陵王は臣下に詔諭する際、必ず紇石烈良弼に伝達させた。聞いた者は誰もが心揺さぶられたため、常に召されて言葉を掛けられた。

 その年のうちに参知政事となり、尚書右丞に昇進して、佩刀のまま宮中に出入りすることを許された。その後、左丞に転じた。

 海陵王が宋に遠征すると、紇石烈良弼は諌めたが聞かれず、右領軍大都督に任命された。

 海陵王が淮南に在って、紇石烈良弼と監軍の徒単貞に、上京と遼右を慰撫して動揺を鎮めるよう命じた。その後、兵士たちは行軍中に次々と離脱して北に逃げ帰った。

 世宗が遼陽で即位すると、紇石烈良弼は汴京に戻った。海陵王が死ぬと、世宗は紇石烈良弼を南京留守兼開封尹に任じた。


 世宗時代については割愛しますが、『金史』の評にこうあります。


 紇石烈良弼は聡明にして忠義心があり、決断力があって、その言論と見識は人の意表を突いた。低い身分から宰相の位に至り、朝夕細かく心を配って国に尽くした。深謀遠慮あり、人材を推挙しても、常に不十分であると考えていた。家に在っては質素に暮らし、昔からの知人が貧乏になると援助し、人と交際して長期に及ぶと益々敬意を払った。宰相の地位に在ること二十年、太平の世に導いて、賢相と呼ばれた。

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