第1話
真冬の冷たい空気が両頬を刺す。ビルの窓がものすごい速さで下から上へと視界をかすめていった.
ぼんやりと眺めていると、もうすぐ地面に着く。
湊は両手のスラスターを勢いよく噴射して、着地体勢に入った.
落下の衝撃を全身のばねを使って吸収する。普通であれば即死は免れない高さからの着地を、けが一つ無く成功させた。
背中に装備があることを確認して辺りを見回す。
「あの、公安局の方ですよね?」
湊に気づいた警官が、こちらに向かって歩み寄ってきた。
「お待ちしていました。シブヤ区管警察です。」
警官はそう言いながら、IDを提示する。湊はその様子を確認し、軽く頷いた。
「早速ですが、報告させていただきます。午後11時12分頃、無人の大型貨物車両と乗用車1台が関わる衝突事故が発生しました。」
「ただし、大型貨物車の制御システムに故障があったようで、その後貨物車は再起動し、現在は環状9号線のオオクボインター付近を走行中です」
公安局が呼ばれたのは、その暴走車両の対処を一任したいという理由だろう。
「なるほど。それは、事故自体も制御システムの故障が原因の可能性はありますか?」
「運行会社に問い合わせたところ、そのようです。会社からの制御コマンドも受け付けていないとのことです。」
「わかりました。その暴走車両を止めればいいんですね?」
「はい、お願いします。現在、車両の位置は追跡してありますので、戦術リンクにアクセスしてください。」
「了解しました。」
湊はうなずき、耳に触れてARデバイスを起動する。視界にマップが表示され、貨物車のアイコンが光って移動ルートが示された。
警官は「では」と言い、湊を警察車両に案内しようとする。車で暴走車両を追跡し、飛び移って制御システムをシャットダウンする手筈だろう。
現実的な作戦だが…
「それには及びません。ここから先は、公安局にお任せいただいて大丈夫です」
予想外だったのだろう、警官は湊の顔をじっと見つめた。しかし、時間が迫っている状況の中、浮かんだ言葉を飲み込む。
「承知しました。何かあれば協力しますので!」
「ありがとうございます。」
警官が敬礼すると、湊も礼を返す。
そのまま立ち去ろうとしたが、湊は思い立って呼び止めた。
「あ、そうだ。すみません、これを」
そう言って、着ていたコートを渡す。警察官は怪訝な表情を浮かべるが湊は気に留めなかった。
そして、
「それでは、行ってきます」
瞬間、右足に力を込める。一瞬で加速、瞬く間に姿が消え去った。
「え?……」
取り残された警察官は状況を飲み込めずにただ呆然と立ち尽くす。
しんしんと雪の降る中、彼が全てを理解するまでしばらくの時間がかかった。
景色が飛ぶように過ぎていく。耳元の端末で確認すると、時速300キロは超えていた。
「スピード違反だな」
一人でつぶやきながら、スラスターを使ってさらに加速する。本来なら速度超過で捕まるところだが、今は非常事態。任務遂行中だ。多少のことは多めに見てもらえるだろう。
道路案内板に表示された距離を確認しながら、到着までの時間を計算する。目的の暴走車両までは、あと1分もかからずに到着できそうだ。
「あれだ」
しばらくして、目的の大型貨物車が見えてきた。車はふらつきながら車両通行帯にまたがり、明らかに危険な走行をしていた。その後ろには、警察車両が2台ぴったりと張り付いている。
湊は速度を落とし、警察車両に追いつくと、窓をノックした。警察官は目を見開いて驚いた様子だったが、すぐに窓を開けた。
「公安局の秋月です。今から当該車両を対処しますので、離れていてください。」
「対処……? わかりました。」
警察官は少し怪訝そうだったが、指示通りスピードを落としてくれる。
湊はもう一台にも事情を伝え、徐々に警察車両は距離を取っていった。暴走車両の周りには、車がいなくなる。
湊は端末から地図を呼び出して確認する。この先数百メートルは直線が続くようだ。暴走車両を止めるには、申し分のない状況だ。
安全を確認した後、湊は一気に車に追いつき、背中に挿していた電子ナイフを引き抜く。特殊合金でできた刀身が鈍い光を放った。
一足で接近し、標的を見定めてナイフを逆手に持つ。
――次の瞬間、体を捻る勢いで後ろの両タイヤを切り裂いた。
大きな亀裂が入ったタイヤが破断し、ホイールが路面を擦って火花を散らす。車はガリガリと音を立てながら、徐々にその速度を落としていく。
湊はすばやく立ち回り、残りのタイヤも切り裂いて車両をパンクさせた。
すさまじい音と火花を散らしながら減速する車両。強引な手法ではあったが、道路に爪痕を残しつつ、カーブに差し掛かる直前でぎりぎり停止した。
「何とか上手くいったな」
湊は後輪の壊れた貨物車両に目をやる。摩擦で赤熱したタイヤからは、未だに煙が燻っていた。
しばらくして先程別れた警察車両がやって来る。
「お疲れ様です!」
無事停止した貨物車両を見て、彼らの表情には安堵が浮かんでいた。
「いえ、このくらいならお安い御用です」
「そうですか。やはり公安局の特殊部隊はさすがですね」
警官は笑みを浮かべる。そう言ってもらえると湊も仕事のし甲斐があると言うものだ。
湊はベルトにつけた懐中時計を確かめる。迎えが来る時間だ。
「では俺はこれで戻ります」
「わかりました。あとは私たちに任せてください。お疲れ様でした」
そう言って警官は敬礼をする。湊も敬礼を返し、近場の側壁から飛び降りた。
「それに、ぶっ飛んでるなあ。最近の公安局はーーー」
残された警官が湊の飛び降りた場所を見ながらポツリと漏らす。
誰の耳にも届かない小さなつぶやきは、雪が降りしきる空気の中、静かに吸い込まれていった。
* * *
日本国の首都、東京メガロポリス。その中心部には長大な塔がそびえている。オービタル・ピナクル、「軌道に届く塔」と呼ばれる電波塔だ。
上層部には宇宙港や空港、ルーフと呼ばれる屋根の下ーー、中層部には政府の官庁舎が集まっている。防衛省直轄の治安維持組織、公安局もそんなビル群の一画にあった。
「おつかれ、湊」
公安局に戻り、発着ポートのロッカーに装備品を片付けていると、背後から馴染みの声がした。この声の主は、一人しかいない。
湊は気だるげに振り向く。
「何だ、蓮」
「いやぁ、相変わらずつれないなー?」
そっけない態度にも構わず、肩をバシバシ叩いてくるのは、長身で明るい茶色の髪をした青年・月野木蓮。
湊と同じ19歳で、見た目も言動も軽いが、これでも公安局・特殊制圧部隊の保安官であり、湊の同期だ。
「お前の距離感が近すぎるんだよ」
毎度のことなので、半ば諦めつつ適当にあしらう。
「お前が帰宅したと思ったら、また戻ってきたって聞いてな。ちょっと見に来たんだ。
う~~、あいかわらずさみぃ~。中はいろうぜ。ロッカールーム、屋内に移転する予算つかないかな~」
「まあ、まだ無理だろ」
ビルの中ほどに設けられた発着ポートは、ビル風と往来する輸送ボットの風圧で年中吹き曝しだ。
更衣室は屋内にあるのだが、主要武装はここで脱着する決まりとなっているため、冬場は特に寒い。
電子ナイフをしまい、ロッカーの扉を閉める。二人はそのまま宿直室へ向かって歩き出した。
「ところで湊、また緊急招集か?」
「ああ。でも今回は近場だったし、御縁さんが車で送ってくれたからな」
「そっか~。でも、戻ってきたらそのまま残業なんて大変だな?」
「まあな」
確かに残業だが、この職場ではよくあることだ。治安維持が仕事である以上、事件や事故はいつどこで起こるかわからない。
湊や蓮がこの仕事を始めて3カ月。すでにこの生活には慣れつつあった。
「ま、わりかし楽しいし、その分給料も悪くないからいいけどさ~」
蓮が軽い調子で言う。
確かに、給料は悪くない。働かなくても最低限の生活はできる時代だが、最低限も最低限だった。「豊かさ」を求めるなら、労働による賃金は重要だ。
公安局の特殊部隊は、政府の治安維持組織としてさまざまな任務を担っている。事故や事件に対し、ロボットや人工知能では対応できない状況でも作戦行動を実施し、時には命の危険を伴う。
その分の報酬は与えられるのだ。
宿直室の前に着くと、やけに騒がしい。あわただしく出入りする保安官たちで自動ドアは開きっぱなしだった。
「お、出動かな? じゃ、俺は行ってくるわ」
蓮は軽く敬礼のまねをしてみせる。
蓮は遅番だ。何らかの事件か事故で出動要請がかかったのだろう。
湊はちらりと時計を見る。すでに深夜0時を回っていた。
「俺は帰って寝る」
「ああ、それなんだけどさ。局長がさっき『報告だけは済ませてこい』ってさ」
「早くそれを言えよ!」
にやりと笑う蓮を横目に、湊は「蓮の仕事も長引けばいいのに」と思いながら、足早に執務室へと向かった。
「すみません。遅れました」
執務室に入ると、局長は誰かと話していたようだ。湊の姿を認めると、通話を切断する。
「いや、問題ない。それより、夜分にご苦労だったな」
公安局局長、九重正宗。頬に古い傷跡を持つ初老の男で、厳格かつ一切の妥協を許さない。
しかし、その一方で他者を思いやる優しさも持ち合わせていることを、10の頃から世話になっていた湊はよく知っていた。
「いえ、特に支障はありませんでした」
「そうか。最近は公安局の業務も拡大していてな。人手が足りない状況だ。今後もしばらくは無理をさせるかもしれない」
「そうですか。俺としては、食っていけるならいくらでも働きますが」
ブラックまっしぐらな言葉に、局長は苦笑する。
「そう言うな。もちろん、局としても仕事の成果にはきちんと報いるつもりだ。組織とはそうあるべきだ」
その言葉の裏には、「昔とは違うのだぞ」という思いが滲んでいた。
湊が生まれ育った地上階、ゼン・ゾーンのスラムでは、上層から落ちてくるわずかな物資を奪い合い、時には殺し合い、他者を蹴落とすことで生き延びるのが当たり前だった。
そんな過去を持つ湊にとって、「仕事をすれば報酬が与えられる」という環境はいまだに信じがたかった。
「とはいえ、早めに適任者を見つけておかねばな。防衛省に適材がいないか、八雲に当たってみよう」
そう言いながら、局長は革張りの椅子に身を沈め、軽く眉間を揉む。
湊としては、いつ家に帰っているのかもわからないこの男の肩代わりを、一番先に見つけるべきだと思った。
「それで、今回の暴走事故に事件性はなさそうか?」
「おそらくありません。暴走車両が物理的に操作された形跡や、誰かが乗り降りした痕跡は見当たりませんでした」
湊は、他に気づいた点も簡潔に報告する。
「そうか。なら問題ないな。マキナ・アイの分析とも一致する。この会話をそのまま証言としてマキナ・アイに登録するが、いいな?」
「構いません」
湊が頷くのを確認すると、局長は手元の端末を操作した。
ホログラムが立ち上がって、電子的な音声が流れ始める。そこには、例の事故の詳細とともに、湊の顔がくるくる回っていた。
『事象登録。シブヤ行政区管内、首都高環状9号線で発生した車両暴走事故について。
対応にあたった公安局ーー特殊戦略部隊保安官、秋月湊と公安局局長、九重正宗の声紋一致を確認。発生要因についての会話記録をアップロードします。
記録の正確性を担保するため、関係省庁から収集した他の情報と照合し――』
流れ続けるマキナ・アイの音声を聞きながら、湊は考える。この仕事を始めて三カ月、一度としてマキナ・アイの判断が間違っていたことはない。
もし判断が食い違ったなら、間違っているのは確実に自分の方だ。
――マキナ・アイ。
それは日本国における国防基幹システムであり、平和の監視者とも呼ぶべき巨大な人工知能である。
第三次世界大戦を経て、人類は自らの愚かさを悟った。私利私欲による武力の行使を厳しく禁じ、武器の製造や使用はAIによって一元管理されることとなったのだ。
もし治安維持以上の目的で武力を行使すれば、それを上回る力でもって平和が「執行」される。
そのため、警察や公安局の治安維持業務も「マキナ・アイ」によって監視され、当局が収集した情報はすべてこのAIの知るところとなる。
犯罪や戦争につながる芽を、発生の段階で摘み取るため、基幹AIたる「マキナ・アイ」は常に監視の目を光らせているのだ。もしこのシステムを無視すれば――。
かつて、先輩から聞いた「無視した者の末路」を思い出し、湊は思わず天井を仰いだ。
想像するのは自由だが、基幹AIは平和への反旗を決して見逃さない。たとえ心の中で考えただけでも、どのような形で察知されるかわからない。
人工知能の目と耳は、ありとあらゆる場所に存在しているのだから。
これ以上考えるのはやめよう――そう思い、湊は意識を切り替えた。ちょうどその頃、マキナ・アイへの登録が完了したらしく、局長が端末の接続を切る。
「これで今日の業務は本当に終わりだが……そういえば、これ、忘れ物みたいだぞ」
局長は立ち上がり、備え付けのクローゼットからコートを取り出した。湊のものだ。
現場で警察官に預け、そのまま忘れていたものを、あとで届けてもらったのだろう。
「あ、すみません。完全に忘れていました」
「まあ、お前も疲れているだろう。今日はもう帰って休め」
コートを受け取り、軽く礼をする。
「局長もご自愛ください」
そう言って執務室を後にする湊を見送りながら、局長は静かに微笑んだ。