表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/77

7:天国みたい

 着心地の良いバスローブで客間に戻り、1人ソファでぼうっとしていた。


 客間は品よく洗練された作りで、視線の先にあるベッドもとても広い。あのベッドだけで、伯爵家のタウンハウスで私が寝起きしていた狭い物置くらいのスペースがある気がする。


 湯上がりに出してもらった果実水をゆっくり味わいながら、今日起こった出来事を思い返した。どれも現実味がなくて、実は本当に夢かもしれない。そう思ってこっそりと腕をつねってみるが、普通に痛かった。


 そんな風に呑気にしていたが、ふと去り際にマリアさんが言った「このままお待ちください」という言葉が引っかかった。

 祝賀会帰りで食事は終えていると思われているはず。湯浴みは終わった。私は今、何を待っているのだろう。


 すっと血の気が引いた。

 私は名目上妻としてここに来て、先程すごく丁寧に身を清めてもらった。魔術師の家系は特に、血の継承を重要視する。本気で妻の役割を私に求めるのであれば、子をなすことは私の最重要任務と言っても過言ではない。


 動揺のあまりソファから立ち上がって、意味もなく部屋を歩く。

 いや、棒切れのような今の私に、あの魔公爵がそんな気を起こすだろうか。でも、もし。もし、責任を果たせと言われたら?


 息も苦しくなるほどの威圧感や、嗜虐的な笑みを思い出す。どうしようもなく怖くて、体が震えてくる。どう扱っても、どこからも文句はこない。そう。何をされても受け入れることしか私は許されない。

 恐怖で視界が滲んだ。逃げ場はない。助けてくれる人もいない。まるで死刑の宣告を待つかのように、立ち竦む。


「どう、、しよう……」


 意味のない言葉が口から漏れると同時に、コンコンとおざなりなノックの音が響いた。


「入るぞ」


 そう言って、返事も待たずに扉を開けたのは他でもない魔公爵で、びくりと体が大きく震えた。赤の双眸と目が合う。


「何をそんなところで突っ立っている?」


 そう訝しげに問うてきた魔公爵は、ラフな部屋着に着替えていた。バクバクとうるさいほどに心臓が音を立てる。


「まぁ、いい。こちらへこい」


 そう言った魔公爵は、先程まで私が呑気に果実水を味わっていたソファにどかりと腰を下ろした。そして、動かない私の方を見て少し目を細める。


「聞こえなかったか?」


 その言葉に、弾かれたようにソファへ向かう。近くまで来て、でも隣に座る勇気は持てず、考えた末に魔公爵の足元へ膝をついた。

 それを見た魔公爵が、呆れたように息を吐く。


「君はほとほと床が好きなようだな」


 そう言って、猫の子でも呼ぶように自分の隣をトントンと指で叩いた。

 隣に座れということかと、ビクビクしながらそっとその隣に腰を下ろす。ソファに座らせるということは、何か話でもするのだろうか。恐る恐る顔を上げて隣を見ると、赤の双眸がなんだか面倒くさそうにこちらを見下ろしていた。


 気乗りのしなさそうなその表情に、懸念していた妻の役目云々は盛大な勘違いだったのかもしれないと、少しだけ気が軽くなる。けれど上向いた気持ちを叩き落とすように、冷酷な声が端的に命じた。


「あちらを向いて、上を脱げ」


 瞬時に体がこわばる。だが即座に応じなかった私に、冷たい追い打ちがかかる。


「早くしろ。僕も暇じゃないんだ」


 あちらを向いて? 私の顔さえ見たくないということだろうか。本当はこんな見窄らしい女を視界にも収めたくないというのなら、なぜ妻にするなんて口にしたのだろう。

 泣きそうになりながら魔公爵に背を向けるように座り直し、ローブの紐に手をかける。震える手でなんとか紐を緩め、肩からローブを落とした。


「……っ」


 するとすぐに後ろから触れられる気配がして、体がこわばる。ローブから腕すら抜いていない状態だが、魔公爵は気にすることなく髪に触れ、私の背中を露わにするようにそれを私の体の前に流した。


 目を背けたくなるような背中の跡。それを見られたことに泣きそうになる。


 こんな傷のある女はいらないと捨てられてしまうだろうか。帰る場所もなく、お金も人脈も何もない私は、放り出されれば飢えて死ぬか娼館にいくくらいしか道はない。

 でも娼館ですら、こんな傷跡を持つ骨ばった醜い女などいらないと言うのではないのだろうか。自分の無価値さに、涙が滲んでくる。


 そんな私に構うことなく、魔公爵は私の背に触れた。一瞬びくりと体が跳ねてしまう。火傷の跡をなぞるように、ゆっくりとその手が肌を滑った。息を殺して、ただ時が過ぎるのを待つ。


 永遠にも思える時間。けれどきっと、それはほんの僅かのことだったのだろう。

 すっとその手が離れた。


「終わりだ」


 おわ、り?

 終わり、とは? 私はいらないと、そういう、こと? 醜すぎて捨てられるの?

 魔公爵が立ち上がる気配に、思わずそちらを向いた。


「あ、あの……」

「こちらを向くな!」


 ピシャリと遮られて、ばっと振り向きかけた体を戻す。


「っ、君には慎みというものがないのか!」


 怒らせたことに血の気が引くか、続いた言葉に混乱する。慎み? 慎みとは……?


 疑問が浮かぶが、ふと自分が上半身をはだけたままだった事に気がついて、慌ててローブを着直した。


 で、でも髪を前側に流していたから、見えては、ほとんど見えてはいないはず。

 というか、脱げと言ったのは魔公爵なのに、私はなぜ怒られているのだろうか。そんなに怒るほど貧相だったのだろうか。

 わけも分からず泣きそうになっていると、魔公爵はふんと鼻を鳴らした。


「僕を誘惑したいなら、その不健康極まりない貧相な身体を少しはまともにするんだね」


 そういうと、そのままツカツカと歩いて部屋から出て行ってしまう。パタリと扉が閉じられる音が響くのを、ただ呆然と聞いた。


「や、やっぱり貧相だったんだわ……」


 少しして。魔公爵の言葉がじわじわと心に効いてくる。


 十二分に自覚していることでも、やはり他人から指摘されると精神的に辛いものがある。見る気もなくすほど貧相で醜い女だと突きつけられて、思わず項垂れた。


 けれどもういらないとも、出て行けとも言われなかった。

 少なくともまだ、この屋敷の隅っこには置いてもらえるらしい。いっそ使用人として働かせてもらえたらいいのに。どのような形であれ、私にはもうあの恐ろしい魔公爵の慈悲に縋るしか道はないのだ。


 この先を思って不安に蹲っていると、また扉をノックする音が響いた。ハッとして扉を見る。魔公爵が戻ってきたかと息を殺すが、響いたのはマリアさんの穏やかな声だった。


「奥様、よろしいですか?」

「は、はい……」


 静かに扉が開いて、なにやら腕に持ったマリアさんが入ってくる。


「こんなお時間ですが、祝賀会でほとんど食事を召し上がっていないのではと伺いまして。念の為、消化の良いスープをお持ちいたしました」

「…………え?」

「お召し上がりになりますか?」


 思いがけず差し出された食べ物を、呆然と見る。正直驚きや緊張で空腹感も掻き消えていた。それに湯気の立つ食事を与えられたことが、なんだか信じられなくて言葉が出てこない。

 それをどう受け取ったのだろうか。マリアさんはスープを下げることなく、私の前のテーブルに置いてくれた。


「もし気が向かれたらお召し上がりくださいね。本日はこれで下がらせていただきますが、何か御用がございましたらそちらにあるベルでお呼びください。夜の当番のものが伺いに参ります」

「は、はい。ありがとう、ございました」

「では、お休みなさいませ」


 優しい笑顔を残して、マリアさんが扉から出ていく。それを見送っていると、ふいにスープから漂ってくる良い香りが鼻腔をくすぐった。


 それを意識した途端、心も体も急に自分が空腹であったことを思い出す。目の前のスープを見る。大きめに切られた具材が透明感を残したスープに浸る様は、さすが公爵家の料理人が作ったものというべきか、美しくさえ感じた。


 震える手を伸ばし、スプーンを手にとった。


 熱々で湯気の立つスープを掬う。恐る恐る口に含むと、野菜やお肉の優しい味わいがフワリと口内に満ちて、すっと喉を通っていく。次いで野菜にスプーンを入れてみると、ほとんど抵抗なく切れるほどに柔らかく煮込まれていた。スープと一緒に口に入れると、野菜の甘みがじわりと口に広がった。


 あぁ、美味しい。

 ポツリと、涙が膝に落ちた。

 涙が出るほど、美味しい。私にと差し出された、温かくてとても優しい味が、ゆっくりと身体を巡っていく。

 スープを掬う手が止まらなくなって、泣きながら口へと運んだ。

 両親がいた頃はなんの疑問もなく受け取っていた温かくて美味しい食事。それが当たり前ではないのだと思い知らされた4年間。


 ひもじさは、惨めさだと知った。


 身も心も疲れ果てた夜。冷め切った僅かな残り物を口に運ぶ、あのなんとも言えない情けなさを、何度味わっただろうか。

 空腹に耐えかねて飲んだ水の、なんと冷たく空虚だったことか。満たされない侘しさと虚しさはいつもそばにあった。


 今。泣きながら食べる食事は、そんな冷え切った身体を温かさで包んでくれる。悪夢のようだと思った1日の終わりが、こんなに幸せだなんて思わなかった。

 ほんの少しも残したくなくて、最後の最後までスープを飲み干す。きっとそんなに多い量ではなかったはずだけれど、長くまともに食事を取れていなかった私には十分過ぎるほどだった。


 ぐしぐしと行儀悪くローブの袖口で涙を拭っていると、ふいに抗いがたい眠気が襲ってくる。身も心も疲れていたところにお腹が満たされて、気を抜くとすぐにでも寝入ってしまいそうだ。

 ふらふらしながらなんとか灯を落として、ベッドへと向かう。身を滑り込ませたベッドはふかふかでとても気持ちがいい。


 まるで、天国みたい。

 そう思ったのを最後に、意識が途切れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ