72:ダンス
使用人の皆さんとありがとうとよろしくを言い合って、夜会に行くだけなのにまるで嫁にでも行くようなしんみりとした空気になってしまった。
こうして支えてくれた皆のためにも、ファンセル家に相応しい妻になりたい。深い感謝と決意と幸せを噛み締めて部屋を出ると、アーネスト様もちょうど自室のドアから姿を見せた。
そして一瞬で、湿っぽい気分が私の中から吹き飛んだ。
「あ……っ」
きっちり身支度を整えたアーネスト様は、言葉を奪われるほどの圧倒的麗しさでそこにいる。
釘付けになった視線の先。その細身でしなやかなその体躯を包むのは、貴族が正式な場で身につける膝丈のドレスコートだった。見るからに上質なブラックの生地は繊細な金糸の刺繍が施され、上品な落ち着きと華やかさを同時に演出している。ちらりと覗く裏地は私のドレスに合わせた濃いめのブルーグレーで、興奮せずにはいられない。
王妃陛下主催の夜会のため祝賀会の時よりもお堅めの雰囲気だけれど、それがアーネスト様の端正な美貌をより一層引き立てていて、大変、大変素晴らしかった。
「と、とってもお美しいです!!」
思わず賞賛の声を上げて歩み寄ったけれど、当の本人からは珍妙な生き物を見るかのような視線をもらってしまった。
「……それは普通、僕が君に言うべきセリフでは?」
「え、と……」
確かに、着飾った女性を褒めるのは一種のマナーのようなものだ。つまり大人しくしていたら、私も礼儀としてお褒めの言葉をいただけたかもしれない。それに思い至ると、声を上げたのは失敗だったという気がしてくる。
どうにかやり直せないかと考えを巡らせていると、アーネスト様がふっと微笑み混じりの吐息をこぼした。思わず見上げた赤の双眸は悪戯っぽくきらめいていて、勝手に鼓動が速くなる。
その細い指先が私の顎を掬い、形の良い唇が蠱惑的な笑みを浮かべた。
「なるほど。美女に化けるという宣言は嘘ではなかったようだね? 君も美しいよ、セリーナ」
「……え?」
そして紡がれた、ストレートな褒め言葉。一瞬思考が停止するけれど、理解が追いついた途端、ぶわっと顔が真っ赤になった。
ま、まさかこんな風に真っ直ぐ褒めてもらえるなんて思ってもいなかった。嬉しいけど同じくらい恥ずかしいようなむず痒いような居た堪れないような逃げ出したいような気になってくる。
全身を赤く染めたまま固まった私に、アーネスト様は満足そうな表情を浮かべた。
「首まで真っ赤だな」
なんだか以前にも、同じようなことを言われた気がする。いつだったかと動きが鈍くなった頭で考えて、アーネスト様にアップスタイルの髪型を見せた日が思い浮かんだ。
今日の私もあの時と同じ、ふんわりアップにしてもらっている。その決め手はもちろん、あの時アーネスト様にキスしてもらえたからだ。
もしかしてアーネスト様は、私がこの髪型を選んだ理由まで分かっているのだろうか。なんだか余計に顔が熱ってきた。
「……っ」
固まったままの私を、どこか面白そうに眺めるアーネスト様。この状況から穏便に抜け出すにはどうしたらいいのだろう。もう降参するので、誰か助けて欲しい。
そう切実に祈り始めた私を救ったのは、コホンというエーゼルのわざとらしい咳払いだった。
「旦那様。そろそろお時間では」
その言葉に、ようやく私を観察していたアーネスト様の視線が外れて、ほっと息をついた。
「そうだな」
そう言ったアーネスト様の視線が再び私を捉えて、そして肩を抱き寄せられる。まさかこのまま転移するのだろうか。先ほどまでとは別の焦りを感じていると、アーネスト様は平然と周りの使用人達を見渡した。
「いってくる」
「いってらっしゃいませ」
「えっ」
まだ絶対顔が赤いままなのにという私の焦りをよそに、私以外の人達は平然とお出かけの挨拶を交わしている。そして少し待ってくださいと言う間もなく、ふわりとした浮遊感に包まれてしまったのだった。
アーネスト様が転移した先は、前も来たことのある書斎のような場所だった。
聞くとここは王宮内に作られたナイシェルト殿下の書斎で、安全面から基本的に転移を禁止されている王家のプライベートエリアの中でも、例外的にアーネスト様が転移を許されている場所だそうだ。
幸い誰もいなかったそこで気持ちを落ち着けていると、少しして王家の使いの方が来られて、陛下方のいらっしゃる部屋まで案内される。今日は私のお披露目も兼ねられるので、陛下方と一緒に行動する予定なのだ。
そもそもこの夜会は、新王陛下が王位を継いで少し落ち着いたタイミングで、アーネスト様への信頼を示すために企画されたものらしい。それが私との婚約で予定が変わり、そして天人の瞳の件が判明して、夜会の趣旨がそのお披露目へと変わったのだと王妃陛下が笑いながら教えてくださった。
そして今。
到着した会場で、私は緊張の真っ只中にいた。
高位貴族が集められたこの夜会は、祝賀会以上に厳かかつ絢爛な雰囲気で、参加者の装いも振舞いも洗練されている。そんな方々の頂点に立つ王家に、優遇される立場。なんて恐ろしい。まるで別世界に来てしまったかのような錯覚に陥る。
堂々と初めのお言葉を述べられている王妃陛下の後ろ姿を見ながら、意識が遠のきそうだった。
「大丈夫か?」
小声で気遣ってくれるアーネスト様になんとか頷き返していると、いよいよ王妃陛下に名を呼ばれた。アーネスト様にエスコートされながら陛下の隣へと歩を進め、最大限の注意を払って一礼する。
これほど多くの視線を集めるなんて人生初めてで、声が震えないようにするので精一杯だ。
「王妃陛下より御紹介を賜りましたセリーナと申します。陛下のお言葉にもございました通り、まだ魔術に触れて日の浅い身ではございますが、王家の皆様方そして婚約者であるファンセル魔公爵のお力を借り、この瞳をもって国に貢献すべく精進しております。至らぬ点も多くございますが、かけていただいた期待に応えるべく精一杯努めて参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます」
無事暗記していた言葉を言い切った私に、会場内から大きな拍手が送られる。ほっと胸を撫で下ろしていると、王妃陛下の朗らかな声が再度響き渡った。
「期待しているわよ、セリーナ。あなたのことは、ファンセルが必ず支えるでしょう。ナイシェルトが結んだあなた達の縁を、わたくしは心から祝福しているわ。さぁせっかくだもの、2人のダンスから楽しい夜を始めましょう」
その言葉を受けて、あらかじめ開けられていたスペースにアーネスト様が私を誘う。
涼やかな横顔からは少しの緊張も見受けられなくて、ガチガチに緊張している私とは大違いだ。初めてだというのもあるけれど、何年経ったところでアーネスト様のように平然としていられる気もしない。
そんなことを思ううちにその場に着き、アーネスト様と向かいあう。私の表情を見たアーネスト様が、安心させるように微笑んだ。
「多少躓いたところで僕がフォローする。そんなに心配するな」
「は、はい」
「僕だけを見ていればいい」
その言葉と共に引き寄せられて、曲が始まる。
王妃陛下にファーストダンスとして勧められたのは、この国で昔から踊られている伝統的なワルツだった。スローテンポで難易度は高くないけれど、だからこそ失敗したらすぐわかってしまうのではという緊張もある。
でもそんな私の不安は、あっさり追いやられた。
私をくるりと回転させたアーネスト様の瞳に、悪戯っぽい色が混じる。それと同時に、複雑な魔術式が一瞬で展開された。
はっと息を呑む。
突如視界に現れたのは、会場内をきらきらと輝きながら舞い落ちる、無数の光の花びらだった。まるで夢と見紛う幻想的な光景に、会場内からどっと歓声があがる。
なんて美しい魔術だろう。
現実離れした光景に足が止まりそうになるけれど、アーネスト様が卒なくカバーしてくれてなんとかダンスへと意識を戻した。
舞い散る光の花吹雪の中を、二人で踊る。
アーネスト様の表情には優しい笑みが浮かんでいて、釣られるように私の顔にも笑みが浮かんだ。私を縛り付けていた緊張の糸が、ゆっくりと解けていく。
「すごく、美しいです。本当に驚きました」
「喜んでくれたようで何より。結構ギリギリだったが、完成が間に合ってよかった」
「もしかしてこの魔術、アーネスト様が開発されたのですか? 本当に素敵で、感動してしまいます」
「まぁ、魔力効率は酷いものだけどね。この一曲の間保たせるので精一杯だ。いずれ君に改良してもらおう」
そんな会話をするうちに、重く体にのしかかっていた緊張はすっかりと消えてしまった。
周りの目も気にならなくなって、こうして夢のように美しい会場でアーネスト様とダンスをしていることが純粋に楽しくなってくる。私を見つめる赤の双眸も同じ感情を湛えていて、その先に自分がいることが幸せでならない。
夢のような時間はあっという間に流れ、やがて曲が終わると共に、降り注いでいた光の花びらもふっと掻き消えた。最後に一礼した時に送られた拍手はなかなか鳴り止まず、少しだけ照れ臭かった。




