67:先王陛下
アーネスト様に伴われて入室したのは、私も何度か使わせてもらった書斎だった。
広い部屋ではあるけれど、大量の本棚を埋め尽くすこれまた大量の本の存在感が半端ではなくて、初めて足を踏み入れた時は圧倒されたものだ。その蔵書量ゆえ、目当ての本を見つけるのも割と大変だったりする。
その書斎には入り口あたりに執務用のデスク、横になって休めそうな大きめのソファやテーブルもあった。アーネスト様と共にソファに腰を下ろして、スプレイグの人に言われたことを簡単に話す。
あの邂逅自体が短時間であったし、まとめてみると短い話だ。さほど時間もかからず話終えたところでエーゼルが飲み物を持ってきてくれたので、ありがたく手を伸ばす。
伝えるべきことを伝えて満足した私とは対照的に、アーネスト様はどことなく疲れたような表情で手に持ったコーヒーをじっと眺めていた。
「君の思うように、今朝の新聞もスプレイグの者が一枚噛んでいる可能性は否めないな。婚約自体を不当なものとして、君を『助け出す』という功績を作りたいのだろう。王家が明確に立場を示したことで、明らかに僕に有利な情勢となりつつある今、流れを変えるには天人の瞳の所有者を味方につけるしかないと考えても不思議ではない」
「私に対しても、アーネスト様が私を選んだのは天人の瞳を持つからだ、と強調するような話し方をしていました。それに私が心を痛めて、アーネスト様のそばを離れればいいと思われているようです」
その言葉を信じることはないけれど、お前の価値はそれだけだと突きつけられているようでちょっと悲しくなる。でも大多数の人から見て、天人の瞳を除いた私の価値なんてゼロだろう。
だからこそ、あの記事の信憑性が増してしまうのかもしれない。
「スプレイグの後継は、僕とは対照的にかなり女性に人気だ。マイナスのイメージが強い僕より自分が選ばれる、その自信があったのかもしれない」
どこか苦々しげに言われた言葉に、不思議な思いが込み上げた。
私からすると、アーネスト様は身分も性格も容姿もこの上ない。きっと何事もなく普通にファンセル家の後継として日々を送っていたならば、スプレイグ家の彼より女性に人気だったはずだ。
ミリアーナから聞いたけれど、魔術師は魔術の巧みさや魔力の多さもモテる要素になるらしい。つまりアーネスト様にはモテる要素しかない。
そのうえ新王陛下方は、先王陛下とは異なりアーネスト様に肩入れしているのだ。好きだと口にしてもらえたからといって気を抜いていると、急に現れた魅力的な女性にアーネスト様を誘惑されてしまうかもしれない。どうしよう、すごく嫌だ。
「アーネスト様の婚約者は私なのだと、もっと周りに知らしめる必要がありますね」
急激に胸に沸いた危機感からそう呟くと、それをしっかり耳にしてしまったらしいアーネスト様は、怪訝な眼差しをこちらに向けた。
「……そう、だな?」
私がスプレイグ家に狙われていることを憂慮するアーネスト様と、アーネスト様が他の女性に取られることを心配する私。
噛み合っているようで噛み合っていない会話に、なんだか妙な空気が私達の間に流れた。思考が逸れてしまって申し訳ない。
「え、と。とりあえず、スプレイグ家の方にはアーネスト様は素晴らしい人でとても信頼しているのだとお伝えしたので、私が騙されて味方につく可能性はないとわかってもらえたかと思います」
取り繕うように話題を正しく戻すと、その赤の双眸は少しだけ和んだ。
「そうか。まぁきっと相手も様子見のようなものだったのだろう。君に関する情報は、基本憶測ばかりだからね」
「また接触してこられそうなのは、少し心配ですが……。相手が何を画策しようとも、婚約を解消させられるようなことはないと、そう思って良いのでしょうか」
「ああ。君がうっかり別の男に心を奪われない限りね」
一番気になることを確認すると、アーネスト様はあっさりと頷いてくれた。でも後に続いたセリフは、私だって懸念していることだ。
「私はアーネスト様が、うっかり別の美女に誘惑されないか心配です」
なので正直にそう伝えると、アーネスト様は一瞬目を見開いた後、可笑しそうに笑った。
「なるほど? 確かに性格以外では、支持を得られる要素が集まってはきたな。それに君から引き離す手段として、僕側を誘惑する手もあるだろう」
「えっ……」
アーネスト様が人に好かれるのはいいことだけれど、女性に人気となると心が休まらない。それに私との仲を割くために誘惑される可能性を考えると、もやもやと重苦しい気持ちも膨らんでくる。
アーネスト様を囲む美女集団を想像して心に雨を降らせていると、不意にアーネスト様の手が私に伸びた。片頬を手で包まれるように見上げた先には、間近に輝く宝石のような赤色。
その距離の近さに落ち着きをなくした私を見て、アーネスト様はくっと楽しそうに笑った。
「別の美女とやらが現れるかは甚だ疑問だが、もし現れたところで君が蹴散らしてしまえばいいだけでは? 婚約者である君だけが、僕を独占する権利を有しているんだからね」
「どく、せん……」
独占。アーネスト様を独占する、権利。なんて魅惑的な響きの言葉だろう。なんだかどきどきしてきた。しかもアーネスト様自身から、私だけにその権利があると口にしてもらえるなんて嬉しい。先ほどまでの憂鬱が、瞬く間に消え失せてしまう。
頬を赤らめる私の様子を見て、アーネスト様が満足そうにその目を細めた。すっと意味ありげに唇を指でなぞられて、誘われるように目を閉じる。
そして贈られたのは、憂鬱も興奮もまとめて包み込むような、優しいキスだった。いろいろな思いが昇華されて、じんわりとした幸せだけが胸に残る。
やがて温もりが離れ、目を開いた先に見えた赤の双眸は、私と同じような感情にきらめいていた。
「いずれにせよ、誘惑云々はこちらが揺らがなければどうということもない。心配する必要もないだろう」
私を穏やかに見つめる瞳。その言葉と思いの込められたキスが、深い安心感を私に与えてくれる。揺らがないから心配するな、と。まっすぐ胸に届いた思いに、自然と笑みが浮かんだ。
「はい。確かにその通りです」
「何か悩むようなことを言われても、必ず僕に相談してくれ。君を隠れて誘拐しても地位向上には繋がりにくい。君が自らスプレイグ家を選ぶよう、心理的に揺さぶりをかけてくるはずだ」
「分かりました」
アーネスト様は今日も頼もしい。思わず隣の温もりに擦り寄る。きっと何を言われようとも、私がアーネスト様以外を選ぶなんてことはないだろう。ああ、でも。
「アーネスト様のためだ、と言われたら揺らぐかもしれませんので、アーネスト様も身辺にはくれぐれもお気をつけください」
「そんな心配は無用だ。自分の身は自分で守れる」
ずっとそうして1人戦ってきただろうアーネスト様の言葉は、重みが違う。やっぱり頼もしい。
「では、アーネスト様のもとを離れる選択を強いられることはないでしょう。あとは、早く諦めてくれることを願うのみですね」
「まぁ、最後の悪あがきのようなものだ。感情はどうあれ、表面的には遠からず落ち着くだろう」
「表面的には……。魔公爵の地位は、それほど魅力的なのでしょうか」
王子殿下が以前、魔公爵は魔術師に対する裁量権が大きいと口にしていたけれど、それが目的なのだろうか。
「スプレイグの当主はもともと、ファンセルをライバル視していたようでね。彼の魔術師としての有能さは確かに目を引くものだったようだが、ファンセル家は魔術の才を持つ後継に恵まれたのに、自分の子は魔術の才に恵まれず劣等感を拗らせていたらしい。だが幸いにも優秀な孫を得られ、対して僕は決闘前まで周りには無能と思われていたようだから、いずれ孫を魔公爵にという野望が生まれたのだろう。そして僕の決闘により、魔公爵位を早々に手にする可能性も目の前に降ってきた。それ以降は盲目的に権力に固執し、未だにそれは続いている」
「なんだか、簡単には諦めてくれなさそうな理由ですね」
自分の心を満たすために権力を欲しているのであれば、手にするまで気持ちは収まらないだろう。本当に遠からず落ち着くのだろうか。ずっと嫌がらせをされそうで怖い。
「皮肉なことに、その権力への執着が魔公爵への道を遠ざけたようなものだ。先王陛下が成人した僕を魔公爵のままとした理由の一つに、その矛先が王家へ向けられることを危惧したという面もあると思っている。魔公爵は魔爵家を抑え、最も王家に忠実でなくてはならない。魔術師が結託して王家に刃向かえば、国は大きく荒れるからね」
そう言ったアーネスト様は、口元に苦い笑みを浮かべた。
「先王陛下は……変化を嫌う、保守的な方だった。面倒を起こした僕のことを当然疎ましく思っていただろうが、野心を隠さない者を魔公爵に据える事も、地位を望む者達の中から誰か一人を選ぶことも、気が進まなかっただろう」
少し苦しそうな声に、思わずアーネスト様の手に自分の手を重ねた。
以前王妃陛下が、先王陛下のことを苦々しく口にされていたことを思い出す。決闘の後どの家を選ぶこともしなかった先王陛下は、面倒を起こしたアーネスト様に魔爵家の矛先を向けさせたのだろう。自分には火の粉が降りかからないようにしつつ、問題を先延ばしにした。
もしかするとアーネスト様が成人して間もない頃は、魔公爵交代が起こる可能性はまだ高いと思われていたのかもしれない。アーネスト様の味方につく方法もあったのに、風除けに利用するだけで支援しなかったとなると、王の加護が薄く上位の魔爵家から敵意を向けられるアーネスト様に人が寄り付かなかったのも納得できる。
アーネスト様が成人までの間周囲と敵対していたせいもあるのかもしれないけれど、その冷たい仕打ちには心が痛んだ。王妃陛下が先王陛下に対して良い感情を抱いていないようだったのも、それを見ていたからなのかもしれない。
「まぁ、先王陛下の在位中に僕から魔公爵位を奪えなかった時点で、スプレイグ当主の負けだ」
落ち込んだ私を逆に励ますように、アーネスト様の手が重ねた私の手を握り返した。
「それに新王陛下方は君との婚約をきっかけに、僕と王家の繋がりをより強く周囲に示してくれている。流れは変わった。いつまでも今の態度のままであれば、スプレイグの強みである魔爵家同士の連携にも支障をきたすだろう」
「……そうですね。早く諦めて、大人しくしてくれることを祈ります」
今ようやく、アーネスト様は苦しい立場から本来の輝かしい立場へ、身を置く環境が変わろうとしているのだろう。この流れを止めないように、私も言動には十分注意しなくては。アーネスト様には、幸せでいて欲しい。
「ともかく、しばらくは気を緩めないで欲しい。護衛もつけているし滅多なことはないとは思うが、追い詰められた相手がこちらの予測通り動くとも限らない。君を害する方向へと方針を変える可能性も、残念ながらゼロではない。絶対に1人にはならないように」
「分かりました。大人しくしています」
アーネスト様と出席する初の夜会も、間近に迫っている。そこで天人の瞳の所有者としての顔見せも兼ねられるらしいので、それまでに何かしら相手が仕掛けてくる可能性は高いかもしれない。
明日はお昼過ぎから王宮へ行って、ダンスの最終確認などをする予定だ。今までは息抜きに庭園を巡ったりしていたけれど、しばらくはそれも控えよう。
アーネスト様の婚約者として夜会で踊れる日を楽しみに、気を引き締めて頑張らなくてはと、改めて自分に言い聞かせた。




