58:私はただ
「選ぶ側もなにも、私はアーネスト様の婚約者です。それともアーネスト様は、私が天人の瞳を持たない方がよろしいのでしょうか」
魔公爵であるファンセル家に相応しい能力がある可能性を喜ばれるかという期待が外れて、少し心が落ち込む。歓迎されない理由はまったく思い浮かばないけれど、私にとってアーネスト様の益にならないのであれば、天人の瞳を持つことに意味はないのに。
「もし不都合が生じるようでしたら、私はこのまま天人の瞳を持つ可能性を隠しても構いません」
「……それはできない。僕には報告の義務がある」
すっと赤の目が私から逸れて、物憂げに言葉だけが向けられる。
「天人の瞳を持つことが確定すれば、王家は国内外に向けて大々的に発表するだろう。それこそセナーデの令嬢のように、君は王族との婚姻さえ許される身分になる」
それの何が悪いのだろう。伯爵家から絶縁され、ただ貴族の血を引いた女というだけだった私に、大きな価値がつくのだ。妻にするのであれば絶対にその方がいいと思うのに、アーネスト様はまるでそれを望んでいなかったような反応で、どんどん不安が大きくなってきた。
見つめる先で、アーネスト様の口元に歪な笑みが浮かぶ。
「分からないか? 君はもう、ここに留まる必要がなくなったということだ。あの祝賀会で手を差し伸べたのは僕だけかもしれない。だが今であれば、数えきれないほどの家が君に手を差し伸べ、最高の待遇でもって迎え入れようとするだろうね。その中から最も好ましい相手を、君はじっくり吟味して選ぶことができるんだ。それを誰も反対しない。嬉しいだろう?」
ここに留まる必要が、ない? 誰も反対しない? アーネスト様、も?
それを私が、嬉しい、と?
すっと腹の底が冷えた。
「アーネスト様は」
悔しさに、声が震える。
「アーネスト様は私が、より良い条件があればそちらを選ぶだろうと、そう仰りたいのですか」
「それができる身分になるという事実を、口にしているだけだ」
「私はアーネスト様をお慕いしているからこそ妻になりたいのだと、そう申し上げたはずです!」
なのに、どうして。
伝わっていると思った気持ちは、アーネスト様に届いていなかったのだろうか。状況が変われば容易く変化するものだと、その程度のものだと思われていたのだろうか。私のことを、私の想いを、アーネスト様は分かってくれているのだと、先程実感したと思ったばかりだったのに。
それは私の、都合の良い勘違いでしかなかったというのか。
目の奥が熱い。苦しくて居た堪れなくて、思わずソファから立ち上がった。
「アーネスト様と心が通じていると、そう思ったのは私の思い上がりでしかなかったのですか」
アーネスト様も少なからず、私に心を傾けてくれていると思っていた。でもそれは、私が力を持たずアーネスト様を裏切る可能性が限りなく低いという条件下でしか、成り立たないものだったのだろうか。天人の瞳という権力に結びつく能力を宿した私では、そばにいられないのだろうか。簡単に手放されてしまうのだろうか。
堪えきれなくなった涙が次々頬を伝う。
ぐちゃぐちゃになった心の中では、もうまともにものが考えられない。
私の涙にはっとしたアーネスト様が、こちらに手を伸ばす。
「セリーナ、僕は……」
躊躇いがちに私の腕に触れたその手を、私は初めて振り払った。赤の双眸が凍りつく。
「……っ、失礼しますっ」
これ以上ここにいると、よくないことを口走ってしまいそう。唇を噛み締めて、身を翻した。
そのまま部屋を飛び出した私を、アーネスト様は追いかけてこなかった。
自分の部屋に戻って、パタンと背中でドアを閉める。そしてそのまま、ずるずると床に崩れ落ちた。
溢れる涙が止まらない。なぜ、うまくいかないのだろう。なぜ、今躓くのだろう。ほんの少し前まで、何もかも順調で、信じられないくらい幸せだったのに。
アーネスト様に釣り合う何かが欲しかった。でも実際にそれを手にできると期待した瞬間、今まで2人で積み重ねてきたと思っていたものが崩れそうになるなんて、どうして想像できるだろう。
天人の瞳なんて、私はいらなかった。
アーネスト様の望む都合の良い妻が、無力な妻とイコールだと言うのなら、私は無力なままでいい。ああ、本当に。魔術なんて習うのではなかった。
苦しさと悲しさとやるせなさと痛みが胸の中で渦巻いて、次々と涙となって頬を滑り落ちる。1人で流す涙はいっそう、寂しさを際立たせるようだった。
それでも心いっぱいの負の感情を涙に変えるにつれ、悲しみで満たされた胸の隙間に、これまでの日々が甦ってくる。
私を心配して王宮前の庭園に現れた姿。幸せに満ちた婚約発表の朝。君に甘えるのは思った以上に気が晴れたと言った時のどこか楽しそうな声。私の部屋の前で交わした口付け。その時のきらきらとした目の輝き。
顔を上げる。
涙で歪んだ視界に映るのは、アーネスト様が私のためにと用意してくれた部屋。買い揃えてくれた家具。ここにはアーネスト様が未来を思って揃えてくれた、ドレスや宝石もある。
袖口で涙を乱暴に拭って、立ち上がった。そして吸い寄せられるように、ガラスの薔薇のもとへと向かう。
まるでアーネスト様の瞳を思わせる澄んだ赤色が、今はぼんやりと滲んでいる。
それでも婚約について話し合った夜、よろしくと言い交わして握った手の温もりが甦った気がした。その前日に、初めて触れた唇の柔らかさも。
その思い出たちが、少しずつ乱れていた心を整えていく。
アーネスト様と出会ってから、それほど長い時を共にしたわけではない。でも毎日顔を合わせ、言葉を交わし、知り得たことが偽りだとは思えなかった。
試して悪かった、と。いつか私に謝ったアーネスト様の声が胸に響いた。
「わたし、は……」
間違えたのかもしれない。
先程のアーネスト様の言葉に、私はただ、それでもアーネスト様が好きだと、アーネスト様を選ぶと、そう言えば良かったのではないか。そう伝えれば『君は相変わらずだな』なんて、いつものように返してくれたのかもしれない。アーネスト様が、自分が好かれている事実に自信を持てないことを、私は知っているはずだった。
もし本当に私が天人の瞳を持っていた程度で関係を崩してよいと考えているのなら、私が王家やアーネスト様を騙しているかもしれないという疑念を抑えて、それでもそばに置こうとなんてしてくれるはずがない。あの時アーネスト様は、確かに私を信じてくれていた。
また涙が込み上げそうになって、必死に抑える。心を落ち着かせようと部屋を歩いていると、ふと鏡に映る自分と目が合った。
「……ひどい顔」
近づいて、鏡の中の自分と対峙する。
「いくらでも試していいと、甘えて欲しいと、そう思っていたのではないの? 恩を仇で返すようなことをして。おまえは本当に浅慮ね」
苦笑して、そっと鏡を離れた。
もし今私が考えていることが、それこそ的外れの妄想だって構わない。アーネスト様にいらないと言われるまでは、私はひたすら前に進めばいい。そう決めたはずなのだから。
そっと目を閉じて深呼吸する。
私の気持ちを伝えれば、きっとアーネスト様は分かってくれるはず。もし天人の瞳を私が持っていたとしても、今までと何も変わらないのだと。いや、よりアーネスト様に相応しくなれるのだと。
目を開く。
滲みのとれた視界の先で、赤い薔薇の透き通る美しさが、より鮮烈に映った。
その時。
急にコンコン、と躊躇いがちなノックの音が響いて、思わずどきりと動きを止めた。まだ整いきっていない心が動揺を誘い、なんの反応もできずにただただ息を潜めてドアの方を見つめる。
それでも。
「…………セリーナ」
いつになく弱々しく私を呼ぶ声を耳にした瞬間、勝手にこの足は動き出し、気がつけばアーネスト様と私を隔てるドアを、大きく開け放っていた。




