57:選ぶ側
ゆっくりと髪を撫でてくれる手が気持ちいい。
ようやく涙が止まったけれど、その心地よさにうっとりしたまま身体を動かす気になれなかった。もう少し、このままでいたい。
2人とも何も言わないまま、また少し時間が過ぎる。
そして気がつく。アーネスト様は、私が満足するまで甘やかしてくれる気なのではないだろうか。そう思い至って、ようやく顔を上げた。
濡れ衣とはいえ、私の状況とアーネスト様の立場から考えると、アーネスト様が私を問い正さざるを得ないことは理解できる。むしろ疑惑を払拭する方法がない以上、私の存在がアーネスト様に心労をかけることは避けられない。甘やかされるべきは私ではなく、アーネスト様の方だ。
でもとりあえずは、今後について話す必要がある。私はどう振る舞えば良いのだろうか。外部の人に疑念を抱かせることは、絶対に避けなくてはならない。
「……あの」
凪いだ赤の双眸は、静かに私を見つめている。
「とりあえず魔術の訓練は、取りやめた方が良いでしょうか。マリアも、私に対して疑問を感じているのですよね」
「そうだな。だがマリアも僕と同じで、君を信じたいと思っている。何か事情があるにせよ、僕に仇なしたいわけではないだろう、と」
ぎゅっと胸が苦しくなる。
たぶん焼却の魔術は、私の反応を見るための仕掛けのようなものだったのだ。アーネスト様もマリアも、たぶんロナードも、私に対して違和感を感じていたのだろう。今日、明らかに普通ではない私の習得速度を見せられたマリアは、それでも私に優しい眼差しをくれた。また潤みそうになる視界を、慌てて瞬きで抑える。
「マリアは私が天人の瞳を持っていると思ったようでした。本当にそうであれば良かったのですが」
込み上げてくるものを誤魔化すように、取り留めもなく言葉を紡ぐ。
「でも幼い頃の私の目には、天人の文字……金色の魔術式なるものは映りませんでした。そして私が魔術に触れるようになったのは、ここへ来てからです。なので魔術の難易度も、通常それの習得までにどれほどの時間を要するのかも、全く分かりません。護身の魔術も、私が使えるのは不自然だったのでしょうか」
「焼却魔術以外は、まぁ才能があったでぎりぎり片付けられない事はない、程度のものだ。既に身につけた護身の魔術は使って構わない。だが今後君に何を教えるかはこちらで吟味する。しばらくの間、魔術訓練は休止すると思って欲しい」
「はい」
部外者であるミリアーナと護身系魔術に関していろいろ話していたので、それが少し気掛かりだ。アーネスト様が疑念を抱いたように、ミリアーナも違和感を感じていてもおかしくない。
ただの才能だとギリギリ言い切れる範囲ではあったようなので、とりあえずはこれ以上ボロを出さないように気をつけるしかない。そっと苦いため息を吐いた。
「今思うと、焼却の魔術は今までの魔術に比べて格段に紋様が複雑でした。麻痺の魔術位までが私の適正範囲なのですね」
そう口にしてから、魔術の使用時に現れるあの紋様が『金色の魔術式』なのかもしれないと思った。遺物にはあのような形で魔術式が描かれていて、それを解読するのだろうか。
疑問を口に出そうとして、アーネスト様に怪訝な眼差しを向けられていることに気がつく。
「……紋様?」
「魔術を使用した時に出てくる、金色の文字のような、文字と図形を組み合わせた模様のようなあれです。あれが金色の魔術式で、遺物にも記されているのですか?」
「……」
「……」
「…………」
「…………あの」
何か変なことを言ってしまったのだろうか。居心地の悪い沈黙に戸惑っていると、アーネスト様が頭痛がするとでもいうように額を押さえた。
「セリーナ」
「はい」
「天人の瞳について君が知っていることをあげてみろ」
知っていること。と言われても、そう多くない。
「そう、ですね……。それを持つ人は主に廃域周辺国に現れ、この国での出現は100年に1人程度の頻度。魔術の才能に恵まれた英雄のような存在で、天人の残した文字を解読することで魔術の発展に貢献できる、でしょうか」
「他には?」
「ほか……」
他と言われても、そもそも伯爵家にいた頃はそう縁のあるものでもなかった。天人の瞳の検査でさえ、義務付けられているから仕方なく受けるといった家がほとんどだろう。地爵家からそんな伝説めいた魔術師が現れるわけもなく、検査さえ面倒だという風潮だ。
「正直、地爵家の者にとってはおとぎ話の主人公のような存在なのです。その実態について深く知る機会も必要もないので、私自身も最近マリアに読ませてもらった資料から得た知識がほとんどです」
「は、はは……、まったく……」
私の返答に乾いた笑いを返したアーネスト様は、緩く首を振ると、こちらに疲れ切ったような視線を向けた。
「僕の目に、君の言う『紋様』は映らない。それを見ることができるのは、天人の瞳を持つ者だけだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え……え? で、ですが、私は確かに検査を受けました。それにマリアが、大人になって遺物の文字? 魔術式? が見えるようになる事例はない、と……」
「確かにそのような事例を僕も知らないが、そもそも天人の瞳を持つ者は数が少ない。その少数の事例から普通を断じることも、よく考えると適切ではなかったのだろう。もしかすると大人になって能力が顕現した者や、魔術師の血をうっすらとしか引かない平民が天人の瞳を持つ例も、発見されなかっただけであった可能性すらある」
「あ……」
炎の大魔術師が活躍していたのさえ100年以上も前だ。それこそ魔物と人が土地を争って死闘を繰り広げていたような時代では、もう少し天人の瞳の所有者も多かったのではという歴史考察もあるようだが、意外と分かっていないことや失伝したこともあるのかもしれない。
「ともかく、明日君を王宮へ連れて行く。そこでもう一度検査を受けてくれ」
「はい」
返事をしてから、そわそわとした期待のようなものが胸に湧いてきた。天人の瞳を持っていたら、私もアーネスト様に釣り合えるのではないだろうか。お役にも立てるかもしれない。そう思うと、嬉しさが込み上げてくる。
「私、本当に天人の瞳を持っているのでしょうか。とても期待してしまいますが、これで違っていたらすごく落ち込みそうです」
「君が見えないものを見えると言っているわけではないのなら、その可能性は限りなく高いだろうね」
「明日がとても楽しみです」
思わず笑顔になるけれど、対するアーネスト様はなんとなく物憂げな雰囲気だ。
「そもそも何故、今まで見えることを黙っていた?」
「黙っていたつもりはないのですが、皆さん見えているものだと……。初めはあの魔術式が魔力の流れだと勘違いしていて、アーネスト様にも魔力の流れは見えるのだとお伝えした気が致します」
「そういえば、そんなことを口にしていたな。変わった表現をするものだと思っていたが、君にはその言葉の通り、初めから目に映るものがあったということか」
重たいため息を吐くアーネスト様は、私の期待とは裏腹に、私が天人の瞳を持つ可能性を喜ぶ様子はない。何故だろうと不思議に思って、ふと婚約前の話し合いの時のことを思い出した。
どこかの姫とかセナーデ国の天人の瞳を持つ令嬢を娶るとかいえば難癖をつけてくる者もいるだろうが、君であれば他の魔爵家は内心大喜びだろう。そのアーネスト様の言葉の裏を返すと、私が天人の瞳を持つことが判明すれば、難癖をつけられるということだろうか。
「あの、もしかして私が天人の瞳を持っていた場合、この婚約に反対されたりするのでしょうか」
感じた不安のまま問いかけると、アーネスト様は少し目を細めてこちらを見た。
「いや。王家の後ろ盾のもとすでに婚約を発表しているんだ。心のうちはどうあれ、表立って解消しろとは言えないだろう。……だが、君自身が他の家を選ぶと言えば、話は別だ。きっと王家も強くは止めない」
「え?」
「君は選ぶ側になったということだよ、セリーナ」
そう言ったアーネスト様は皮肉っぽい笑みを浮かべていて、でもどこか寂しそうで、不安の影がまた、胸に暗く立ち込めてきた。




