5: 新たな地獄への誘い
何事かを考えるように、私を見据えたまま動きを止めた魔公爵。どんな罰が下されるかと固唾を飲んで見守る観衆は、飛び火を恐れて一言の言葉も発しない。
「おい、何を考えているんだ」
そんな中で、王子殿下だけは魔公爵の機嫌など考えず小声で問い詰め、その腕に手を触れた。それをうるさそうに見やった魔公爵は、鼻で笑ってその手を払うと、次いで周りに見せつけるように大仰に腕を開いてみせた。
「ああ、良いことを思いついたよ」
この声はまるで劇でも演じているかのように、わざとらしくどこか嫌味ったらしい。
数歩歩いて、彼は故意に割れたグラスを踏んだ。
ジャリっという音に、次に踏み躙られるのは自分なのではと、後ろ暗い者たちは身を震わせる。
「そこの王子殿下に結婚相手を見つけろと、毎度毎度毎度顔を合わせるたび口煩く言われていてね。本当にウンザリしていたんだ」
やれやれとでも言うように肩をすくめて、その目が一瞬近くにいる王子殿下を捉える。そして、再度私を見下ろした。
「貴族の血を持ちながら身寄りのない、何のしがらみも持たない君なら、僕も家同士の付き合いとやらに煩わされずに済みそうだ。それに君をどう扱っても、どこからも文句はこない。なんて魅力的な人材だろうね?」
「アーネスト!」
不穏なものを感じた王子殿下が嗜めるように声を上げるが、魔公爵はまるで聞こえていないかのように言葉を続けた。
「僕の結婚が心配で仕方がない王子殿下の為だ。ご希望通り、僕はこの女性を妻として迎えることにしよう! ああ。君もまさか、嫌とは言わないよね?」
その言葉通り、否定を許さない支配者の視線が高みから私を貫いた。
温度のない眼差しに身体が震える。悪夢はまだ終わらない。どう扱っても? 今まで以上に辛い日々が、この先もまだ続くのだろうか。
だからといって何も持たない私は、上位の者から示された道をただ歩むことしかできない。無力感が心身を苛んだ。
「は、い……」
何とか絞り出した声は、みっともなく掠れ震えている。けれどそれは確かに彼に届き、冷ややかな眼差しは作り物めいた笑みへと変わった。
「ああ、快諾してくれて良かったよ。これからよろしくね? じゃあここにはもう用はないし、帰るとしようか」
そう言って差し出された手。新たな地獄への誘いに、震えながらなんとか手を重ねる。
すると急にその手を引かれて、座り込んでいた床から立ち上がった。けれど力の入らない足は言うことを聞かず、魔公爵の方へと倒れそうになる。
「……っ」
「おっと」
怒られるのではと血の気が引いたが、魔公爵は卒なく私を支えて、その場に立たせた。
「アーネスト、正気か? というか本気か?」
驚きのあまり呆然とする私をよそに、魔公爵はこそこそと小声で詰め寄る王子殿下を煩そうにあしらっている。
「あぁ、はいはい。これで王子殿下にご心配をおかけせずに済むかと思うと、この上なく清々しい気分ですが?」
「だが彼女の方は怯えているじゃないか。それに私は君に、心を許せる相手を見つけて欲しいと言ったんだ。ただ結婚して欲しかったわけではないぞ!」
「本っ当に鬱陶しい。これ以上文句なんて聞きたくないね」
まだ何やら言い募ろうとする殿下の言葉を魔公爵は冷たく断ち切った。そして王子殿下から視線を逸らすと、その目をうまく誤魔化せたと安堵している叔父一家に固定する。
「ああそうだ、忘れるところだったよ。この祝賀会にわざわざ相応しくない装いの者を連れ込み、あまつさえ僕の前で虚言を吐いた救いようのない愚か者たちへの罰は、何がいいかな」
その言葉に、断罪劇の終わりを感じて緩んでいた空気がまたピンと張り詰めた。
「まさか、あんな妄言を僕が鵜呑みにするとでも? これでも魔爵位の中で唯一の公爵を名乗っている身なんだが……。随分と、見くびられたものだね」
酷薄な笑みがその口元に浮かぶだけで、喉元にナイフを突きつけられているかのような恐怖に襲われる。顔を真っ青にした叔父たち3人は、言い訳さえも口にできずに魔公爵を凝視して震えていた。
「家畜にも劣るその残念な頭で、今までどうやって生きてこられたのか……不思議でならないよ。ああ! そうだ。いいことを思いついた」
つい、と魔公爵はその白く美しい手を3人の方へと向けた。
「せっかくだから、魔術の発展に貢献してもらおうか。ちょうど人に試してみたい闇の術式があってね。でも体への負担が大きくて、なかなか実験台が見つからなかったんだ。僕の役に立てるんだから、光栄だと思いなよ?」
その言葉と共に一瞬で複雑な紋様が展開され、3人の姿が闇に飲み込まれた。
ひぃっと言葉にならない悲鳴があちこちで漏れて、3人の近くにいた者たちは本能的に距離を取ろうと後ずさる。しかし恐慌に陥る前に、その闇はふっと幻のように消えてしまった。
3人の姿と共に。
「人が消えた……?」
「い、いや、床を見ろ」
その言葉に視線を下に向けて、我が目を疑った。
「カ、カエル……?」
何度瞬きしても信じられない。けれど確かにそこにいるのは、3匹のカエルだった。カエル達は身じろぎすらせず固まったままで、まるで作り物のように見える。
「なっ、一体なんだこの術はっ」
王子殿下が思わずと言ったように声を荒げた、その瞬間。ぴくりとも動かなかったカエルが、その声に驚いたようにぴょーんと跳ねた。
「きゃああっ、カエルがぁっ」
「いやぁっこっちに来ないでぇ!!」
ご令嬢方から恐怖と嫌悪の悲鳴が上がる。その悲鳴に驚いてさらに跳ねるカエルに、会場内は一瞬でパニックに陥った。
だが、人混みへと飛び込むかに見えたカエルたちは、見えない壁に阻まれて前に進めない。狭い範囲で懸命に逃げようと足掻いているカエルたちは、なんだかとても哀れだった。
「あっははははは! いいね、素晴らしいっ。大成功だよ」
「ふざけるなアーネストっ。アレをどうするつもりだ!」
見えない壁を突破しようとぴょんぴょんしているカエルたち。あれは本当に叔父一家が変化したものなのだろうか。あまりの出来事に、あいた口が塞がらない。
そして例のごとく王子殿下の言葉を聞き流した魔公爵は、芝居がかった仕草で騒然とする会場の観客に声をかけた。
「どうだい? 僕を侮った者たちの末路は。言葉も話せぬ下等生物に成り下がるなんて、お似合いじゃないかな?」
ざわざわと動揺する会場内。逃げようとしてか、必死に跳ね続けるカエルに皆の視線は釘付けになっている。
「ああ、そんなに熱心に見つめるなんて、皆に気に入ってもらえたようで良かったよ。ただ残念なことに、この術はまだ改良中でね。僕が離れてしまえば元に戻る程度のものだ」
そう言うと、魔公爵は急に私の腰に手を回して引き寄せた。その足元に暗闇が広がって、身が竦む。
「では用事も済んだことだし、僕はこれで失礼するとしよう。ああ、この後のカエル一家の処遇は殿下にお任せするよ。今日は大して働いていらっしゃらないようだからね」
「あ、こらアーネスト! 逃げる気かっ」
「ではご機嫌よう」
引き止めようとした殿下に冷ややかな笑みを浮かべると、魔公爵と私を暗闇が包んだ。天地がわからなくなるような一瞬の浮遊感。
それが過ぎた後には、見知らぬ屋敷のエントランスホールに魔公爵と2人で立っていた。
腰に回された手が離れて、思わずヘナヘナとその場に座り込んでしまう。色んなことが一気に起こりすぎて、もう訳がわからなかった。