53:寵愛
「アーネスト様!」
「こら、走るんじゃない」
思わず駆け寄った私を、アーネスト様が苦笑気味に迎える。
すぐ近くにある赤の双眸はまっすぐに私を見つめてくれていて、それだけでパッと心の中が明るくなった。
「こんなところでお会いできるとは思いませんでした。王管事務所にご用だったのですか?」
「いや。君がカエルに絡まれていると聞いて、念のため様子を見にきた」
カエルとはマリエラのことだろう。私のことを心配してわざわざ来てくれただなんて嬉しい。
一気に機嫌が良くなった私を見て、アーネスト様がふっと笑いを含んだ吐息を溢す。
「落ち込んでいるのかと思えば、随分ご機嫌だな」
「アーネスト様が来てくださったからです」
「まったく……」
細い指が私へ伸びてきて、どうやら風で乱れていたらしい髪をついと直してくれた。対するアーネスト様の黒髪は今日もサラサラと美しく風に靡いていて、思わず目を奪われてしまう。いつかあのサラツヤの髪を撫でてみたいけれど、今の私には恐れ多すぎて気軽に触れることなんてできない。
そんなことを考える私に、アーネスト様は穏やかに言葉をかけてくれた。
「アレとは何を話していた?」
「なぜか惚気を聞かされました。どうやら殿下のご紹介くださった方をとても気に入ったようで、誰でもいいから自慢したかったのでしょう」
「その相手に君を選んだと?」
呆れ返ったような口調に、なんだか笑いが込み上げてくる。
「私もどうしようかと思ったのですが、すぐにそのお相手も現れたのです。そうしたら2人になりたいのか、すぐに去っていってしまいました」
「なんとも傍迷惑なことだ。だが、あの事務官はそう甘い相手ではないと思うけどね。忙しくしていて頭から抜けていたが、殿下が寄越した資料が屋敷にあったはずだ。帰ったらエーゼルに見せてもらうといい」
「はい、ありがとうございます」
会話がひと段落ついて、ふと心配事が胸に湧いてくる。
「あの、そういえばお仕事を抜けていらして大丈夫なのですか?」
もし私のせいで何か支障が生じてしまっては申し上げない。そう思って窺ったアーネスト様の表情はいつもと特段変わることはなく、急いで帰るそぶりも見えなかった。
「少しくらい構わない。それに、王妃陛下から言われていたことを実行するにもいい機会だ」
「王妃陛下に?」
何のことかと疑問に思っていると、アーネスト様の瞳がきらきらと悪戯っぽく輝いた。
「君の立場を固めるためにも、周囲に僕の寵愛を示せと言われている。だが君が駆け寄ってきたせいで、さっきからこちらを興味津々で眺めている者達は、君の方が僕に懐いているとでも思っているかもしれないね?」
「え」
思わず後ろを振り返ると、ベンチで休んでいた人や王管事務所付近から遠巻きにこちらを窺っていたらしい人たちが、バッと視線を逸らした。なんだか初めにここを通りかかった時より人が増えている気がする。
一目散にアーネスト様へ駆け寄ってあれこれ話している様子を大勢に見られていたかと思うと、今更恥ずかしくなってきた。
寵愛云々は、きっと先程マリエラが口にしたように『都合が良かっただけ』と私が侮られないようにという意図だと思う。
今周りの観衆には、私達のことがどう映っているのだろうか。アーネスト様がこうしてわざわざ姿を見せてくれただけで、十分に特別扱いを周りに印象付けられているとは思うけれど。
「とても、注目を浴びていますね」
「憶測ばかりが飛び交っているようだから、余計皆の興味を煽るのだろう」
そういえば先程、ミリアーナも同じようなことを口にしていた。そう思うと同時に、彼女のことがすっぽり頭から抜けていたことにも気が付いて、視線を巡らせる。
すると気持ち離れたところでこちらを凝視していた彼女と目があって、若干視線を逸らされた。なぜその他大勢の見物人達と同じ反応なのだろう。そんなに見てはマズい感じの振る舞いをしてしまっただろうか。
でも一瞬でアーネスト様しか見えなくなってしまったあたり、待ち人が現れた瞬間私への興味をなくしたマリエラのことを言えないかもしれない。
自分の行動を客観視してこっそり反省していると、アーネスト様の手が私の頭の後ろに周り、引き寄せられる。
そして私の頭に、そっとキスが落とされた。
「まぁ、婚約者にうつつを抜かして仕事を放棄していると難癖をつけられても癪だ。僕はもう戻る。君もそろそろ王宮へ戻れ」
「……、はい」
甘やかな仕草に、ふわっと心が明るくなる。顔を赤らめた私を見て、アーネスト様は満足そうに笑った。周りへのアピールの為に行っただけかもしれないけれど、やっぱり嬉しい。そのアピールだって、理由は私の為でもあるのだから。
幸せに浸っていると、私の頭に回っていたアーネスト様の手がそっと離れた。寂しいけれどお別れの時間だ。
顔を上げると、ふとアーネスト様の顔から表情が消えて、その視線がミリアーナの方へと向けられた。不思議に思ってその視線を追うと、ぽかんとこちらを見ていたミリアーナが視界に入る。
彼女が慌てて表情を引き締めるのと、アーネスト様が鋭い声を向けるのがほぼ同時だった。
「そこの見習い。内心が表に出過ぎると指摘を受けているだろう。見習いを脱したくば、過度に気を緩めるな」
「はっ! 大変申し訳ございませんっ」
「案内人の名目とはいえ、自分の能力査定も兼ねられていることを自覚しろ。セリーナを王宮へ届けた後、報告書を上官に提出しておくように」
「かしこまりました」
最後に場を引き締めると、アーネスト様はまた後でと私に言い置いて闇魔術で姿を消してしまった。
一瞬の静寂。
固唾を飲んでこちらを見ていた人達が、次の瞬間には一斉に動き出し、ザワッとした喧騒が耳に飛び込んできた。
今見た出来事を語りあったり、人に伝えたくて仕方がないのだろう。駆け寄った時以外は声を抑えていたし、私達の会話の内容までは聞こえていないとは思う。けれどそれも憶測で補完されてしまいそうだ。噂とは、こうやって広がっていくのだろう。
なんともいえない気持ちになっていると、いつのまにかミリアーナがすぐ側に近づいていた。
「ミリアーナがアーネスト様に知らせてくれたのですか?」
「いえ。私は案内人で見習いなので、護衛は別におります。その者がファンセル閣下へご連絡したはずです」
「そうだったのですか、まさかお会いするとは思わず驚きました」
「私もです。それに私の評価も頭に入れておられて、身が引き締まりました」
評価とは、内心が表に出過ぎると言われていた事だろう。私は最近家で過ごすアーネスト様しか目にしていないけれど、祝賀会のような他を圧する雰囲気が常であれば、人前で婚約者に口付ける姿なんて想像できないかもしれない。ミリアーナがぽかんとしてしまっても仕方ない気もするけれど、護衛官の仕事をよく分かっていない私には何も言えない。
「私はミリアーナがいてくれて、とても心強かったです。ありがとうございました。アーネスト様にもそろそろ王宮へ帰るように言われましたし、今日はもう戻りましょう。まだ注目されていて、ここは居心地も悪いですし」
「かしこまりました。道がまっすぐで歩く距離が短いので、帰りはそちらの道がよろしいと思います」
「ありがとうございます。では行きましょうか」
せわしく見えない程度に早足で、その場を去る。
今日のところはマリエラ以外私に話しかけてくる人はいなかったけれど、そのうち直接話を聞こうとしてくる者も出るかもしれない。
その時何を言われても、にっこり笑っていられるように、私も人前では気を緩めないように気をつけよう。印象よく、でも侮られないように。
簡単なことではないけれど、積み重ねていけばきっと、身についてくるはずだから。そんなことを思いながら、王宮へと足を進めた。




