48:祝福
なんとなく、落ち着かない気持ちで目が覚める。
まだ起きるには早い。
分かってはいるけれど、再び眠れる気もしなくて身を起こした。
まだ空は白み始めたばかりで、屋敷内はようやく朝の支度に動き始めた頃だろう。普段なら大人しく誰かが起こしに来てくれるのを待つのだけれど、なんだかはやる気持ちを抑えられない。
フェドナ夫人を迎えてからあっという間に数日が経過し、今日はいよいよ月の終わり。
私とアーネスト様の婚約が、対外的に発表される日なのだ。
発表記事が掲載された新聞は、もうお屋敷に届いただろうか。是非とも見せてほしい。むしろ私の部屋用にもう一部欲しい。それを眺めたら、多少嫌なことがあっても気持ちを立て直せる気がする。
ベッドから降りてカーテンを開ける。そして窓からの光で少しだけ明るくなった部屋をうろうろと歩き回るうちに、鏡に映る自分と目があった。
1ヶ月近くこのお屋敷で大切にしてもらった私は今、薄暗い部屋の中でも分かるほどに幸せそうだ。十分な休養とバランスの取れた食事、そして何より心を支えてくれる人達の存在が、私をここまで回復させてくれた。ちょっと袖を上げて自分の腕を見る。たぶん棒切れは脱却できたはず。たぶん。
そっと深呼吸する。
この鏡に映ったナイトウェア姿のまま、一階に下りてはダメだろうか。ドレスを1人で着てしまう選択肢もあるけれど、色々考えて日々のドレスを選んでもらっているようだし、勝手をするのは気が引ける。それに今ならアーネスト様が起きてくるまではまだ少し時間がありそうだし、見つかって慎みがないというお小言をもらう可能性は低いと思う。
でも使用人の皆さんを驚かせることは確実だ。自分たちの主人の婚約者がこれかと呆れられてしまうかもしれない。でも新聞を見たい気持ちを抑えられない。どうしよう。
衣装部屋に視線をやって、ふと頭に浮かんだ。そうだ、私にはアーネスト様が手配してくれたカーディガンがある。あれはナイトウェアの上に羽織る前提のものではなかろうか。正にこういう時の為にあるのかもしれない。
冷静な自分が絶対にその解釈は間違っていると心の中で叫んでいるけれど、婚約発表なんて普通は一生に一度のもの。やってしまえと唆す自分に逆らえない。
せめてもと髪は軽く梳かして、颯爽とカーディガンを纏い自分の部屋から足早に一階へと向かったのだった。
「セリーナ様?」
「あ……。お、おはようございます」
階段を下りると、ちょうどエーゼルさんとばったり出くわした。
実際に誰かに見つかると、浮かれていた心にしまったという気持ちが湧いてくる。でも見つかったのがエーゼルさんなら新聞を見せてもらえるかもしれない。気まずさを隠しながら新聞について聞こうと口を開く前に、エーゼルさんが穏やかにおはようございますと挨拶を返してくれた。
「もしや、新聞をお探しでしょうか?」
「は、はい」
「では、どうぞこちらへ。使用人達の様子につきましては、大目に見てくださいませ」
茶目っ気のある笑みを浮かべたエーゼルさんが、食堂の方へと足を進める。アーネスト様が朝食の際に読まれるので新聞はすでに食堂に置いてあるのだと思うけれど、使用人達の様子とはなんだろう。忙しくしているので邪魔をしないようにということだろうか。
そう不思議に思ったけれど、エーゼルさんに続いて食堂に入るなり、控えめな賑わいが耳に入った。
そこにはテーブルの上にある新聞を皆で見ながら、楽しそうにしている使用人の皆さんがいた。そしてエーゼルさんに続いて姿を現した私に気がついて、ハッと動きが止まる。まるでエーゼルさんに見つかった時の私のようで、思わず笑ってしまった。
「おはようございます。新聞が気になって来てしまいました。私も仲間に入れてくださいな」
そう言うと、マリアさんやフリエさんなど馴染みのある人は微笑んで場所を開けてくれた。そして男性の使用人の皆さんは素早く退出していった。やはりドレスを着てくるべきだっただろうか。申し訳ない。
密かに反省していると、残った使用人の皆さんが口々に婚約おめでとうございますと温かい言葉をかけてくれた。その祝福に満ちた空気に胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね」
ああ、ちょっと迷惑だったかもしれないけれど下りて来てよかった。すごく幸せな気分になっている。雰囲気にあてられたのか、マリアさんは目を潤ませてしまっていた。
そしてどうぞご覧くださいと促されて、ワクワクしながら新聞を覗くと『ファンセル魔公爵家当主が婚約を発表』という文字が大きく目に飛び込んできた。そこに共に並ぶ自分の名前を見ると、じんと感動が押し寄せてくる。
もう私は、世間から見てもアーネスト様の婚約者なのだ。
とても幸せな思いと、身の引き締まる思いがする。今後の私の一挙一動は、ただの一般人セリーナではなくファンセル家当主の婚約者として捉えられるのだから、迂闊な言動は慎まなくてはならない。
と言いつつ、こんなふうに使用人の皆さんに混じってこっそり新聞を見たりしてしまっているのだけれど。
婚約が掲載されているのはお堅めの新聞2紙と、何故かロマンス記事の新聞社の計3紙だった。掲載はこちらから新聞社へ依頼しているはずなので、どういう選考基準なのだろうかと不思議に思う。けれどロマンス記事の新聞社は一面大々的に使って楽しそうに掲載していて、見ていて嬉しくなった。
特集として婚約までの経緯も掲載と書かれていて気を引かれていると、隣からフリエさんが楽しそうな声で話しかけてくれた。
「こちらの記事には第一王子殿下のお言葉も掲載されておりますので、是非ご覧ください」
「まぁ、殿下の?」
近くに寄せてくれた紙面を見ると、最も格式高い新聞社のものだった。ここは王家の情報発信にも度々使われており、アーネスト様が毎朝読んでいるのも大体この新聞だ。
「今日の為に取材をお受けになられたようです。こうして祝福をいただけるのはとても心強いことですね」
そう言われて示された先を見ると、婚約記事の下に『ナイシェルト殿下の結ばれたご縁』として殿下のコメントも載っている。ここまでしてもらうと、どんな思惑があれど他の家は迂闊に難癖をつけられないだろう。これも王妃陛下が私達にくださる手助けのひとつなのかもしれない。
「ふふっ、有難いことです。アーネスト様にも是非お読みいただかなくてはなりませんね」
「そうでございますね。まだ下りてこられるまでには少しお時間があるかと思いますが、セリーナ様もそれまでにお着替えを……」
と、フリエさんが言いかけた時だった。
扉が開かれる音がして、皆の視線がそちらへ向かう。このタイミングはもしかしてと思いつつ視線を向けると、呆れたような赤の双眸と目があった。
「なんだか屋敷内が騒がしいと思ったら……」
すっと使用人の皆さんが一礼して、素早く退出していく。隣にいたはずのフリエさんも一瞬で姿を消していて、私だけ取り残されてしまった。
「おはようございます。待ちきれなくて新聞を見に来てしまいました」
「僕の婚約者は本当に毎日楽しそうだな」
ふっと苦笑じみた笑みを浮かべて、アーネスト様がこちらへ近づいてくる。
「まぁ、婚約発表なんてなかなかする機会はないからね。気持ちは分からないでもないが、着替えも待てなかったのかな?」
「ちゃんとカーディガンを使わせていただきました」
「まったく……」
仕方のない奴だとでも言うように髪をくしゃっと撫でられたけれど、これはご褒美だろうか。先程迂闊な言動は慎まねばと思ったばかりなのに、またこんな行動をとってしまいたいなんてダメな思考が浮かんでしまう。
それを振り払うように、アーネスト様に殿下のお言葉が書かれた記事を見せた。
「殿下が祝福のお言葉をくださっているのですが、ご存じでしたか?」
「いや、事前には聞いていない。陛下方の思惑もあるんだろうが、嬉々として応じたことは容易く想像できて複雑な気分だ」
「私としては、こうして守っていただいて有難い気持ちが致します」
「まぁ確かに効果的なやり方ではある。最初から非難は許さないと牽制しているようなものだ。だが殿下は人の婚約に首を突っ込むよりも、自分の婚約者に愛想を尽かされないか心配すべきじゃないのかな」
殿下の婚約者はファールーン国の才女と名高い第二王女殿下だ。この国は法律関連の整備が他国に比べて遅れており、その整備が進んでいるファールーンの知識を取り入れる事を目的とした縁組だと言われている。
「アーネスト様がプレゼントなどの指導をして差し上げたら良いのではないでしょうか」
「ならエーゼルを貸し出すか。僕の部屋にはいつの間にか、そういったものに関する資料が山積みになっているからね」
「もしかしてあのガラスの薔薇も、その資料から選ばれたのですか?」
「ああ。大きな花束よりガラスの薔薇一輪の方が嬉しいという意見もあるようだが、君の場合は花束も喜びそうだから両方採用した」
「とても、とても嬉しかったです。アーネスト様には私の思考はお見通しですね」
「泣かれるのは予想外だったけどね」
「幸せが溢れたのです」
婚約発表の記事を前にアーネスト様と言葉を交わす時間は、穏やかで優しくてすごく満たされる。
大きな感謝と幸福感で胸がいっぱいだ。
祝福と喜びに溢れた朝は空気さえきらきら輝いているようで、見つめ合う瞳がよりいっそう愛しく思える。
目が離せないまま宝石のような赤色を見つめていると、ふとアーネスト様の笑みが深まり、その指がすっと私の頬を撫でた。
近づいてくる幸せの色。贈られた優しいキスに、この先の未来が明るく照らされた気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ここで2章完結、次から最終章です。




