47:ずっとこの夢を
「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま」
帰宅したアーネスト様をお出迎えすると、そっと頭に触れられた。
「早速使用人達の練習台になっているのかな?」
揶揄いを含んだ言葉だけれど、その眼差しは優しい。そしていつもと違う事に気がついて話題にしてくれたことにも、嬉しさが込み上げてくる。髪型をこのままにしてもらってよかった。
ちょっと後ろを向いて、使用人の皆さんにも好評だったふんわりアップを見せる。
「フェドナ夫人が結ってくださったのです。明日はハーフアップの予定なのですが、アーネスト様は女性の髪型の好みはありますか?」
「好みの髪型ねぇ。大して気にしたこともなかった。君自身はどうなんだ?」
「あまり華やかな場には出たことがないので、まだ自分に何が似合うのか模索中です。でもアーネスト様の好みが分かりましたら、おそらくそれ一択になります」
「なら僕は黙っておく事にしよう」
「えっ」
是非とも好みをお伺いしたかったので残念だ。余計な事を言ったと後悔していると、微かな笑みを残してアーネスト様は自分の部屋へと歩いていってしまう。
アップよりはハーフアップとか編み下ろしの方が好みだったりするのだろうか。
もうアーネスト様の表情から判断するしかないのだけれど、あまり内心が表情に出る方でもないので難易度が高い。どうしたものかと悩んでいると、やがて猫達が遊べとやってきたので、とりあえず一旦この件は忘れて遊び相手に徹する事にしたのだった。
「祖母への手紙、特別便にしてくださってありがとうございました」
夕食を終え、一緒に2階に向かいながらアーネスト様にお礼を伝える。
実は昨日、祖母から手紙の返信が届いたので、アーネスト様に許可をもらって婚約の件もその返信にしたためたのだ。
上流階級の家が使う配達便であれば、通常配達だとサバスティ領までは片道1週間ほどかかる。けれど特別便で送ればいいと言ってもらえたので、2日ほどで祖母のもとに手紙が届くはずだ。婚約発表は新聞で行う予定と聞いているけれど、それより先に祖母には知らせることができて嬉しい。
「きっと婚約を聞くと喜ぶと思います。手紙ではとてもアーネスト様に感謝していましたから」
浮かれた口調でそう伝えると、アーネスト様からはやれやれとでも言いたそうな眼差しをもらった。
「一体最初の手紙に何を書いたのやら。僕への手紙にも大層な感謝の文言がこれでもかと並べてあって、会ったこともないのに君との血のつながりを感じさせられた」
ため息混じりのその言葉に、ちょっと笑ってしまう。
祖母からの返信は最初の手紙と比べると文字に力が戻っていて、私の今の状況が正確に伝わっているように思える。何故か地爵家にもアーネスト様が恐ろしい人だという噂は出回っているけれど、祖母は長く入院しているし、その辺りの噂には疎いだろう事が逆に良かったかもしれない。
なんにせよ、アーネスト様の素敵さを聞いてくれる相手に飢えている私が、次の手紙にも婚約を知らせつつ色々書き連ねて分厚い手紙を完成させてしまったのは仕方のない事だと思う。
「私が幸せに過ごしている事がきちんと伝わったからだと思います。祖母も祖父のことがとても大好きでしたから、今の私の気持ちにも共感してくれているのでしょう」
「はいはい。君は本当に僕が好きだな」
「分かっていただけて嬉しいです!」
思わず笑顔で返すと、アーネスト様についと目を逸らされた。これは恐らく照れているのだと思う。
アーネスト様はいつかエーゼルさんが言ったように、好意に弱い。というよりも、好意を向けられる事に慣れていない。アーネスト様の功績やその誠実で優しい人柄を思えば、もっとたくさんの人に好かれて持て囃されてもいいはずなのに。
こんなふうに、全力で肯定されるとは思わなかった、みたいな戸惑いを含んだ反応をされると少し悲しい。
アーネスト様は時折私の気持ちを確かめるような言動をするけれど、もっともっと確かめて確信すればいい。自分が好かれることに、なんの不思議もない事。避けられて遠巻きにされる今の状況こそが、おかしい事を。
王妃陛下も、きっかけがあれば一気に良い方向へ向かっていくでしょうと仰っていた。きっと遠くないうちに、アーネスト様を正当に評価し、その周りに人が集まる未来が訪れるだろう。
その時私の『好き』の価値は、大きく下がるかもしれない。
そう思うと本当はすごく怖いけれど、それでもアーネスト様には幸せであって欲しい。今私の気持ちを知る事でアーネスト様が喜んでくれるなら、私は全力でそれを伝えよう。
そう改めて決意するうちに、私の部屋の前へと到着してしまった。
立ち止まってアーネスト様を見上げる。
そこにはすでに先ほどの感情の乱れなどなかったかのような、涼しい顔のアーネスト様がいた。名残惜しいけれど、もうおやすみの挨拶をして別れるタイミングだ。しぶしぶ口を開こうとした時。
少し早く、アーネスト様の手がこちらに伸びた。
「……っ」
その指がそっと私の頬に触れ、次いでいつもは髪に隠れがちの首筋を辿った。なんの心構えもできていなかったせいで、一瞬で顔が熱くなってしまう。
狼狽える私の顔を見て、アーネスト様が楽しげに笑った。
「顔どころか首も一瞬で真っ赤だな」
「アーネスト様が不意打ちなさるからです」
「それは悪かった」
全然悪いと思ってなさそうにそう言って、更に照れて俯きそうになった私の顎を指で掬い上げた。きらきらと悪戯っぽく輝く赤の双眸が眩しい。
そういえば祝賀会でもこうやって表情を見られていたけれど、あの時とはお互い全然心情が違う。美しい目に宿る私への親しみを感じて見惚れていると、不意にその距離が縮まった。
掠めるような、キス。
大きく心臓が跳ねた時にはもう、アーネスト様は身を離していて。
「おやすみ」
優しい響きの言葉を残して、自分の部屋へと消えてしまった。
触れあった感触が、仄かに残る。
温もりが心に染み入るようで、そっと息を吐いた。
なんで唇が触れるだけで、こんなに幸せになるのだろう。アーネスト様も同じような気持ちでいてくれているのだろうか。そうだとしたら、とても嬉しい。
そっと胸を押さえていると、ふと足に重みを感じた。
「ノワ」
どうしたんだとでも言うように私の足を踏んづけていたノワを抱き上げる。
アーネスト様は、どうしてあんなに格好いいのだろう。決闘の件がなければ世のご令嬢方にきゃあきゃあ囲まれていたに違いない。なのに今、その瞳は私をまっすぐに見つめてくれている。
幸せすぎて、なぜか少し怖い。
もし夢ならば、覚めなければいい。私はずっとこの夢を見ていたい。
ぐるぐると胸の内で渦巻く感情を持て余しながら、大人しくなすがままになってくれているノワに甘えさせてもらう。しばらくして、ようやく少し気持ちが落ち着いてきた。
するとそれを感じ取ったように、ノワが私の腕から飛び降りる。そして尻尾を一振りした後、タッと部屋へと走っていった。なんだか面倒を見てもらっているようで申し訳ない。
深呼吸してから、私の部屋のドアノブに手をかけた。ドアを開いた瞬間、微かな薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
アーネスト様からもらった薔薇は、もうだいぶ咲き切ってしまった。花瓶に近づいて、その下に数枚落ちた花びらを手に取る。少し悲しい気持ちにはなるけれど、ドライフラワーがもう完成しそうなので代わりに部屋に飾る方がいいのだろう。
少し顔を上げると、ケースに入れられたガラスの薔薇が視界に入る。その透き通った赤の花弁はアーネスト様の目の色に似ていて、甘やかな愛しさが心に満ちてきた。
薔薇が枯れてしまっても、それをもらった時の嬉しさは消えない。きっと、一生。
自然と口元に浮かんだ笑みをそのままに、今日フェドナ夫人から教えてもらった事をノートにまとめるため、机へ向かって歩き出した。




