4:絶縁
「あ……、あ…………」
ガタガタと震えるマリエラが、何も言えずに涙を滲ませる。冷めた赤の視線が叔父夫妻に向けられるが、2人も震えるのみで謝罪の言葉さえ口にしない。
怖い。
初めて近くで見たファンセル魔公爵は、普段押さえているであろう魔力を惜しげもなく晒していた。この桁違いの魔力には、純粋な恐怖を感じる。
この魔力量で水・土・雷・風・氷のほか、適性者の少ない光と闇の魔術まで扱えるというのだから、その力の突出ぶりは凄まじい。彼がその気になれば、私の命などほんの一瞬で刈り取られてしまうに違いなかった。
言葉もなく彼を見ていると、その視線が子爵家に向けられた後、再び私に巡ってきた。温度のない眼差しに息を呑んだが、何とか気力を集めて彼の方へと体を向ける。
「こ、この度はっ、私共の不手際で、場を騒がせてしまい、ま、誠に申し訳…なくっ」
みっともなく支える言葉に、泣きそうになる。立ち上がれる気がしなかったので、床に手をついたまま首を垂れた。全くもってよい謝罪とは言えないが、これが今の私の精一杯だった。
「……ふぅん?」
少しして。彼から声が漏れたので思わず頭を上げると、赤の双眸がひたりと私に向けられていた。感情の読めない表情に息が詰まって、再び首を垂れる。
じわじわと不安が大きくなっていく。これからどうなってしまうのだろうか。もう、どうすればいいのか分からない。
「アーネスト!」
その不安を打ち消すように、急に魔公爵の名を呼ぶ声が会場に響いた。それと同時に、会場を支配していた冷気と威圧感がふっと消えた。
「これは何事だ。私が少し目を離した隙に、一体何をしている」
現れたのは主催の王子殿下で、早足でこちらへと近づいてくる。その様子をつまらなそうに眺めた魔公爵は、殿下がそばへと到着すると演技がかった仕草でこの場を示してみせた。
「一体何をしている? それは僕の方が聞きたいね。嫌がる僕を無理やり引っ張り出しておきながら、会場内の揉め事を解決もせず、王子殿下は一体何をしておいでで?」
「くっ。ほんの一瞬外しただけだろう」
「はぁ。これがもうすぐ王太子とは嘆かわしい」
わざとらしくため息をつく魔公爵は、同い年の王子殿下とは親しいのだろうか。和やかな会話とは言えないが、2人の間には気やすさを感じた。
殿下はちょっと魔公爵を睨んだ後、騒ぎの中心らしいと判断した私たちに視線を向ける。
「それで、この騒動は何事だ?」
その問いに、言葉が詰まった。元はといえば単なる接触事故を、マリエラ達が不必要に騒ぎ立てたためにここまで事が大きくなったのだ。殿下のお耳に入れることすら憚られるような些事でしかない。
どう説明しようかと言葉を選んでいると、叔母が急に私を指差した。
「こ、この子が! セリーナが、あちらの子爵家の娘とぶつかって騒ぎ立てたのです! わ、私たちは一切関係ありません!」
その言葉に、一瞬ぽかんと呆けてしまった。周りも一体何を言い出すのだと叔母を凝視するが、マリエラと叔父は救いを見出したかのように慌ててその言葉に続いた。
「そ、そう、セリーナが全て悪いんです!」
「両親を亡くしたこの子を引き取って今まで養ってやったのに、このように恩を仇で返されるとはっ。全く信じられませんな。やはり引き取った事が間違いのようだ。この場をもってサバスティ家からの絶縁を宣言しましょうぞ!」
「ええ、ええ。そうですわ。この騒ぎの罰は全て、このセリーナにお与えください」
思いがけない展開に、観衆がざわめく。あまりの非道な仕打ちに血の気が引いた。
「それは真か?」
王子殿下は訝しげに床にへたり込んだままの私を見て、周囲の観衆を見渡した。救いを求めて周りを見るが、誰からも否定の声は上がらない。わざわざ前に出て私を助けるメリットなんてないからだ。
私も喉が凍りついたように言葉が出てこない。罪を否定したところで、後で叔父達の報復が待っているだけ。救いなどどこにもありはしなかった。
歪な周囲の空気に、殿下は引っかかりを感じたようだ。近くに来ていた警備官に視線を向けて、おそらく事情を説明させようと口を開いた。
「……くっ。あっはははははは!」
だが言葉を発する前に、急に魔公爵が可笑しくてたまらないというように笑い出した。
「ア、アーネスト?」
戸惑ったように魔公爵を見つめる殿下。マリエラ達はひっと息を呑んでその様子を凝視している。
誰もが固唾を飲んで見つめる先で、やがて笑いをおさめた魔公爵は私に視線を向けた。
「いやぁ、なるほど。すべては君のせいだったと。そういえば、随分と場にそぐわない格好をしているね?」
「……っ」
羞恥に耐えかねて、思わず視線を床に落とした。皆が一部の隙もなく着飾っているからこそ、この粗雑な格好はより際立つ。誰も好きでこんな格好をしているわけではないのに。苦しくて、涙が滲んでくる。
「祝賀会を騒がせた君は、先程絶縁を宣言されて貴族の身分すら持たなくなったわけだ」
もう、顔を上げる気力すらない。その私に、魔公爵はゆっくりと近づいた。床に落とした視界の端に、磨き上げられたブーツが見える。
「さて、僕は君をどうすべきだろうね」
急に目の前に、白くて細い指先が見えた。それは私の顎を掬って、意外と優しい力で上を向かせる。
上げた視線の先。まるでガーネットのように美しい赤の虹彩が、近くにあった。
少し身を屈めて私を覗き込む魔公爵は、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべている。逃げ場のない獲物を痛ぶるような嗜虐的な表情なのに、その美貌は汚れのない新雪のような神聖さがあり、魅入られたように目が離せない。
ああ、いっそ。死を司る神のように美しい目の前の人に、一思いにこの悪夢を終わらせてもらえたらいいのに。救いのない毎日に、もう疲れ果ててしまった。
その懇願が表情に表れてしまったのかもしれない。見つめる先の赤の双眸が微かに揺れ、探るような視線を向けられた。
己の浅ましい願いを勘付かれたようで、居た堪れない気持ちになる。その視線から逃れたくて、思わず目を閉じた。するりと顎を捉えていた指先が離れていく。
「はぁ」
密かに落とされたため息。
再び目を開けると、そこには相変わらず笑みを浮かべた魔公爵がいて、静かに私を見下ろしていた。