45:抱きしめる
エントランスから魔術でお帰りになった王妃陛下達を見送って、なんだかどっと疲れが押し寄せてきた。
王子殿下に続き陛下までお越しになるなんて、全く想像もしていなかった。けれど私達の後ろ盾になってくださるとのことだし、有難いことではある。でも疲れた。
「はぁ……」
アーネスト様も同じ思いなのだろうか。大きなため息が聞こえてきて、思わず隣を見上げた。少し翳ったその表情さえ綺麗でぼんやり見惚れしまう。
すると私の視線に気がついたアーネスト様がこちらを向いて、目があった。
「……」
「……」
「あの……」
何か言うべきことがある気がするけど、頭があまり回らない。何を伝えればいいのだろう、何を聞けばいいのだろう。
「甘えてもらえるように、頑張ります」
そして考えた末に口からこぼれ落ちたのは、なんとも頓珍漢な言葉だった。
陛下との最後の会話が頭に残っていたからなのだが、この場には全然相応しくなかったように思う。アーネスト様からも珍妙な生き物を見るかのような視線をもらってしまい、居た堪れない。
「……」
「……」
やってしまった恥ずかしさに、俯いて内心悶える。なぜ私は気の利いた一言とか、今後についての建設的な言葉とかが言えなかったのか。ダメ過ぎる。こんなことでは王宮でも恥を晒してしまうかもしれない。
そもそも人との交流を断たれた4年間が悪いのだと、涙目になって心の中で叔父一家を詰っていると、ふいに頭上から笑いを含んだ吐息が聞こえた。
そして、腕を引かれた。
「あっ、」
いつもの丁寧なエスコートとは違い、私の腕を掴んでさっさと歩くアーネスト様に遅れないよう、小走りに続く。追いかける私からは綺麗な黒髪しか見えなくて、アーネスト様の表情はまるでわからない。
でも目的地は目と鼻の先で、すぐに分かった。
アーネスト様がドアを開けるなり、来客のため閉じ込められていた猫達が、にゃーんと大歓迎で出迎えてくれる。
なぜ猫部屋かと混乱する私の腕を引いたまま、アーネスト様はソファに向かった。そして私の腰を引き寄せて、ソファに乱暴に身を沈める。
「……っ」
アーネスト様に背を向けるように斜めにソファに座り込んだ私の身体。後ろからぐっと引き寄せられて、温もりに包まれた。
少し痛いと思えるほどに後ろからきつく抱きしめられて、否応なく体温が上がる。
「あ、あのっ」
「甘やかしてくれるんじゃなかったのか?」
笑いを含んだ声が、すぐ耳元で響いた。
甘やかす? もしかして今、アーネスト様は私に甘えてくれていると言うのか。でも。
「わ、私が甘やかしてもらっているのではないでしょうかっ」
むしろ抱きしめてもらっている私が、甘やかしてもらってはいないだろうか。ああ、顔が熱い。心臓がうるさい。
ばくばくと全力疾走を始めた鼓動は、きっとアーネスト様に丸わかりだろう。猫達はいっぱいいっぱいになっている私の心情など分かるはずもなく、何やら2人で楽しそうだと私達の周りに集まっている。
「そうか?」
どうにか猫達に意識をやって平静を取り戻そうとするけれど、アーネスト様の楽しげな声が近すぎて無理だ。アーネスト様は声も素敵なのだ。それがすぐ耳元で聞こえるのだから、もうどうしようもない。
なす術なく固まっていると、アーネスト様もそれ以上言葉を紡ぐことなく、ただ私を抱きしめたまま動きを止めた。
私はノワを抱きしめるととても癒されるのだけれど、もしかしたらアーネスト様はそんな感覚で私を抱きしめているのかもしれない。身体に伝わる温もりは、心にもゆっくりとその温度を伝えてくれる。私にはちょっと、刺激が強すぎるけれど。
猫達も一緒になってソファで寄り添って、しばらくそのまま時間は過ぎる。ぽかぽかと温かくて、心地よい。お互いの呼吸と鼓動と、猫達の甘えた声が緊張して張り詰めていた神経をほぐしていく。
やがて少しだけ、アーネスト様の腕の力が弱まった。
その頃にはうるさかった私の心臓も大人しくなっていて、こんなふうに私を抱きしめるアーネスト様の心に思いを馳せる余裕も出てきた。少しいつもと様子が違うように思えるアーネスト様は今、何を考えているのだろう。私以上に、今日の陛下の訪問はアーネスト様に動揺を与えていたのかもしれない。
耳元でひとつ、アーネスト様が大きく息を吐いた。
「急な訪問で驚いただろう」
そう言ったアーネスト様はまだ私を後ろから抱きしめたままで、その表情は全く窺えない。
「はい。でもお力添えをいただけるのは有り難いことです」
「そう、だな」
少しの逡巡の後、アーネスト様は言葉を続ける。
「こんな形で訪問するなんて、てっきり私用かと思いきや……。僕の前では伯母としていることの多い方だから、王族として対することになるとは思わなかった」
その言葉に、少し不安になる。陛下の仰ったことはその言葉通りに受け取ってもよいのだろうか。アーネスト様の味方になってくれるというありがたいお話かと思ったのだけれど、私はまた認識がずれているのかもしれない。
「アーネスト様を心から心配されているご様子でしたが、何か別の思惑がおありということですか?」
「いや。むしろ王妃の地位についたことで、ようやく思う方向に物事を動かせるようになった、というのが正しいのかもしれない。ただその地位ゆえ、僕に魔公爵としての十分な働きも求めざるを得ないのだろう。昔は魔公爵の地位は諦めて平穏に生きろと、僕によく言っていたのだけどね」
アーネスト様の味方になりたくて、でも先王陛下の意向には背けなかったであろう王妃陛下。アーネスト様が危険な目に遭うのを憂いて平穏に生きて欲しいと願うのも頷ける。罪滅ぼしという言葉からも、当時を悔やんでいることが窺えた。
「先王陛下の行いを、申し訳なく思われておいでのようでした」
「それもあっての君への手助けだろう。まぁ僕自身は、先王陛下の判断は致し方ないと理解はしている。今時決闘での爵位継承というだけで驚くのに、それが未成年ともなればね。王家が後ろ盾になっていればと仰ったが、非難渦巻く中で、王として僕に魔公爵を任せることを躊躇うのは当然だ」
冷静で公平な言葉。思うところはあるだろうに、こうして客観的に物事を捉えられるアーネスト様を尊敬すると共に、少しだけ胸が痛い。行き場のないやるせなさを、アーネスト様は溜め込むことなく消化できているのだろうか。
「今日の訪問は、いわば今後の両家の方針についての意見合わせだ。王家と魔公爵の強固な関係性を見せつけて、付け上がった魔爵家を抑え僕により権力を集中させようという、ね。だがそれも、僕が実績を積んだからこそできることでもある」
そっと、小さなため息が聞こえた。
「……色々なことを鑑みれば、きっとそれなりの地位の魔爵家から誰か娶る方がいいのだろう。だが、さすがに僕もそこまで割り切れない」
その言葉が、胸を締め付ける。陛下がアーネスト様の事を自分に厳しいと評されていたけれど、アーネスト様は割り切れない自分を後ろめたく思っているのかもしれない。
でも心を殺せない自分を、責めないでほしい。それを求められるほど、今国が危ういわけでもないのだ。
「陛下も殿下も、アーネスト様にそれを望まれてはいないでしょう。望んでいれば、あの祝賀会のように魔爵家以外が多く出席する会なんて開かないはずです」
「……ああ、そうだな。それに僕はもう、君を妻にすると決めた。君が逃げ出さない限りね」
「私もアーネスト様に追い出されない限り、ここに留まると決めました。ですので割り切って魔爵家から妻を選ぶことにしたなんて仰られたら、きっと泣いてしまいます」
そう言うと、ふっとアーネスト様の笑いを含んだ吐息が耳元をくすぐった。
「なら、このままずっとここにいればいい。そうすれば僕も、気に入らないやつをこの屋敷に迎えなくていいのだから」
一瞬抱きしめる腕に力がこもって、そしてゆっくりと離れていく。ようやく振り返って見えたアーネスト様の表情は穏やかで、内心ほっとした。
少しは心の慰めになれたのかと嬉しく思っていると、アーネスト様が膝に寄りかかって幸せそうにしていたバーリィを持ち上げて、私の膝に乗せた。ちょっとふくよかな体型のバーリィなので、ノワよりもずしりと重みを感じる。
「これはまた少し太った気がするな。君も見習ったらどうだ?」
「えっ」
このタイミングでこのセリフ。穏やかだった胸の内に、よくない想像が駆け抜ける。
「も、もしかして、私の抱きしめ心地が悪かったという事ですか!?」
思わず勢い込んで尋ねた私に、アーネスト様はちょっと目を見開いてから、次いで揶揄うような笑みをその口元に浮かべた。
「どうかな?」
そして、サッと立ち上がってドアの方へと向かってしまう。
地味にショックを受けてその背中を呆然と見送っていると、そのまま姿を消すかと思われたアーネスト様はしかし、ドアを開けてから顔だけ振り返った。
「まぁ、君に甘えるのは思った以上に気が晴れた」
それだけ言って、今度こそ部屋を離れていってしまった。
……顔が熱い。
アーネスト様のこの、最後にこちらの心を攫っていく手腕はなんだろう。いつも私はしてやられてしまう。
「うぅ……」
思わず、膝の上でアーネスト様を見送り損ねて残念そうにしているバーリィを抱き寄せた。短毛のノワとは違う、ふかふかの長毛が気持ちいい。
すごく迷惑そうな顔をされてはいるけれど。
すぐにバーリィには逃げられたので、代わりに寄ってきてくれたノワを抱きしめる。私を抱きしめていたアーネスト様の心も、今の私のように癒しを感じてくれていればといいなと願いながら、その温もりを堪能した。




