43:お忍び
幸せな心地で目が覚める。
少し視線を巡らせると、花瓶にいけられた薔薇が目に入った。アーネスト様の目と同じ色のそれに、ほんのりと胸が温かくなる。
ゆっくりと身体を起こすと、ガラスの薔薇も視界に入った。昨日ちょっと呆れられつつも、それがどれほど美しく素晴らしい品で尚且つ私にとって嬉しかったのかをアーネスト様に力説したのだけれど、まだまだ伝えきれている気がしない。
幸せな悩みだ。
こうしてたくさんのことをしてくれるアーネスト様に、私が返せるものはなんだろう。そう思うたび、何も持たない自分にちくりと胸が痛くなる。
でもそこに引け目を感じていることを、もうあまり表に出したくなかった。アーネスト様は、私が喜ぶことを喜んでくれる。だからせめて、してもらったことに対して純粋な感謝を返したかった。そこに卑屈な遠慮や劣等感は、きっと邪魔になる。
前向きに。前向きに。
アーネスト様が私に向けてくれる心を、何より大切にしたかった。
「アーネスト!」
今日はアーネスト様がお休みの日だったので、朝食に続き昼食も一緒に取ることができた。しかも午後の魔術訓練は昨日の夕方からマリアさんがお休みのため、なんとアーネスト様が見てくれることになっている。
とても楽しみにしながら部屋で読書をしていたのだけれど、そろそろ訓練の時間かなという頃、急に屋敷内によく通る女性の声が響き渡った。
「?」
何事かと一瞬身構えたが、おそらくアーネスト様の部屋からだろうバタンという慌てた物音に倣って、とりあえず部屋のドアから外を覗いた。
そしてアーネスト様の陛下っと言う声に、猛烈な焦りが湧いてくる。
まさか翌月末の夜会まで待てなかった王妃陛下が、殿下に倣ってお屋敷に来てしまわれたのだろうか。どうしよう。ご挨拶をした方がいいと思われるが、お屋敷まったりモードのドレスのまま馳せ参じて良いのだろうか。アーネスト様に呼ばれるまで待機しておくべき?
無意味に部屋と廊下の境をうろうろしていると、下から素早く上がってきたエーゼルさんと目があった。
「あ、あのっ」
「お気づきと存じますが、王妃陛下がいらしておいでです。ご挨拶をお願い致します」
「この格好のままで良いのでしょうか?」
「突然のご訪問ですし、よろしいかと。おそらく滞在時間もさほど長くありません。お待たせするよりは早くお会いされた方が喜ばれましょう」
「で、では行って参ります」
心を決めて足早に階段へと向かう。階段まで出て上からさっと状況を確認すると、陛下であろう黒髪の存在感のある女性の前でアーネスト様が対応している。と、陛下がこちらに気がついて上品に手を振ってくださった。
一礼して、足早に階段を下りる。急いで半分下りたところの切返しフロアで、急にアーネスト様が目の前に現れて驚いた。
「やれやれだな、まったく」
小声でぼやきながら手を差し出されて、そこに自分の手を重ねる。
「王妃陛下もこのお屋敷に来られるのですね」
「まさか。こんなふうにお越しになるなんて初めてのことだ。よっぽど君に会いたかったらしい」
「まぁ……」
小声で会話しながら階段を下りて、緊張しつつ陛下の前へと進む。するとこちらが礼をする間もなく、陛下の方からぱっと駆け寄ってこられた。
「あなたがセリーナね! 会えて嬉しいわ。一昨日は手紙をありがとう」
近くで拝見した王妃陛下は、豊かな黒髪に王子殿下そっくりの空色の目が印象的な美女で、その迫力のあるオーラに一瞬呑まれてしまう。
「セリーナと申します。こちらこそ先日はお心遣いに溢れた手紙をいただき、誠にありがとうございました。お会いできて大変光栄に存じます」
慌てて礼をすると、王妃陛下は殿下そっくりの顔でカラリと笑われた。
「そんなに畏まらないで頂戴。それにしてもナイシェルトの言っていた通り、2人ともいい雰囲気なのね。あぁ、良かったわ。あの子が縁談や夜会を一生懸命企画していたのが、こんなに素敵なご縁に繋がるなんて」
「……」
「……」
私からするとその通り、殿下の祝賀会開催がなければアーネスト様と出会えなかったので感謝しかないのだが、色々振り回されていたらしいアーネスト様を思うと安易に頷けない。
「陛下、とりあえず応接間へ。……お前達はその辺で待っていろ」
曖昧な笑みを浮かべていると、アーネスト様が陛下を応接間へと促し、そして護衛の魔術師さん達をひと睨みした。よく見ると2人のうち1人は先日王子殿下と一緒に来られていたのと同一人物の気がするのだが、もしかして陛下は殿下の護衛を借りてこられたのだろうか。
もう1人は女性の魔術師で、アーネスト様の視線に顔を青くしていた。
「ふふっ、嬉しいわ。アーネストのところにこうしてお忍びで来られるなんて。ナイシェルトに無理を言って護衛を借りてきた甲斐があるというものよ」
「私用で魔術師の任務を変更するのはお控えいただきたいのですが」
「分かっているわ。わたくしも陛下に叱られたくはないもの。今回だけよ、特別!」
一歩下がって、アーネスト様に王妃陛下をエスコートしてもらう。そしてエーゼルさんに護衛の方達をよろしくねと視線で伝えて、私も2人の後から応接間へと続いた。
そして陛下をソファに案内し終わったアーネスト様と並んで、その対面に腰掛ける。エーゼルさんが風のような速さでお茶を出して退出した後、陛下が微笑んで口を開いた。
「まずは、婚約おめでとうと言わせて。祝賀会でのことを聞いて心配していたのだけれど、2人が自然に並んでいるのを見て安心したわ。アーネスト、彼女の前ではずいぶん表情が柔らかいのね。自分で気付いてる?」
「……自分の屋敷で気を張る理由もありませんので」
「ふふっ。そういうことにしておくわ」
おかしそうに笑った陛下の空色の双眸が、私へと向けられた。
「今日来たのはね、昨日頼まれたセリーナの教師の件。陛下ともご相談して色々と考えたのだけれど、ここへ教師を手配するのではなくて、セリーナを王宮へ通わせるのはどうかしら?」
そして思いもよらない提案を、私達に投げかけたのだった。




