42:薔薇
「おかえりなさ……」
いつもより少し遅くアーネスト様の姿が現れて、そして思わぬ光景に言葉を失った。
真っ赤な薔薇の花束。両手で抱えるほどのそれを腕にしたアーネスト様は、まるで一枚の絵画のように完成された美しさでそこに佇んでいる。思わず見惚れていると、薔薇と同じ赤の双眸が私に向けられた。
「ほら」
そう言って渡された花束を、無意識に受け取る。ずしりと腕に重みがかかって、ようやく現実感が戻ってきた。
「これは……」
「婚約者には、花束を贈るものなんだろう?」
どこか得意げに告げられた言葉に、ぐっと胸が詰まった。
アーネスト様は、何も持たない私を大切にしてくれている。私に気持ちを傾けてくれている。特にここ数日、それが言葉や態度で伝わってくる。
婚約だって、昨日の話し合いだけで信じられないほどに嬉しかった。なのにアーネスト様は、私のためにこれ程立派な花束まで贈ってくれた。
「う、嬉しっ……っ、」
こんなに幸せでいいのだろうか。胸の内に収まりきらなかった幸福が、止める間もなく涙となって溢れ出てしまう。
花束を抱えたままポロポロ泣き始めた私を見て、アーネスト様が軽く苦笑した。
「本当に忙しいやつだな、君は」
その細くて長い指が優しく頬を撫でて、そしていつかのようにハンカチで涙を拭ってくれる。そういえば寝込んだ時も、アーネスト様の優しさに触れて泣いてしまったのだった。婚約者とは手のかかる生き物だな、なんて。そんなふうに思われているのかもしれない。
「ありがとう、ございます。とても、とても嬉しいです」
「なら早く泣きやめ」
「薔薇をお持ちのアーネスト様は、とても格好良かったです」
「僕の話を聞いているか?」
ふふっと笑みが溢れる。ようやくとまってきた涙に、アーネスト様がやれやれというような表情を浮かべた。
「君が泣くほど薔薇が好きだとは思わなかった」
「アーネスト様がこうして贈ってくださったことが嬉しいのです。幸せが過ぎて溢れてしまいました」
「君は幸せの基準が低くないか?」
「これを幸せでないと言う人なんて、それこそ信じられません」
薔薇を抱きしめると、ふわりとよい香りが鼻腔をくすぐる。
「そもそもアーネスト様の婚約者にしていただけた時点で、私は幸せでいっぱいだったのです。なので今、世界で一番幸せである自信があります」
「はいはい、まったく大袈裟なことだ」
そっけない口調だけれど、アーネスト様の顔には優しい笑みが浮かんだ。
その指がすっと私の髪をすいて、思わずうっとりしてしまう。見上げた先の美しい瞳も私を見つめてくれていて、まるで魔法にかけられたように目が離せない。
しばし状況も忘れて見つめ合ってしまったけれど、やがてアーネスト様がハッとしたように私の後ろを見て、軽く咳払いをした。
「まぁ、ずっと持っていると重いだろう。部屋に運ばせるといい。階段で転けると割れるかもしれないから、そのまま自分で持って上がろうとしないように」
割れる?
さっと私の横をすり抜けて部屋へと歩き出したアーネスト様を目で追って振り返ると、一緒にお出迎えしていた使用人の皆さんが目に入った。
「あ……」
完全にアーネスト様しか見えていなかったけれど、皆はじめからそこにいたのだ。先ほどのやりとりも一部始終見られていたに決まっている。なんだか皆の視線が温かい。
は、恥ずかしい。
今更ながら羞恥に頬を染めていると、口元の笑みが隠しきれていないフリエさんが、そっと手を差し伸べてくれた。
「長く保つよう処理をしまして、後ほどセリーナ様の部屋にお運び致しますね。よろしければ花瓶もお好きなものを選ばれますか?」
「そ、そうですね。あと何本かドライフラワーにしたいのですが……」
「まぁ、素敵ですね。ではあちらの部屋に花瓶を運ばせますので、ドライフラワーにする薔薇もお選びください」
「ありがとうございます」
フリエさんに花束を渡しながら、ふと先程アーネスト様が口にした、割れるという言葉が気に掛かった。
フリエさんが持ってくれた花束を改めてじっと観察する。するとたくさんの薔薇の中に一輪、違う輝きのものが混じっていることに気がついた。真ん中あたりにあるそれを、慎重に引き抜く。
現れたのは、たいそう見事な薔薇のガラス細工だった。
「素敵……」
私の手の中で控えめな輝きを放つそれは、精巧な作りで目を奪われる。光に透ける赤の花弁はまるで本物の薔薇の花のように美しく、おそらく銀で作られた茎や葉も繊細な細工を施されていくら眺めていても飽きが来ない。
思わず見惚れてしまう。
「本当に美しいですね、ヴェザーリアの品でしょうか」
感動していると、同じく薔薇に目を奪われていたフリエさんが感嘆のため息と共にそう言葉をこぼした。この見事な出来栄えは、確かにガラスと工芸の国として名高いかの国の一品かもしれない。
「そうかもしれませんね。これほどに見事な細工は初めて見ました」
「できればガラスケースに入れて保管したいお品ですね」
そう言いながらフリエさんがエーゼルさんに視線をやる。するとエーゼルさんが一つ頷いた。
「ええ、明日にでも手配致しましょう」
ガラスケースも質の良いものはほぼヴェザーリアからの輸入品なので大変高価なのだが、あっさりと手配しますと言ってしまえるここの使用人の皆さんがちょっと怖い。そもそも質の良いガラス窓をふんだんに使用しているこのお屋敷自体、並の貴族では到底手が出せない域のものなのだけれど。
格差を感じてちょっと遠い目をしていると、にゃっと足元から声をかけられた。
「ノワ」
いつものように足元で遊ぶ時間だと誘われているけれど、手にはガラスの薔薇を持っているし、花瓶やドライフラワーにする花も選びにいかなくてはならない。
「今日はお夕飯の後でもいいかしら」
そうお願いすると、仕方がないなというように尻尾でぺしりと私のドレスの裾をはたいて、のそりと部屋へと戻っていった。聞き分けがいい。
そうしている間に候補の花瓶も並べてくれたようで、フリエさんと部屋へと移動した。ドライフラワー用に形の良い薔薇を10本ほど選んだけれど、まだ40本ほどあるので、花瓶も複数選んで生けてもらうことにする。ガラスの薔薇も背の高い一輪挿しに飾って、改めてその美しさに惚れ惚れしてしまった。
生花の薔薇は、保っても2週間ほどで枯れてしまうだろう。ドライフラワーにしても数年保てばいい方だ。
でもこのガラスの薔薇は枯れたりしない。割らないように大切にすれば、ずっとこのまま変わらずにある。それがすごく嬉しい。
アーネスト様はこんなに乙女心をくすぐる手法を、どこで学ばれたのだろう。そんな手法を駆使せずとも、私はすでに完敗状態なのに。
ちょっと気を抜くとにやけてしまいそうになる表情をなんとか取り繕いながら必要なことを決めて、そうこうする内に夕食に呼ばれたので食堂へと移動する。
アーネスト様にこの喜びと感謝を伝えずにはいられない。胸の中にある気持ちを表す言葉を探しながら、高揚した気分で夕食の場へと赴いたのだった。




