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41:僕の婚約者

 朝。

 自然と目覚めて、まだ見慣れない、けれどとても居心地の良い室内をぼんやりと見回した。身体を包む寝具の気持ちよさに、またうとうとと夢へと誘われそうになる。


 居候の身でなんて贅沢な……と思って、昨日の出来事が頭に蘇った。ああ、私はもう居候ではなく、婚約者だった。


 『ただ僕が、この関係に名前をつけたくなっただけかもしれない』


 アーネスト様が言ってくれたセリフが脳裏に浮かんで、心をくすぐる。そしてなぜかその前日に触れた唇まで思い出されて、一人ベッドの中で悶えた。

 これが恋か。なんて甘くて恥ずかしくて幸せな感情だろう。謎の無敵感が湧いてきて、今なら誰に嫌みを言われても、にっこり余裕で返せるに違いないと思えてくる。


 ちょっと心が落ち着くのを待って、そして心の乱れを払うようにぱっと身体を起こした。

 ただ喜んでいるだけではいけない。来月末の夜会に備えて、ダンスの練習はもちろん、当日の装いについても詰めていく必要がある。やるべきことを色々と頭に思い浮かべなから、大きく身体を伸ばした。


 後悔のないよう、できることは全てやろう。今の私にはそれを手助けしてくれる人たちもいるのだから。あの4年間のように、何かしているようで何もできていない日々を過ごすのは、もう嫌だった。








 屋敷内にはもう婚約のことが広まったのか、朝からどこか浮き立った空気が周りを包んでいる。

 アーネスト様はいつもとまるで変わりない様子だけれど、朝食が運ばれてくると思わず2人で顔を見合わせて笑ってしまった。


 バラの形にされたハム、野菜や果物も繊細かつ華やかな飾り切りが施されており、料理長からとても祝われているようだ。芸術品のような見た目のそれは、食べてしまうのが勿体無く感じる。


「やれやれ。どうやら僕の婚約者は、この屋敷の使用人達に随分と好かれているらしい」


 僕の婚約者。

 僕の妻から一見格下げになったみたいだけれど、中身が伴う分今の方が断然嬉しい。思わず顔がにやけてしまう。


「アーネスト様が私に優しくしてくださるから、皆さんも私に優しくしてくれるのです」


 このお屋敷は、あくまでアーネスト様が中心だ。私が受け入れられているのも、アーネスト様が私を受け入れてくれているからに他ならない。好かれているのは言うまでもなくアーネスト様の方なのだ。


「私も皆さんも、アーネスト様のことが大好きなのです」


 使用人の身では伝わらないこともある、といつかマリアさんは言っていた。なら、私からなら届くだろうか。

 分からないけれど、みんながアーネスト様のことを大切に思っていること、その幸福を願っていることが、少しでも伝わってくれたら嬉しい。


 その願いは、きっと届いたのだろう。

 ぐっと言葉に詰まったアーネスト様は、そのまま無言で朝食を口に詰め込み始めた。

 穏やかな気持ちで、私も朝食に手をつける。食べるのが勿体なく感じるが、体型を元に戻すべくしっかり食事を取らないといけない。


 ここにきて2週間。食事も睡眠もしっかり取れて、しかもフリエさん達が髪や肌のケアをしてくれるおかげで、自分では結構回復してきたと思う。この調子で少しでも、アーネスト様の横に並んで恥ずかしくないようになりたい。


 パンを手に取って、いつものようにジャムを選ぶ。するとジャムではなさそうな、ナッツの混ぜられた白っぽいものが気になった。興味のままたっぷりつけて食べてみると、ベースはホイップバターのようだった。そこにチーズの風味とナッツの香ばしさ、カリカリした食感が合わさって、すごく美味しい。

 バターにもこんなアレンジがあったなんて驚きだ。このお屋敷の料理人さんは本当に腕がいいなぁと感心しながら楽しませてもらう。


 私の様子を見ていたアーネスト様も珍しくそれに手を伸ばして、そしてどうやら気に入った様子だった。きっと料理人さんも喜ぶだろう。

 平和な朝の時間はあっという間に過ぎて、アーネスト様は今日もお仕事へ行ってしまう。明日はお休みらしいので待ち遠しい。見送った後の寂しさを誤魔化すように、足早に自分の部屋へと戻った。







 午前中は手早く新聞をチェックした後、身の回りの世話をしてくれる使用人の皆さんを集めて来月の夜会の装いを相談するうちに、あっという間に時間は過ぎた。

 今はフリルやリボンを多用した派手なドレスより、シンプルで上品なドレスが流行りらしい。私のピンクのフリフリドレスは悪目立ちしていただろうなと悲しい気持ちになった。


 そういえばあれ以来あのドレスを見ていないけれど、どうしたのだろう。2度と私の目に入らないところに捨てていてほしい。

 とりあえず衣装部屋に揃えてもらっていたものを試着して、淡いブルーグレーの繊細なドレスに決まった。


 透けるような薄い生地が重ねられたそのドレスは、ウエストを艶やかな黒の長リボンで締め、ところどころに縫い付けられたビーズが光を反射して輝く上品で美しいものだった。

 アーネスト様の目の色に合わせた真っ赤なドレスもいつか着てみたいけれど、残念ながら今の私ではドレスに負けてしまうだろう。そう思われているのか、そもそも衣装部屋に揃えているのは優しい色味のドレスが多かった。理想と現実の差がまざまざと見せつけられている。


「髪飾りはどうしましょう」

「リボンを編み込みますか?」

「この薔薇のヘアアクセサリーもセリーナ様のお髪に映えると思うのですが」


 私がひっそり落ち込んでいる間も、周りの皆さんはあれこれ楽しそうに打ち合わせをしている。ドレスさえ決めてしまえば髪型や合わせるアクセサリーは皆の意見を聞いた方が確実だから、ある程度お任せする方がよいだろう。


 鏡に映った自分を見る。こうした華やかな装いをすると、やはり若干見窄らしい感じが否めなかった。どうにかしてこの1ヶ月半でいい感じの身体になれるよう、調整しなくてはいけない。4年の間でついた下を向いてしまう癖も直さなくては。


 背筋を伸ばして、前を向いて、笑顔で、堂々と。私は望んでこの場所にいるのだと、せめて態度で示せるように。それでなくとも身分で足を引っ張るのだ。軟弱な態度で、さらにアーネスト様を貶める材料を与えるわけにはいかない。

 いっそダンスだけではなく、立ち居振る舞い含めた礼儀作法の教師にも見てもらえるよう手配をお願いした方がいいだろうか。アーネスト様が帰ってきたら相談しようかと思いながら、賑やかな皆の声に耳を傾けた。


 結局髪型は検討継続となって決まらなかったけれど、午後には火を消す魔術を成功させることができたし、料理長とも短期間で健康的に見える身体を目指す為の食事について相談できた。ちなみに料理長は大柄で、腕の太さもアーネスト様の2倍は軽くあるような立派な体格だ。この厳つい風体からあの繊細な料理たちが生み出されているのだから、とても不思議に思ってしまう。


 屋敷管理業務についてもマリアさんから一部私に引き継ぎしてもらう話も出てきて、小躍りしそうなほどに嬉しかった。

 この調子で一歩ずつ前進しよう。そう決意を新たにして、アーネスト様の帰りを待った。


 アーネスト様はその日、少し遅れて姿を現した。

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