40:幸せの象徴
「はぁ。本当に君は……」
私の考えることは筒抜けなのだろう。
答えを聞くまでもなく悟ったアーネスト様が、頭痛がするとでもいうように目頭を抑えた。撫でられていた手が離れたノワがむくっと起き上がって、私の膝へと移動してくる。可愛い。
膝へやってきたノワを撫でていると、アーネスト様の膝にはバーリィが移動してきて丸くなった。その場所は交代制なのだろうか。
「もう少し考えてはどうだ? 君は魔爵家の出でもなく、派手に絶縁宣言までされている。それも含めてあれこれ蔑みの言葉が耳に入ることは想像に難くない。先日の祝賀会のような殿下が気まぐれに開くものならいいが、そうでなければさすがの僕でも気に食わない奴を片っ端から吊し上げることはできないんだぞ」
殿下主催の会でも普通そんなことはできないと思うのだが、アーネスト様の常識は恐ろしい。まぁ、先の祝賀会は自身が主役という面も大きかったのだろうけれど。
「私、嫌みには耐性があります。怒鳴られたり食事を抜かれたりするのは全然慣れなかったのですが、嫌みは聞き流しておけばそう実害はありませんので……」
「だが棘のある言葉は、心に刺さればなかなか抜けないものだ。僕への鬱憤から、君のことをことさら貶めて話す者たちが出てくることは確実だろう。魔公爵の妻には相応しくない、身の程を知れ。そんな言葉はもちろん、もしこの先子を授かったとして、その子どもの能力が低ければ何の根拠もなく君が悪様に言われる。広い会場で周りが賑やかで華やいでいても、不思議と悪意ある言葉は耳に入ってきてしまうものだ。それを平気とは言えないだろう」
アーネスト様はきっと、そういったこれみよがしの陰口をずっと聞いてこられたのだと思う。だからこそ、それが心を蝕むものだと知っている。そして私を心配してくれている。
「確かに傷つかないとは言えません。でも他人から言われた言葉で、アーネスト様のそばを離れたいとも思わないでしょう。ただアーネスト様ご自身から言われるのであれば、話は別です」
「言っておくが、さっきのは僕の心情ではない」
「ですが普通に考えて、私が魔公爵家に相応しくないのは事実です」
婚約を今すぐ受けたい。でもその前に、私もアーネスト様に確かめておきたいことがある。
「アーネスト様こそ、私を妻にすることで要らぬ蔑みを受けます。先ほど正式に爵位を継いでからは少しづつ状況は改善してきていると仰いました。もう少し待てば釣り合いのとれる優秀な女性を妻にできる可能性も上がるのに、地位も資産も魔術の才もない私に今決めてしまっては、後悔されるのではありませんか。それに後継も、魔爵家の女性を娶った方が優秀な子が生まれるのではないでしょうか」
私は何より、アーネスト様に君を選んだのは失敗だったと言われることが怖い。あの時助けるんじゃなかったなんて言われたら、きっと立ち直れないだろう。
私が婚約を受けるか否かの最終的な判断基準は、アーネスト様の思いだけだった。
私の真剣さが伝わったのか、アーネスト様が少し躊躇ってから口を開いた。
「僕は今更何を言われようと気にはならないし、地位も資産も魔術の才も自分が持っている。そこを妻に頼る必要は全くない。むしろ……君をここへ連れてきて気付いたが、それを持たない方が僕は安心するらしい。他の魔爵家に対する警戒心や猜疑心は、いまだに抜けない。そんな対象をこの家に入れては、きっと気が休まらないだろう」
言葉にされて、少しだけアーネスト様の胸の内を理解できた気がした。
何も持たない無力な私だからこそ、アーネスト様はさほど警戒せずにいられる。魔爵家との関係もなく、家のしがらみもない。むしろ生活の全てをアーネスト様に頼る私には、裏切る理由も力もないのだ。
「それに君がここで楽しそうにあれこれしているのを見るのは気分がいい。君が大袈裟に感謝するたびに、自分が上等な人間であるかのように感じられる」
「アーネスト様は自覚が足りていらっしゃらないだけで、とても素晴らしいお方です」
「とにかく! 僕は自分が気に食わない提案などしない」
軽く咳払いして、アーネスト様は言葉を続ける。
「あと子どもの能力に関してだが、優秀な者同士の子どもが必ずしも優秀という訳でもない。運の要素の方が大きく、案じるだけ無駄だ。それに今となっては見る影もないが、本来の地爵家は魔爵家のスペア、と言っては聞こえが悪いが、魔術師の血の温存のために設けられた身分だ。能力を錆びつかせているとはいえ、魔術師たる血の濃さだけ見れば魔男爵や魔子爵辺りとそう大きく変わらないはず。それに君自身に限ると、魔術的センスもそう悪くはないらしい」
良くもないしまだ未知数なところが多いけれど、少なくとも壊滅的センスではなくてよかった。密かにほっとしていると、アーネスト様は言葉を続ける。
「ただ、どの家でも後継にふさわしい子に恵まれなかった場合、他家から養子を取ることもある点は理解してほしい」
「はい」
それは稀にではあるが地爵家でもあり得ることなので、理解できた。
深呼吸して、頭の中を整理する。アーネスト様の言葉を聞いても、私の中の答えは変わらない。きっと、後悔しない。
心を決めて赤の双眸をまっすぐ見返し、口を開いた。
「であれば、私は婚約をお受けしたいです。ですがアーネスト様の方こそ、考えるお時間が必要でしょう。本当に私でよろしいか熟考いただき、覚悟が決まられましたらお話を進めてください」
「……なぜ君の覚悟を問うための場で、僕の覚悟の方を問われているんだ?」
アーネスト様が少し釈然としない表情を浮かべているけれど、外野から身の程知らずの謗りを受けることは言われるまでもなく分かっていたことだ。アーネスト様が私で良いと仰ってくださるのならば、私はそれだけでいい。
むしろ益がないのはアーネスト様の方なのだから、よくよく考えて欲しかった。後から撤回される方が絶対に傷つくし、私はみっともなく泣き縋る自信がある。
とりあえず私としては聞きたかったことを聞けてすっきりしたので、穏やかな気持ちのままノワを撫でることにする。ツヤツヤの毛並みがとても気持ちいい。
そんな風に呑気にしていると、こちらを見て何やら考え込んでいたアーネスト様が、不意に揶揄うような笑みを浮かべた。
「君は随分と余裕そうだが、僕には殿下や王妃陛下という面倒な人物が近くにいることを忘れていないか? 婚約を伝えれば、王妃陛下は君に会いたいと騒ぎ出すだろうね」
「えっ!」
「まぁ君の覚悟は決まっているというのなら、今月末にでも婚約を発表するか。ちょうど来月末には王妃陛下主催の夜会がある。そこで君を紹介するとでも言えばそれまでは大人しく待つだろう。……たぶん」
最後のたぶんが不穏すぎる。そして夜会と言われて、急に色々なことがどっと頭に押し寄せてきた。
成人目前で両親を亡くすまでは、伯爵家の者として相応しい教育を受けさせてもらっていたと思うし、最近マナー関係は頭に入れ直してはいる。けれど私はまともに社交界に出席した経験がほとんどない。デビューの時だって体調を言い訳にほぼ壁と同化させられていたし、この間の祝賀会も途中までは似たようなもの。
更にいうとダンスはその時々の流行りもあるし、そもそも教師としか踊ったことがなく、この4年程はおさらいの機会もなかった。
「あ、あのっ。その夜会ではダンスも踊るのでしょうか」
「まぁ、陛下方に言われて披露目に踊らされる可能性もあるな」
「大変、大変申し訳ないのですが、教師の手配をお願いできないでしょうか」
半泣きでアーネスト様にお願いすると、ふっと笑われた。
「なんだ、ダンスが苦手なのか?」
「苦手ではなかったのですが、この数年踊る機会がなくて……」
「ああそうか。愚問だったね。なら何かしら関わりたくて仕方がない様子の王妃陛下に、人選を依頼するか」
「陛下に……」
アーネスト様は親戚に頼む感覚で——いや間違いではないのだが——そう仰るが、私の教師の手配を王族の方にお願いしていいものなのだろうか。
「まぁ頼めば踊ることは確実になるが、そもそも王妃陛下は華やかな催しが好きでね。頼まなくとも踊らされる可能性は高い。なら曲まで指定しておく方が君も安心だろう」
「そう、ですね……」
おかしい。婚約の話が進んで本当なら飛び上がって喜ぶところなのに、アーネスト様の言葉のせいでそれどころではないような気にさせられている。
今は月の半ばなので、あと半月で婚約発表、それから一月後に発表後初めての社交界出席になる。それまでにこの容姿ももっとまともになるだろうか。アーネスト様が私を虐げているなんて噂が立ったら申し訳なさすぎる。
色々考えて黙り込んだ私を見て、アーネスト様はくっと笑った。
「君が降参するなら、発表を伸ばすけど?」
「こ、降参しません! ダンスは割と好きだったので大丈夫です。あとはそれまでに美女に化けるための手段を、フリエ達と相談しなくてはなりません」
「ふっ、美女にねぇ。僕も期待しておこう」
「うぅ……」
「慣例通り、婚約期間は1年でいいだろう。君が逃げ出さなければ、その後君は正式に『僕の妻』だ」
「妻……」
夜会とダンスに関わる諸々や美女に化けるだなんて口にするんじゃなかったなんて後悔が渦巻いていた心に、さっと光が差す。妻。アーネスト様の妻。その言葉で、吹き飛ばされていた嬉しさがまた沸き起こってくる。
「本当にアーネスト様に妻にしていただけるなんて、夢のようです」
「僕もまさか、君を妻にする道へ進むなんて思わなかった。婚約さえ、先週の段階では考えていなかったというのに。……性急だとは思うが、なぜか早い方がいい気がしてね」
「なにか懸念があるのですか?」
アーネスト様に急ぐ理由などないように思えるのに、こんなに早く婚約までしてしまうなんて不思議に感じる。私の立場を鑑みてのこともあるだろうけれど、それにしても決断が早い。
「いや、ただの勘だ。だが僕は、自分の勘は信じることにしている。君とならこのままいられる気がするが、同時に早く決めてしまわないと、君がどこかへ行ってしまう気もした」
「私は追い出されない限り、ここにとどまると思いますが……」
「そう、だな。ただ僕が、この関係に名前をつけたくなっただけかもしれない」
他人事のような口調だが、その内容には頬が熱くなってしまう。私とアーネスト様の関係に、婚約者という名前がつく。私もそれはとても嬉しい。
「ま、僕がどこかの姫とかセナーデ国の天人の瞳を持つ令嬢を娶るとかいえば難癖をつけてくる者もいるだろうが、君であれば他の魔爵家は内心大喜びだろう。どこからも邪魔は入らないはずだ」
それはアーネスト様が更に力をつけることは面白くないけれど、反対に私であれば嫌みを言う隙もできるので、他の魔爵家は歓迎ということか。邪魔をされないと言われても素直に喜べない。
「セナーデ国には天人の瞳を持つご令嬢がいらっしゃるのですか?」
「ああ。セナーデも廃域に接した国だから、他国に出すことはしないだろうけどね。炎の大魔術以降、近隣諸国でも天人の瞳を持つ者はなかなか現れなかったから、彼の国ではその出現を大々的に祝い保護している。この国でいうと男爵位の生まれではあるが、近く王族と婚約を発表するとの噂だ」
「王族の方と……」
天人の瞳の所有者はかなり重要視されるものらしい。そんな人であればアーネスト様との釣り合いも取れるのだろうなと、少し羨ましくなった。
「それはともかく、君は翌月に備えてくれ。夜会では僕がそばにいるし、義理を果たせばさっさと帰る予定だからそこまで構えなくともいい。足りないものがあれば遠慮なく言うように」
「はい、ありがとうございます」
とりあえず婚約へ進めたことは素直に嬉しい。その私の感情が伝わったのか、ノワがよかったねと言うように手を舐めてくれる。可愛らしい小さな頭をそっと撫でた。
釣り合わない苦労はあると思う。けれどアーネスト様とこの先も一緒にいられるのだ。それも、最も近い場所で。
その事実が胸の内を温めて、自然と顔がほころんできた。見上げた赤の双眸も柔らかい光を宿している。
と、不意にその美しい顔に、こちらを揶揄うような笑みが浮かんだ。
「ではご希望通り、今後君を婚約者として扱うことにしよう。ああ。君もまさか、嫌とは言わないよね?」
どこか聞き覚えのある言い回し。すぐに祝賀会の一場面が頭を過ぎった。
無様に床にへたり込んだ私。それを見下ろす冷たい視線。否定を許さない威圧的な口調。
あの時は震えるほどに、アーネスト様のことが恐ろしかった。
その目にとまってしまった己の不運に絶望し、真っ暗な闇の中へ落ちていく心地がしたのに。その先にあったのは冷たい闇ではなく、淡く光を放つような、幸せな日々の始まりだった。
じわりと、胸が熱くなった。
「はい」
見返した赤の双眸は私の心を反射するようにきらきらと輝き、悪戯めいた瞳は楽しそうに私を映している。
「ああ、快諾してくれて良かったよ。これからよろしくね?」
笑いを含んだ声と共に差し出された手を、逃がさないようにぎゅっと両手で包んだ。私を明るい世界へ引っ張り上げてくれた手の、その温かさが愛おしい。
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
祝賀会では言えなかった言葉がすんなり口から出てくる。そんなに月日が経ったわけでもないのに、あの時と全く真逆の心情の自分がなんだかおかしかった。
見上げた先にある澄んだ赤。出会った時は恐ろしさを感じたその色は、今や私にとって幸せの象徴だった。




