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38:乾杯

「おかえりなさいませ」


 今日もアーネスト様は時間通りにエントランスに現れた。赤の双眸がさっとその場を見渡した後に私のところで止まって、少し鼓動が早くなる。


 どうやら僕は、屋敷に帰って君の呑気な顔が見えないと落ち着かないらしいからね。


 昨日もらった言葉が頭に思い出されて、ほぼ毎日お出迎えをしているのに妙に照れ臭い気持ちになってしまった。


「ああ、ただいま。階段からは落ちなかったか?」

「落ちませんでした。それに、今日は火をつける魔術を身につけることができたのです」

「ほう」


 真っ先に今日の成果を報告すると、アーネスト様が数度瞬きして、次いでその目を優しく細めた。


「これで君も魔術師の仲間入りだな、おめでとう」


 その言葉に、ぶわっと胸に喜びが満ちた。

 まだほんの初歩の初歩ではあるが、アーネスト様の世界に少し近づけた気がして嬉しい。そしてこんな些細な一歩でも認めてくれるアーネスト様の人柄に、またどうしようもなく好きだと言う感情が降り積もっていく。

 幸せを噛み締めていると、さらりと髪を撫でられた。


「君は意外と魔術のセンスがあるようだが、術の難易度が上がるにつれ負担も習得までの時間も増していく。無理せずゆっくり身につけるといい」

「はい」


 優しい触れ方。温かな目の輝き。そこから頑張る気力をもらえた気がした。

 その場に留まって、アーネスト様が猫達と一緒に2階へと上がっていくのを見送る。自然と口元に笑みが浮かんできた。


 こんな毎日が、ずっと続いたらいいのに。そんな願いを抱かずにはいられない。

 そっと忙しい鼓動を宥めるうちに、アーネスト様を部屋まで見送った猫達が帰ってきた。


「にゃん」

「はい、行きましょうか」


 そしてノワに遊ぶ時間だと声をかけられたので、一緒に猫部屋へと向かう。

 この夕食前の時間に猫達とひと遊びするのも、段々と習慣化してきた。猫じゃらしの扱いも上手くなったと思うし、ノワ以外の猫たちもだいぶ私に慣れてくれた。


 幸せとは、きっとこんな生活を指すのだ。

 私を置いて逝ってしまった家族も、今の私を見ると安心してくれるに違いない。失い傷ついた心がゆっくりと癒されていくにつれ、そう思えるようになった。








 いつものようにアーネスト様とおしゃべりしながら夕食を楽しみ、メインも食べ終えた後。いつもであればコーヒーや紅茶が出されるのだけれど、なぜかワイングラスが運ばれてきた。


「……これは?」


 訝しそうに尋ねたアーネスト様に、エーゼルさんが白ワインのボトルを手に簡潔に答える。


「本日王子殿下にいただきました」

「は?」

「え?」


 アーネスト様が驚いたようにこちらを見るが、私も驚いている。いつの間に来られたのだろう。全く気が付かなかった。


 いや、本人ではなく使いの人に届けさせたのかもしれない。

 グラスにワインを注がれながらあれこれ考えていると、エーゼルさんは言葉を続ける。


「昨日突然訪問されたことへのお詫びの品とのことでございます。このワインとフルーツタルトを頂戴し、ついでなのでセリーナ様のお書きになった王妃陛下への手紙をお預け致しました」

「……」

「……」

「セリーナ様の魔術習得祝いに良いタイミングでございました。フルーツタルトもすぐにお持ち致します」

「エーゼル、そういうことは早く報告しろ。というか、本人が届けにきたのか?」

「左様でございます」


 悪びれる様子もなく、エーゼルさんはアーネスト様のグラスにもワインを注いでいる。


「ほんの数分で帰られてしまいましたが。おや、わたくしとしたことが。王子殿下本人が来られたことは、口止めされていた気が致します」

「本当にいい性格だな、お前は」

「恐れ入ります」


 アーネスト様がなんとも言えない眼差しをエーゼルさんに向けて、ため息を吐く。

 エーゼルさんの言葉は要するに、口止めされているから、報告したことを王子殿下には内密にと言うことだろうか。


 アーネスト様がいい性格と評していたが、エーゼルさんは確かに穏やかな見た目に反して一筋縄ではいかない感じがする。そんな人がアーネスト様の味方でいてくれることには安心感を覚えた。


「また来るようなら、魔術師を取り上げるぞと言っておけ」

「かしこまりました」


 そしてまたひっそり異動の危機が訪れている護衛の魔術師さんに少し同情めいた気持ちを抱いていると、フルーツタルトも運ばれてきた。


 艶やかなフルーツが宝石のように盛り付けられたそれは、お腹がいっぱいな私にも美味しそうだと思わせる魔力がある。

 目を輝かせていると、アーネスト様がグラスを手に取った。


「ではせっかくだ。君の魔術師としてのスタートを祝うとしよう」


 その言葉にはっとしてグラスを手にすると、アーネスト様が微かに笑みを浮かべてグラスを掲げた。


「乾杯」


 真っ直ぐにこちらに向けられた赤の瞳が嬉しい。


「乾杯」


 同じくグラスを掲げると、なんだか大人になったような気分になる。いや、とっくに成人の年齢は過ぎてはいるのだけれど。

 そしてアーネスト様に倣って、私も恐る恐るワインを口にしてみた。初めてのお酒は、思ったよりも飲みやすくて美味しい。


「君、酒は強いのか?」


 大人気分を味わいながらちみちみ楽しんでいると、アーネスト様がはっとしたように私を見た。

 普通なら16歳で成人した後お酒も嗜むものだが、成人直前に叔父一家に引き取られてしまった私には、今までお酒を楽しむ機会なんてなかった。


「分かりません。初めて頂きましたが、美味しいものですね」

「……今日はそれだけにするように」


 おかわりを禁止されて少し残念な気持ちはするけれど、大人しく従う事にする。この後話し合いが控えているし、さすがに酔っ払って臨むわけにはいかない。それに私にはタルトがある。


 期待しながらフォークを入れて口へと運ぶと、フルーツの酸味と甘さ控えめのクリーム、サクサクのタルトがとても美味しい。さすが王子殿下がお持ちになるタルトだけはある。

 感心しながら楽しんでいると、私の様子を見たアーネスト様が穏やかに口を開いた。


「甘いものが好きなら、今後食後に出させようか?」

「え?」


 アーネスト様は甘いものが嫌いというわけではないけれど、好んで手を伸ばすこともしない。今までデザートがなかったのは、そのアーネスト様の嗜好に合わせてのことだ。

 なのに私が喜んで食べていたら、その習慣を変えてくれると言う。これ以上私を惚れさせてどうしようというのだろう。


「ありがとうございます。ではまたお祝い事があった際などにはお願い致します」

「その程度でいいのか?」

「はい。それに午後のお茶の時間には甘いものも頂いております。標準体型を飛び越えて太ってしまってはいけませんので」

「そんな心配は標準体型になってからするべきでは?」


 呆れたような視線をもらうけど、なんだか楽しい。お酒にではなく、この空気感に酔っている気がする。


「ですが油断はできません。この世には幸せ太りという言葉があるようです。私は今とても幸せなので、ぷくぷく太る可能性も十分にあります」

「はいはい。食事の量が僕に並んだら一緒に心配してあげるよ」

「なかなか基準が高いです」


 アーネスト様は朝こそさほど召し上がらないけれど、昼食や夕食の量は結構多めだ。細身の身体のどこに入っているのだろうとたまに不思議に思う。


「廃域掃討に行く時には食事の量ももっと多くなる。そうしないと身体がもたないからね。太りそうになったら君も魔術訓練を増やすと解決するだろう」

「太れば魔術訓練の時間を増やしてもいいのですか?」

「ああ。太れればね」


 できないだろうけど、とでも言いたそうな口調だけれど、私は魔術訓練の時間を増やしたい。


「頑張って太ります!」

「目指すなら健康を目指せ」

「健康的に太ります」

「ならいいんじゃないか」


 どうでもいいような会話にも、アーネスト様は律儀に言葉を返してくれる。それがすごく楽しい。

 いい気分のままワイングラスもデザートのお皿も空にして、一息ついた。


 アーネスト様は、僕の妻の座はそんなにいいものではないなんて仰っていたけれど、むしろこんなに良いものはないと思う。

 アーネスト様はたぶん、自分の魅力を分かっていない。新参者の私ですらそれに歯痒い思いがするのだから、きっとマリアさんやエーゼルさんはもっと悔しさを感じているのだろう。


 マリアさん達が私に好意的な理由は、もしかすると私がアーネスト様を褒め称えるからかもしれない。ふと、そんなふうに思った。


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