35:熱
しん、と部屋に沈黙が落ちる。
思いもしない問いに固まった思考。ただただ目の前で輝く宝石のような目を見つめていたけれど、徐々にその言葉の意味を理解するにつれ、全身の血が沸騰するように熱くなった。
だ、抱く? アーネスト様が、私を?
どうしようどうしよう。そんな対象に見てもらえているとは思ってもいなかった。少しは私のことを好ましく思ってくれているのだろうか。関係を進める言葉をもらえたのは嬉しい。でも幻滅されたらどうしよう。誰か今すぐ閨の知識を授けてくれないだろうか。
「あ、あのっ、ゆ、湯浴みのっ、湯浴みの時間をいただきたくっ。ああああと、まだ貧相な身体のままなのでアーネスト様にむぐっ」
「ストップ」
混乱のまま必死に言葉を紡いでいたのに、なぜかアーネスト様に口を塞がれた。こちらの口を手で封じたアーネスト様の頬がほんのりと色づいていて、私も更に落ち着かない気持ちにさせられる。
「もしもの話だっ。本当に手を出すわけじゃない!」
「……!?」
そ、それはやはりこんな貧相な身体の私では、そういった対象に見られないということだろうか。ショックを受けていると、やっとアーネスト様の手が口から離れた。
「……試して悪かった」
「あ……」
謝られて、そもそもアーネスト様に私の心を疑われていたことを思い出した。
「あの記事を憂いていたかと思えば、こんな時間に安易に僕を部屋に招き入れて、あまつさえドアまでキッチリ閉めるものでね。そのくせまるで意識しないどころか猫を仲間のように言う。自覚がないだけで、君の望みは妻になることではないのではと疑った。僕への感謝と庇護の継続を願う心を、恋情と勘違いしているだけではないか、と」
「ちっ、違いますっ」
確かに妻になりたいと騒いでいる割に、私はおままごとのような上辺だけの理想を見ていたかもしれない。
ドレスや宝石の件も、先ほどのアーネスト様の言葉も、直面して初めて周りが見えていない己に気がついた。どうしようもなく子どもで、アーネスト様を不審がらせるのも当然と言える。
「好き、です」
でもこの気持ちを疑われることは悲しい。
「部屋にお招きしたのは、少しでも長く一緒にいたかったからです。確かに思慮が足りませんでしたが、もしそうなったとして、私はアーネスト様に望んでいただけるなら嬉しいと思います。でも自分が女としての魅力に欠けることは理解していますし、ひ、貧相ですし。実際アーネスト様も、手を出さないとおっしゃいましたし」
話しているうちに先程ちょっと期待して肩透かしを食らったことを思い出して、なんだか悲しくなってきた。けれどアーネスト様は、そんな私に呆れた眼差しを向ける。
「今僕に手を出されて困るのは君だろう? その不健康な身体で万一子を宿したらどうする気だ。僕は君と子どもを心中させる気はないぞ」
「あ……」
「だが、君の気持ちはよく分かった。君は浅慮だが、僕を喜ばせる術には長けているらしい」
ふいっとアーネスト様が顔を背ける。
僕を喜ばせる術。私がアーネスト様を好いて求めていることを、アーネスト様は喜んでくれるのか。
ムズムズとした嬉しさが胸に湧いてくる。
それと同時に、今までアーネスト様にもらった言葉やこの部屋やドレスのことが次々と頭に浮かんだ。アーネスト様と自分を比較して落ち込んで萎れていた心が、またふわりと希望に膨らむのを感じる。
そして、考えなしの自分に苦笑した。
アーネスト様と私の間に埋めようのない格差があるなんて、初めからわかっていたことだった。そして私よりずっと、アーネスト様はそれを理解している。
理解した上で、それでも私にこうして居場所を与えてくれているのだ。今更私が落ち込むなんて、おかしなことだった。
今朝頑張ろうと思ったばかりだったのに、こんなことではいけない。アーネスト様にいらないと言われるまでは、私はひたすら前に進めばいい。そう改めて自分に言い聞かせた。
まだ微妙に顔を逸らしているアーネスト様に、視線を向ける。
「アーネスト様を好きだと信じていただけたのなら、私は嬉しいです」
アーネスト様は先程、試して悪かったと私に謝った。でも裏を返せば、アーネスト様にとって私の心はそうしてでも知る価値のあるものなのかもしれない。
そう思うと、いくらでも試していいという気になってくる。
「アーネスト様の逃げ道を塞げたことを喜んで、頑張って押しかけ妻を目指します」
勢いのままそう宣言すると、アーネスト様が驚いたようにこちらを見て、次いでふっと笑い混じりの吐息をこぼした。
「なぜ急に開き直るんだ。君は本当に突拍子もないな」
「浅慮なもので」
「まぁ、ずっと落ち込まれるよりはいい。それにこの部屋もドレスも、君のために揃えたものだ。無駄にならないことを祈っているよ」
他人事のようなそっけない口調だけれど、その内容は私にここにいろと言ってくれているも同じだ。じんと感動して言葉を無くしていると、アーネスト様は少しこちらを見つめた後、すっとソファから立ち上がった。
「あっ」
もう帰ってしまうのかと立ちあがろうとした私の肩を、アーネスト様は片手で軽く抑えた。見上げた先には、揶揄うような楽しげな笑みが浮かんでいる。
「どうやら僕は、屋敷に帰って君の呑気な顔が見えないと落ち着かないらしいからね。だからもしまた殿下が来たとしても、今度は殿下の相手より僕を優先するように」
「えっ!? う、頑張り、ます」
すごく嬉しい言葉と無理難題を同時にもらってしまった。混乱する私に、アーネスト様は追い打ちをかけるようにその顔を近づける。
綺麗な赤の輝きにどきどきしていると、優しく頬を撫でられた。
「期待しているよ」
その言葉と共に宝石のような輝きがふっと隠れて。
あ、と思う間もなく。
私の唇に、柔らかい温もりが触れた。
「……っ」
それはほんの一瞬。
まるで幻のようにすぐ離れてしまったけれど、そこから与えられた熱が全身を駆け巡り、カッと燃え上がる。
心も身体もすごく熱い。灯された強い感情が私を揺さぶる。信じられないほどに嬉しくて、嬉しすぎて、言葉が出てこない。
真っ赤になって固まった私を見て、アーネスト様が満足そうにくっと笑った。
「おやすみ」
そしてあっさりと、私のそばから離れていく。挨拶すら返す余裕のない私を置いて、アーネスト様の姿はすぐにドアの向こうへと消えていった。
静けさが部屋に満ちる。
それとは対象的に、バクバクと鳴る心臓の音が全身に響いて少しも落ち着けない。
無意識にアーネスト様が触れた唇に手をやった。ここに確かに、アーネスト様が口付けをくれた。
「〜〜〜っ」
どうしようどうしよう。叫び出したくなるほどの嬉しさが込み上げてくる。
こんなことをされたら、私は本当に殿下を放り出してアーネスト様のお迎えに行ってしまうかもしれない。頭の中はアーネスト様のことでいっぱいで、もう何も考えられない。
「うぅ……」
行儀悪くソファに突っ伏して、不意打ちされた衝撃に耐える。
こんなにどきどきさせるなんて、どういうつもりだろう。アーネスト様の手のひらの上でコロコロ遊ばれている気がするけれど、それさえ幸せと思ってしまう。
もうどうにでもしてほしい。
そしてなかなか顔から熱が引かない私は、結局マリアさんが部屋を訪れるまでそのままソファで悶えていて、悲しいことに本気で熱があるのではないかと心配されてしまった。こんな衝撃的なことなんてそうそうある訳がないので許して欲しい。
なんて思っていたけれど、新たな衝撃がその翌朝にやってきたのだ。
*感想ありがとうございました
アーネストが優しいのはセリーナにだけで、他所のご令嬢方には恐れられているので大丈夫なはず!
*いつもいいねくださる皆様嬉しいです
ありがとうございます!




