33:押しかけ妻
ピシッと音がしそうなほどに凍りついた室内の空気。
こんな迫力のあるアーネスト様を久しぶりに見たなと思いながら、お出迎えの時間に遅れてしまった事に思い至った。
「おかえりなさいませ」
立ち上がってアーネスト様の近くへ向かう。
するとアーネスト様は私の顎に指をかけて、まっすぐに私の顔を覗き込んだ。
「ああ、ただいま。ところで顔を赤らめるような何を話していたのかな? 正直に言ってごらん」
嘘は許さないという強い視線を受けて、ますます顔が赤くなった。でもアーネスト様を前に誤魔化す事なんてできる気がしないので、問われたままに事実を口にする。
「ア、アーネスト様の好きなところを、殿下にお話ししておりました」
「……」
一瞬の沈黙の後、アーネスト様は私から手を離すと何事もなかったかのように王子殿下に視線を向けた。
「さて、僕は今から新聞社へ行くべきなのかな?」
「落ち着けアーネストっ、誤解だ。私は君達をどうこうしたくて来たのではない! ただ君達が結婚秒読みだと言う記事が出たせいで母上が彼女に会いたがったから、それを止めるために私が事実確認に来ただけなんだ」
「なら僕のところへ来ればいい話では?」
「いや、母上は彼女が本当にアーネストのことを好きなのかも心配しているんだ。だから私が確かめてくると言ってしまったんだが、たぶん今日のことを話せば暫くは落ち着くと思う」
「本っ当に君たち親子は厄介この上ないな」
「いや、その、すまん……」
アーネスト様にキツく睨まれて、殿下が小さく謝った。
しばらく殿下に鋭い視線を送っていたアーネスト様だが、やがて苛立ちを逃すように大きなため息をついた。
「セリーナ」
「はいっ」
「この殿下に何か無神経なことを言われた訳ではないな?」
殿下を前に酷い言い方だが、アーネスト様が私を心配してくれているのは嬉しい。
「はい」
「そうか」
「なぁ、私と彼女とで対応が違いすぎないか?」
殿下が悲しそうにそう仰るが、アーネスト様はそれを黙殺すると殿下の後ろに控えていた魔術師2人に視線をやった。これまで気配を殺していた2人に、微かな緊張が走る。
「最近僕は思うんだ。殿下に転移の可能な魔術師を付けるのは失策ではないかと。そこの2人。異動先の希望があるなら聞いてやろう」
「待てアーネスト! 言っておくが、今日私がここに来なければ母上は王宮への招待状を彼女に送っていたからな!? それなら私が来た方がマシだろう」
「招待状なら僕が突っぱねられるが、殿下は拒否する間も無くいらっしゃるからね。移動手段を取り上げるのはいい考えだと思うんだけど?」
「母上の行動力を甘く見ると痛い目に遭うぞ! 招待状ではなく迎えの馬車を手配されても知らないからな!」
アーネスト様と殿下がやり合う様は、失礼な言い方かもしれないが少し子供っぽい。やはり2人は仲が良いのだとほっこりしていると、不意に赤の瞳が私に向けられた。
「君は何を呑気に笑ってるんだ……」
「すみません、お二人は仲がよろしいのだと微笑ましく思っておりました」
「この場面を見てよくそんなセリフが出てくるな」
脱力したアーネスト様を見て、殿下は今が好機とばかりに素早く席を立った。
「まぁ君達が良い関係なのはよく分かったし、私はそろそろ母上に報告に行こう。そうすればしばらく平穏に過ごせるはずだ。だから、季節外れの人事異動なんて考えないように! お前達、帰るぞっ」
殿下が後ろの魔術師に声をかけると、2人も逃げるかのようにその声に応えて、瞬きの間に3人の姿は消えた。
あれだけ賑やかだった部屋に、しんと沈黙が落ちる。
「はぁ」
小さなため息にアーネスト様を見上げると、なんだか疲れた顔をしていた。
どう言葉をかけようか考えていると、何かいう前に私の背にアーネスト様の手が当てられて扉の外へと誘導される。そこにはエーゼルさんが待ち構えており、何事もなかったかのように夕食のご用意ができておりますと告げられたのだった。
「エーゼル、今日の新聞に問題のある記事はなかったのか?」
「特段ございませんでした」
夕食時。
アーネスト様の問いにサラッと答えたエーゼルさんを見て、結婚秒読み記事は問題のある記事には分類されなかったのかと意外に思いながら成り行きを見守っていた。けれどアーネスト様は胡乱な眼差しをエーゼルさんに向ける。
「記事を見た王妃陛下が誤解するような内容だったようだが?」
「仲睦まじく家具を揃えていらっしゃったお二人のご様子から、結婚の憶測を書いただけの記事でございます。王妃陛下のお心につきましては、わたくしめには想像もつきません」
「……」
「いずれにしましてもセリーナ様がここに滞在される以上、似たような憶測は生まれましょう。お二方の名誉を意図的に傷つけるようなもののみ対処すればよろしいかと」
それを聞いて、少し不安になる。私は単純に部屋を作ってもらえたことを喜んでいたけれど、曖昧な立場のままここに留まることは、アーネスト様にとって不都合を生じるのではないだろうか。
以前はアーネスト様が私を虐げているなんて記事が出るくらいなら、真実を取材してもらいたいなんて考えていた。けれど、それはそれでこういった憶測や興味の対象になってしまうらしい。人の注目を浴びると言うのはこんなにも大変で思い通りにならないものなのかと、ため息が出そうになった。
でも、迷惑になるからここを出て行きますと言う勇気は出てこない。卑怯でちっぽけな自分が嫌になる。
まるで押しかけ妻ではないかとひっそり落ち込んでいると、アーネスト様がこちらを見て少し目を細めた。
「おや、随分大人しいようだがどうした? 新聞記事が気に入らないのかい?」
「いえ……。自分がアーネスト様の逃げ道を塞ぐ押しかけ妻のようだと理解して、申し訳なくなっただけです」
「押しかけ妻?」
ポカンと口を開けたアーネスト様が、次いで堪えきれないと言う風にくっと笑いを溢した。
「なるほど、押しかけ妻とは。面白いことを考えるものだ。そもそも君を連れて来たのは僕だったはずなんだけどね。気にするなら自分の評判を気にするべきでは?」
「私には守るべき評判などございませんし、アーネスト様のお相手として名が載ることはむしろ名誉なことではないでしょうか」
「いや、なんの名誉になると言うんだ」
呆れた眼差しをもらうけれど、私にとっては嬉しい事だ。アーネスト様にとっては不名誉なことかもしれないけれど。
視線を手元に落として、とりあえず食事を口へと運ぶ。
祝賀会の日から今まで、アーネスト様の側にいたい、妻になりたいと思って行動していた。私にとっては、確かにここにいることは幸せなのだ。
けれど今更、本当にそれでいいのかと漠然とした不安が生まれてくる。
殿下のお話でアーネスト様の配偶者探しに色々難しい点があることは理解したけれど、ずっと自分で自分の道を切り開いてこられたアーネスト様と、小さな世界で引きこもっていた世間知らずの私が釣り合うとは思えなかった。
私という存在は、アーネスト様にとってお荷物にしかならないのかもしれない。
最近ぐっと距離が近くなったように感じて浮かれていた心が、しおしおと萎んで沈んでいく。アーネスト様も何やら考え込んでいるようで、久しぶりに夕食の席にどことなく重たい沈黙が落ちた。
食欲も失せてくるけれど、せっかく作ってもらったものを残すのも申し訳ない。なんとかお腹に詰め込んで食事を終え、ほっと息を吐く。
そして少しぼぅっとしながら食後の紅茶を飲んでいると、アーネスト様がじっとこちらを観察している事に気がついた。
「……」
綺麗な赤の双眸と目が合う。
でも何か言いたいのに言葉が出てこない。ただその瞳を見ていると、アーネスト様がすっと席を立った。
「ほら、食事が終わったなら部屋に戻るぞ」
その言葉にハッとする。
そうだ。アーネスト様の部屋の近くに、私の部屋を作ってもらったばかりだった。しかもまだそのお礼も伝えていない。
「あっ……」
急いで立ち上がったけれど、アーネスト様はすでに歩き出して食堂から姿を消そうとしている。せめてお礼だけでも伝えたくて、猫達と共に大慌てでその背中を追いかけた。




