30:好きだなぁ
ガシャンッとすぐ横の壁に食器がぶつかって粉々に砕け、ひっと悲鳴が漏れた。
「引き取られた分際で賢しげな口をきくな! 黙って言う事を聞けばいいものをっ。二度と意見しようなどと思うなよ!!」
「も、もうし、わけ……」
思わず腰が抜けてへたり込んだ私を、怒鳴りつけた叔父が憎々しげに睨む。
父も母も兄も、穏やかで優しい人たちだった。叱られる時でさえ理不尽に怒鳴られることなどなくて、生まれて初めて受ける仕打ちに心の中が恐怖で塗り潰される。怖くて怖くて仕方がない。
領地のことも祖母のことも使用人の扱いも思うところがある。けれど、再度意見する勇気が消えていく。
恐怖に蹲る私を、遥か高みから睨みつける叔父と嘲るように笑う叔母と従姉妹。
その構図はそれからずっと、変わることはなかった。
はっと目が覚めて、一瞬ここがどこか分からなくなる。
息を潜めて辺りを伺ううちに、やっと見慣れてきた天井と身体を包むふかふかのベッドに気がついて、大きく息を吐いた。
昨日のことで以前の記憶が呼び覚まされたのか、嫌な夢を見てしまった。もうすぐ夜が明ける時間のようなので、再び寝ることは諦めてベッドから降りる。
引き寄せられるように昨日アーネスト様と並んで座ったソファに近づいて、そこへ腰掛けた。
おや、僕がいてもまだ怖いとでも?
そう言って安心するよう言葉をかけてくれたアーネスト様を思い出すと、冷えていた心に甘やかで優しいものが広がっていく。
「大丈夫」
昨日マリアさんやフリエさんと楽しく整えた部屋。アーネスト様が与えてくれた、私の居場所。
「大丈夫」
君が本物の妻になる時には、部屋は僕の隣にするから、ね?
そう言って私を揶揄った時の、楽しげに輝いたガーネットの双眸。
「大丈夫」
優しく髪に触れた手。何かあれば僕に言えと気遣ってくれる言葉。向けられる優しさが心の隙間を埋めていく。
ああ、好きだなぁ。
不意にそんな言葉が胸に浮かんだ。
こんなに素敵な人が、この世に2人といるわけがない。過ごす時間が増えるごとに、どんどん気持ちが大きくなってしまう。
初めの頃のように、使用人でもいいからこのお屋敷にいたいなんて、もう思えない。きっとアーネスト様が他の女性と寄り添う様子を、私は見ていられないだろう。苦しくて逃げ出すに違いない。
嬉しい時、悲しい時。それを伝えたいと思い浮かべる顔は、以前は両親のものだった。今は鮮やかな赤の双眸が脳裏に浮かぶ。
今私の心を支えてくれているのは、間違いなくアーネスト様だった。
「頑張ろう」
魔爵家の者として持つべき常識を持たない私は、マリアさんに聞いたり本を貸してもらったり、少しずつではあるけれどそれを学んでいるところだ。魔術もまだ使えないけれど、きっとすぐに使えるようになってみせる。
そうすれば、もう叔父達だって怖くないかもしれない。近づかれたら髪を燃やしてしまうことだってできるのだ。
「よし」
前向きに、前向きに。なんと言っても今日は『私の部屋』に移る日なのだから。アーネスト様のいる部屋にもずっと近くなる。もう怖いものなんてない。
立ち上がって、窓辺へ向かう。
サッと開いたカーテンの先は、新たな1日の始まりを告げる朝の光が広がり始めていて、希望を胸に取り込むようにすぅっと大きく、息を吸いこんだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
すっかり自分で気を立て直した私は、今日も麗しいアーネスト様を視界に収めてさらに気分が良くなった。好きな人を朝から見ていられるなんて、素晴しく恵まれた環境だ。
ふわふわと喜んでいると、新聞から顔を上げたアーネスト様が微かに目を細める。
「なんだ、新しい部屋に移るのがそんなに嬉しいのか?」
「はい。とても楽しみです」
そう返すと、目の前の美しい顔に微かな笑みが浮かんだ。
本当はアーネスト様を見ているだけで嬉しいのだけれど、それを言うと視線を逸らされそうなので無難に返事をする。部屋が楽しみで仕方ないのも嘘ではない。
アーネスト様は私が喜んでいると満足そうにすることが多くて、そんなところもとても好きだ。
そんなことを思ううちに朝食が運ばれてきて、2人で食べ始める。
初めの頃は仕方なさそうにしていた朝食も、今では当たり前のように共にとってくれる。空気は和やかで、その日を頑張るエネルギーを私はそこでもらっている気分になるのだ。
「部屋には大抵のものは揃えているが、何か不足があれば僕にでもマリアにでも言うといい」
「はい、ありがとうございます」
大抵のものとはなんだろう。ペンや便箋なども揃えてもらっているのだろうか。
昨日マリアさんが、午後にはお部屋を移れるように致しますと言ってくれていたけれど、本当に待ち遠しい。
そんな嬉しい気持ちのままに朝食を終え、いつものようにアーネスト様をお見送りにいく。
「いってらっしゃいませ」
「ああ。いってくる」
穏やかな声を残してアーネスト様が姿を消した後は、少し寂しい思いがする。一緒にお見送りをしていたノワを抱き上げて、その温かい体に顔を埋めた。
とても癒されるけれど、いつまでもこうしてはいられない。今日は魔爵家の親戚関係図を頭に入れようと思っているのだ。
知らないことは沢山ある。つまり学ぶべきことは沢山あるということだ。それでなくともこの4年間は貴族らしい生活をしていなかったし、マナー関係ももう一度おさらいすべきかもしれない。
来年の国王の生誕祭。アーネスト様が言ってくれたように出席させてもらえるのであれば、叔母達といた時のように壁際で押し黙って笑い物になっていていいわけがない。自信を持って振る舞うためには、それを支える知識が必要なのだ。
「ありがとう、ノワ」
大人しく癒しになっていてくれたノワにお礼を言って、そのまま猫部屋へと連れていく。
今、優しさと希望に包まれているからこそ、前を向いて未来を考えられる。そのことがとても嬉しい。
「ここに連れてきてもらえて、とても幸せね」
そう腕の中のノワに囁くと、にゃんと可愛らしい返事の後に、ぺろっと顔をひとなめしてくれた。思わずぎゅーっとその温かい体を抱きしめる。
きっとこの子も私と同じ。
まるで鏡に映ったように、私と同じ青紫の瞳が柔らかく輝き、満たされて優しい色を浮かべている。それはこの優しいお屋敷にいられるからこそ、滲み出てくるもの。
ずっとここに、いたいなぁ。その思いがまた強くなる。
そしていつか、少しでもいいからアーネスト様に何かを返したい。そしてもっと、その心に近づきたい。
本当に妻にしてもらえるのかは、まだ分からない。でもその夢を今こうして見せてもらえているだけで、十分過ぎるほどだった。




