27:私の居場所
「おかえりなさいませ!」
「ああ、ただいま。随分ご機嫌のようだが……。殿下の手紙は、君にとってそんなに嬉しいものだったのか?」
アーネスト様が帰ってきて早々。嬉しい気持ちのまま出迎えたら、訝しそうな顔をされてしまった。そういえば魔術、ではなく魔力のコントロールが上手くいった事ばかり頭に残って、殿下からの手紙を忘れていた。
「あ……、それについては、後でご相談させてください。私も意図を図りかねましたので」
「そう、か。手紙の件でないなら、魔術訓練で何か進歩でも?」
少し出鼻を挫かれたが、アーネスト様は私の言いたいことを察してくれた。その事にまた嬉しさが蘇ってくる。
「はい。術は使えませんが、とりあえず蝋燭に火を付けることができました」
「ほぅ?」
私の言葉を受けて一瞬驚きに見開かれたアーネスト様の目は、次いで優しく細まった。
「なるほど、君は随分と優秀なようだ。体調は?」
「変わりありません」
「それは何より。焦らずにゆっくり励むといい」
「はい!」
そしてアーネスト様は去り際にぽんと私の頭に手を置いて、いつものように猫達を引き連れて部屋へと向かっていった。
小さな進歩ではあるが、アーネスト様が褒めてくれた事がこの上なく嬉しい。最後に触れてくれた手も優しくて、頬が熱をもつ。そして周りの使用人の皆さんからも温かい眼差しが注がれていて、照れ臭かった。
「旦那様、最近とても楽しそうですね」
「ええ」
フリエさんとマリアさんが小声で話した内容が耳に入って、心臓がどきっと大きく跳ねた。
アーネスト様は、私との日々を楽しいと思ってくれているのだろうか。そうであればとても嬉しい。私はアーネスト様と過ごす日々が、とても幸せなのだから。
「にゃ」
意識を他所にやっていると、足元から鳴き声がして下を向く。
そこにはアーネスト様のお迎えを終えたノワが遊べというように座っていて、思わず顔が綻んだ。
「お夕飯まで遊びましょうか」
「なーぅ」
そうしましょうとでも言うように猫部屋へと向かうノワについて、私も歩き出す。次の祖母に宛てた手紙には、ノワのことも登場させようかななんて、そんなことが頭に浮かんだ。
「殿下の手紙の件だが、意図としては悪くないように思う。あのカエル一家に領地を任せるのを不安に感じて、優秀な婿を当てがおうと言う魂胆らしい」
「優秀な婿を……」
夕食時。わざわざ殿下に確認を取りに行ってくれたらしいアーネスト様が、あの手紙の真意を教えてくれた。
確かに叔父は領地経営のほとんどを領地の使用人に丸投げしているようだし、マリエラも自分の領地について学ぶ気はなさそうだ。
今までは奇跡的にそれで大きな問題なく過ごせていたようだが、この先どうなるのかは不安を感じる。
不作や災害等が起こった際には責任を取れる者の指揮が必要になるし、対外対応全てを使用人に任せるわけにもいかない。このままでは他領から足元を見られたり、監視役のいない領内で不正や横暴が蔓延る可能性も高かった。
そう考えると、マリエラに優秀な婿をという殿下の提案はありがたく思えてくる。
地爵位は基本的に男子が継承するが、今のサバスティ家のように直系が女子のみの場合は女性当主となることもあるし、近しい筋から選んだ婿や養子に爵位を継がせることもある。殿下の選ばれた婿が当主となってくれれば、きっとサバスティ領にとっては最も良い結果になるだろう。
「まぁ悪く言うと婿に家を乗っ取られる可能性もあるが、あのカエル一家よりは遥かにマシな人物を選ぶはずだ。そもそも君はあれらとは縁が切れているわけだし、殿下の話に乗ったところで悪いようにはならないだろう」
「そうですね。知っていることを手紙にまとめて、王子殿下へ縁談を進めてもらえるようお願いしようかと思います」
「ああ。手紙を書き終わったら僕が届けにいく」
「ありがとうございます」
肩の荷が降りた気がして、力が抜けた。なんだかアーネスト様の手を取ってから、不思議なほどに全てが良い方向へと向かっているように思う。
出会った時は死を司る神のように冷徹で血の通わない美しさだなんて思ったのに、今ではまるで慈悲深い月の神のように感じる。
「また君は何か変なことを考えていないか?」
じっとアーネスト様を見つめていると、呆れたような視線が向けられた。
「いえ、アーネスト様は神様みたいだと思っただけです」
「また妙なことを。僕を信奉しようとする変わり者なんて、君くらいだろうね」
「アーネスト様を独り占めできるなら嬉しいです」
「っ、君は訳の分からないところで前向きだな」
ふいっと視線を逸らされてしまったが、最初の頃に比べたら、すごく自然にアーネスト様と会話ができるようになった。
食事の時も、会話している時間が長くなって、こうした冗談めいたことも気軽に口にできる。きっかけはと問われると明確ではないけれど、ガゼボで話し合った日から少しずつ、アーネスト様の態度が柔らかくなったように思う。
私もさっきの反応はたぶん照れているのだろうな、と分かる程度にはなった。私がアーネスト様を称賛すると、アーネスト様はさっと姿を隠す事が多いのだ。初めの頃は機嫌を損ねたかと落ち込んでいたけれど、最近では微笑ましく思う余裕すらある。
優しい沈黙に身を委ねていると、ふとアーネスト様が思い出したように私の方を見た。
「先日選んだ家具だが、明日搬入されることになった」
「本当ですか!? 明日がとても待ち遠しいです」
もうすぐこのお屋敷に私の部屋ができる。表情に喜びが溢れてしまったのか、アーネスト様は少し目を細めて言葉を続けた。
「まだ部屋には古い家具も残っているが、明日の朝にでも中を見て配置を考えるといい。搬入は午後だ。荷物の入れ替えもあるから、実際部屋に移るのはその翌日になるだろう」
「はいっ」
「そういうわけで君もマリアも忙しいだろうから、魔術訓練は一日中休むように」
「……はい」
せっかく火をつけられたのに残念ではあるが、確かにマリアさんも忙しいだろう。我儘を言うわけにはいかない。それに部屋のことを考えるのは、単純に嬉しい。
「ものすごく楽しみです」
アーネスト様が自ら動いて整えてくれた私の居場所が、もうすぐできる。大袈裟なとでも言いたそうな視線をアーネスト様からもらうけれど、私にとってはとても大きな事だ。
ここにいてもいい、という肯定。
それは無条件に愛してくれていた家族を失い、叔父一家に辛くあたられていた私にとっては、二度と手に入らないかもしれないと諦めかけていたもので、それでもどうしようもなく焦がれていた尊いものだった。
今はただ、純粋に喜びたい。
平穏な日々も、大切な人も、ある日突然、あまりに呆気なく、跡形もなく消える。
その事を今は考えたくない。あの恐怖を忘れていたい。きっと大丈夫、幸せになれる。
そう思わないと歩けなくなりそうだから、不安は押し殺して見ないふりをするのだ。




