番外編2
「き、昨日のあれが自発的なものだったと? ほ、本当に?」
信じきれずに問い詰めるナイシェルトに、アーネストはやれやれというように言葉を返した。
「本当さ。どうにも、猫も人も拾って食べ物をくれた相手には恩義を感じるものらしい」
「いや、そうかもしれないが……。だがそもそも、昨日彼女は君の屋敷で働きたいとか言っていなかったか?」
「ああ、僕のそばから離れるのが嫌でああ言ったようだね。でも今は妻の座が魅力的に見えるらしい。僕が父親の腕を切り飛ばした事を教えてあげても食い下がるんだ。困ったものだよ」
ふふんと笑うアーネストに、ナイシェルトはしばし呆然としてしまう。連れ去られた彼女の反応も予想外だが、何より目の前のアーネストの様子も信じられない。
「アーネスト、君、もしかしてそれを自慢したくてわざわざここへ来たのか?」
思わず思ったことがポロリと口から出てしまう。
「……僕がそんなに暇に見えるかい?」
「だが、嬉しかったんだろう」
そう言いながら、ナイシェルトの胸にも熱いものが広がる。
「なんだ、そうだったのか。君を理解して求めてくれる女性が現れたなら、これほど嬉しいことはない。すぐに結婚、いやまずは婚約の……」
「おやおや、殿下は翌朝の新聞を自分一色に染めたいらしい」
ナイシェルトの言葉を、冷たい刃のような言葉が断ち切る。
「あ! それっ」
いつの間にかアーネストの手の内にある見覚えのある日記帳に、ナイシェルトの顔がこわばる。
「ほんの数分前の言葉さえ忘れてしまわれるとは、これが未来の王太子かと思うと情けなくて涙が出るね」
「ぐっ、だ、だが、君だって彼女のことを悪いようには思っていないんだろう? なぜ関係を進めようとしないんだ」
「殿下はお忘れかもしれないけれど、拾ってまだ1週間も経っていないんだ。しかも相手は殿下も調べた通り随分と不遇な目に遭っていたようでね。別に僕でなくとも、拾って食べ物をやればコロッといくさ」
皮肉げな笑みを浮かべるアーネストに、ナイシェルトは一瞬言葉に詰まった。
「なら、どうする気なんだ?」
「さあね。別に僕は結婚を急がなければならない理由はない。彼女の目が覚めるのを待っていたって、なんの問題もありはしないんだ」
「アーネスト、それは……」
好かれたことを内心喜びながらも、それがいつか消えるものだと考えているのか。先程温まったナイシェルトの心に、ヒヤリと冷たい悲しみが染み入ってくる。
「おや。なぜそんな顔を? 別に僕は、必ず彼女が去っていくとも言ってはいないよ」
ナイシェルトがあまりに情けない表情をしていたのか、アーネストの顔に苦笑が浮かぶ。
「でも、それを判断するにはまだ時間が足りていない。彼女にも、僕にも」
手にした日記帳を玩びながら、アーネストが静かな声で続ける。
「だから今、外から余計なお節介をされる事は避けたいんだ。結婚した後、こんなはずじゃなかったと嘆く女を、殿下はそばに置きたいかい?」
「そう、だな」
アーネストの言いたいことを理解して、ナイシェルトは少し落ち込んだ。父が見守れと言った意味も理解する。今自分があれこれ動いたとして、きっとアーネストの為になんてならないのだろう。
「最初に言った通り、ここへ来たのは余計なことをされない為さ。黙っていたとしても、彼女を長く屋敷に留めれば勝手な憶測で動き始めるだろうからね」
呆れた口調のアーネストに、返す言葉もない。
「ああ、もし王妃陛下が動きそうならこう言って止めてくれ。アーネストは青春を楽しんでいるのだから、それを取り上げるのはかわいそうだ。恋人達の邪魔をしてはいけない、とね。あの人はそう言われたら喜んで見守るはずだ」
「……わかった」
母の扱いも良く心得ているアーネストに、ため息が出る。なぜ自分はアーネストのように相手の心情をうまく読み取れないのだろう。彼のために何かしたいと思っても空回りばかりだ。
「それと、殿下に一つお願いがあるんだ」
「お願い?」
珍しい言葉に、知らず俯いていた顔を上げる。日記帳の表紙に視線を落としながら、アーネストは感情の読めない声で言葉を続けた。
「先程言った通り、彼女が僕の屋敷から逃げ出したくなる可能性もゼロではない。だが彼女は帰る家もなく、これまでの状況から察するに頼れる者もいないのだろう。だから昨日彼女に示した別の縁談という逃げ道を、彼女から取り上げないで欲しい」
「え……」
「頼めるか、ナイシェルト」
赤の双眸がまっすぐにこちらを見て、ナイシェルトは息を呑んだ。アーネストが自分に本気の頼み事をするなんて、滅多にない。こうして昔のように名を呼ばれるなんて本当に久しぶりで、だからこそこの頼み事の重さも分かる。
「…………わかっ、た」
その内容にすごく複雑な気持ちが渦巻く。けれど断るなんて、ナイシェルトにはできなかった。
「ああ、頼んだよ。まぁ、彼女がこのまま僕の虜でいる可能性だって十分にある。殿下のお手を煩わせずに済むことを祈っているよ」
軽い口調を取り戻したアーネストが部屋の端へと足を向けて、手に持っていた日記帳を棚に戻す。
そしてこちらを向くと、見慣れた皮肉っぽい笑みがその顔を彩った。
「では、僕の用事は済んだことだしそろそろお暇するとしよう。殿下の日記が世間の注目の的とならないよう、くれぐれも注意することだね」
その言葉を残して、アーネストの姿が闇に包まれる。一瞬後には、ナイシェルト一人だけが書斎に佇んでいた。
しんと静まり返った部屋。
一つため息をこぼして書斎机に近づく。そこにはサバスティ家の調査書類が無造作に置かれて、その一枚をなんとなく手に取った。
「…….本当に、酷いやつだ」
思わず愚痴が漏れた。滅多にない本気の願い事が、自身から逃げようとする女性の手助けをしてくれだなんて。しかもアーネストだって、彼女のことを好意的に見ているはずなのに。なんだかやるせなくて心が塞ぐ。
でも同時に、こんなふうにアーネストの心に入ってきた彼女に期待もしていた。優しく親切だとアーネストのことを評した彼女。このままそばでアーネストの心を癒し支えてくれたなら、どんなに嬉しいことだろう。
見守ることしかできないのだろうが、ただ待つ身というのはとても辛い。何かアーネストとの約束を破らない範囲で、自分ができることはないだろうかと性懲りも無くそんなことを思ってしまう。
いやいや、ダメだ。
予想とは違う形になったとはいえ、約束は約束。いらない事をしないよう気をつけないと。それに、もし本気でアーネストが彼女を欲しいと思ったならば、外部の手を借りずとも自分で捕まえるだろう。
色々な思いをため息で逃して、手に持っている資料に再び意識を向ける。そして、ふと思った。そういえば、彼女を虐げていたサバスティ伯爵家の面々はどうしているのだろう。
カエル化の魔術が解けた後、床に倒れた3人を治療院に送り込んだが、翌日に意識を取り戻してからひどい筋肉痛に襲われていたそうだ。それ以外不調は見受けられなかったので即日退院となり、以降屋敷に引きこもっているようだが、新聞を見るに記者などに囲まれて対応に苦慮しているのかもしれない。
あのどうにも無能そうな当主とその娘を思うとうんざりするが、ふとひらめいた。あの娘に誰か良い人を紹介してやっても良いかもしれない。婿入り可能かつ野心ある優秀な若者が、何人か脳裏に思い浮かんできた。
紹介した者がうまくあの娘に取り入って、婿入りした後に伯爵家の実権を握ってくれたなら言うことなしだ。これならアーネストとの約束に抵触しないし、セリーナも実家の状態が良くなるのは悪い気はしないだろう。
自分の気を紛らわせるのにもちょうど良いし、計画を進めるとしよう。そう決めたナイシェルトは、早速候補者のリストを作り始めたのだった。




